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疲れた日の癒し、オムライスを夢見て

 王都からの旅程を終え、重たい扉が内側へ押し開かれる。磨き込まれた玄関石に、車輪の土埃がふっと落ちた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 整列した少しだけ増えた使用人たちの声が重なり、最前に立つアイシャが一歩進み出る。凛とした所作のまま、彼女は目だけで細やかな疲労を見抜いていた。


「ただいま戻りました。皆、留守をありがとう」


 リリスは笑みを作る。けれど外套の重みを下ろした瞬間、肩のこわばりがわずかに解け、胸の奥に溜め込んだ硬い空気がゆっくり吐き出されていく。王都での応対、長い馬車の揺れ――その余韻がまだ身体の芯に残っていた。


「まずはお部屋でお休みを。温かいお茶をご用意します」

「お願い、アイシャ」


 階段を上りきるまでの数十歩が、思いのほか遠い。自室に入ると同時に、リリスは帽子を外し、手袋を外套の上に重ねた。窓を少しだけ開けると、庭のラヴェンダーが夜風に揺れ、薄紫の香りがそっと入り込む。胸の高さまで息を吸い、背もたれに体を預ける。


 紅茶の湯気が視界をやわらかく曇らせたころ、卓上の手帳に目が止まった。王都で走り書きしたメモ――提出書類の控え、今後の連絡窓口、返答待ちの案件。並ぶ文字をしばし見つめ、そっと閉じる。

(今日は、片付けるより、ほどく日)


 湯飲みを置いた指先に、ふと馴染んだ感覚が戻ってくる。家の温度。壁の木目。ここにしかない匂い。


「少し横になったら、台所へ行くわ」

「承知しました。足元にお気をつけて」


 短い休息を挟み、靴音を静かに落としながら廊下に出る。夕餉前の屋敷は忙しないはずなのに、どこか拍がそろっている。遠く、鍋をかき混ぜる金属音。かすかなオイルの香り。


 厨房の扉の前で一度だけ深呼吸をする。重心を整え、指先の冷えをこすり合わせる。扉を押すと、灯のあたたかさが一気に頬へ押し寄せてきた。


「戻ったのね、リリス」


 振り向いたリナの笑顔に、肩の力がもう一段落ちる。壁際の棚には採れたてのトマトが赤を並べ、乾かしたハーブ束が吊るされていた。


「ただいま。……ねえ、今夜は、心がふっと軽くなるものが作りたいの」


 言葉に出した途端、胸の奥で小さな灯が点る。王都でまとった鎧を一枚、ここで脱いでいく。さあ、台所へ。ここから、日常へ還る。


 作業台の上には、陽の落ちかけた窓から差し込む斜光が一本の帯になって伸びていた。銅鍋の腹がそれをやわらかく跳ね返し、棚に並んだハーブ束の影が壁紙に揺れる。


「今日は気持ちが上がるもの、ね。……だったら、トマトの力を借りましょうか」


「トマト、いいわね。酸味で疲れがほどけるし、色も可愛い」


 リナは短くうなずくと、指先で作業台を軽く叩いた。乾いた音がひとつ。


「候補はいくつかあるけれど――あなたの顔を見て決めた。ふわとろ卵の“包みもの”。ソースは私が預かるわ」


「……つまり、オムライス」


「そう。問題は“ライス”。けれど、それは次の段でゆっくり詰める。今の段は、決めることを決め、整えることを整える。それが一番の近道よ」


 リリスは思わず微笑んだ。段取りを刻むこの口調は、王都の応接で強張った身体を、台所の時間へそっと連れ戻してくれる。


「ありがとう、リナ。じゃあ、役割は――卵は私。ソースはあなた。いい?」


「異議なし。トマトは温と冷の二層でいく。ベースはやわらかい酸味の煮詰め。仕上げにフレッシュを少量。煮込みの香り柱は玉ねぎとにんにく。甘みは玉ねぎの汗を信じて、砂糖は最小かゼロ。酸の角が立ったら蜂蜜を一滴。それで丸くする」


「蜂蜜は、今日なら使えるわ。王都帰りのご褒美くらい、許されたい」


「許可された。――在庫、見るわね」


 リナは素早く戸棚を開き、籠を引き寄せる。赤が艶やかに転がった。傷みの少ない、張りのある皮。爪で軽く弾くと、低い音が返った。


「良品。湯むきする。玉ねぎは……中玉四つ。にんにくは一片で足りる。オイルは?」


「菜種油と、バター。……ギーは少し」


「ギーは卵側に温存。ソースは菜種油で立ち上げる。バターは最後に香りの艶出し、ひとかけだけ。塩は細粒、胡椒は白。ハーブは?」


「タイムとオレガノ、バジルは乾燥。ローリエは庭のを天日干ししたものがある」


「ローリエ一枚、タイム一枝分。バジルは仕上げで香りを乗せる。――水分はトマトの持ち水を信じる。詰めたいから、足さない」


 テンポよく並ぶ単語が、心地よい打楽器みたいに台所に跳ねた。リリスは袖を軽くまくり、卵籠を抱き上げる。丸い黄身が透けて見えるような、瑞々しい殻。


「卵は十……十二。ふわとろにするなら、一人二個半くらいで計算。私とあなた、アイシャ、あと……ルーファスとルシェルも呼ぶ?」


「呼びましょう。今日は“戻ってきた日の味”よ。席は多いほうがいい」


 言いながら、リナの目が笑った。リリスの胸の奥に、熱の小さな灯がともる。帰ってきたことを、味で確かめる。そんな単純で、確かな儀式。


「卵側の段取りも決めるわ。火は弱めの中火から始めて、フライパンは二面。片方で常に温度を保っておく。油は最初に薄くなじませて、キッチンペーパーで一度拭う。二度目にほんの少し足して、卵液を入れたら――」


「触りすぎない。縁だけをほどく。真ん中は息をさせて、半熟の波を残す。……王都で固めのオムレツばかり見ていた反動かしら」


「反動でいい。あなたが食べたい温度にするのが正解よ」


 アイシャが後ろから静かに近づき、盆を差し出す。濡らして絞った布、温かい湯、清潔なボウル、泡立て器。整えられた道具の列に、リリスは自然と背筋が伸びた。


「助かるわ、アイシャ」


「本日のご指示、要点を確認します。――卵はお嬢様、ソースはリナ様。わたくしは器の温め、配膳、必要な洗いに回ります。小皿に刻みハーブを用意、蜂蜜は小瓶で待機。胡椒は挽きたてがよろしいですね」


「ええ、白胡椒をお願い」


 アイシャが足音ひとつ立てずに離れると、台所にふたたび三人だけの呼吸が戻った。鍋肌へ注がれた水が、低くやわらかく鳴り始める。


「……さて、問題の“ライス”。ここで深入りすると、段が崩れる。今日は発想だけ出しておきましょう」


「そうね。押し麦はあるけど、ぬめりの具合がどうか。パンくずを油で軽く炒めてから固めるのも考えたけど、卵と合わせた時の一体感が弱いかも」


「じゃがいもを小賽にして半蒸し――芯を残し、表面を乾かしてから油でさっと。でんぷんの膜で粒感を擬似化する。……ただ、粘りの線が難しい」


「カブの芯を角切りにして、白ワインの代わりに酢で下味を入れてから甘みでバランス、なんてのも浮かんだ。でも今日は“ほぐれる幸福”がほしいのよね」


「うん。だから、試すのは次の段。ここは、食べたい景色を合わせる。――卵はとろり、ソースはすっと絡む。スプーンが一度で色と温度を連れてくる」


 言葉にすると、まるで遠くの灯が少し近づくみたいだった。リナはトマトに十字の切り込みを入れ、湯へ落とす。薄い皮が花びらみたいにほどけていく。


「香りの土台は私が作る。あなたは、卵の準備に集中して。泡立て器で“大きく空気、小さく均一”。塩はほんのひとつまみ。水も牛乳も今は無し。卵単体の粘りでとろみを作る」


「了解。フライパンの温度管理、任せて」


 リリスは卵を割り、ボウルへ落とす。殻の欠片が入らないよう、指の腹で受ける癖はもう板についている。黄と白がゆっくり溶け合い、淡い金色の湖になる。


「ねえ、リナ」


「なに?」


「王都でね、ずっと張り詰めていたの。帰ってきて、ここに立って、やっと“お腹が空いた”って思えたの」


「それは、いい兆候。ちゃんと生き返ってる」


「うん。だから、今日はわがままを言わせて。――スプーンを入れた瞬間、頬がほどけるやつがいい」


「任された」


 リナの返事は短く、そして頼もしい。湯むきが終わったトマトが積み木みたいに重なって、まな板の上で小気味よく刻まれていく。玉ねぎは繊維に沿って薄く。にんにくは芯を抜いて、ごく微塵。


「火を入れるよ」


「どうぞ」


 菜種油がしずかに光り、にんにくが鍋に触れた瞬間、台所の空気がふっと香りを変える。追って玉ねぎ。塩をひとつまみ。甘みを引き出すための、ゆっくりした時間。


 リリスはボウルを抱え、泡立て器で大きく小さく、ときほぐす。空気が含まれて、粘りが糸のようにのびる。手首の角度を変え、音で状態を読む。シュッ、トン、シュッ――金属音が規則正しく続く。


「蜂蜜は?」


「最後の最後。味見して、必要なら一滴」


「了解」


 扉の向こう、廊下で小さな足音が駆けて止まる気配がした。けれど、今日はまだ呼ばない。あの子たちの席は必ず用意するから――今は、台所の呼吸を整える番。


「器は温めておく。アイシャに頼んだわ」


「ありがとう。スプーンも多めに。最初のひと口を、皆に同時に渡したい」


「うん。ひと口目は、魔法だから」


 鍋の玉ねぎが透き通り、にんにくの角が甘い香りへ変わった。リナはトマトを入れ、ローリエを一枚、タイムの葉を指でしごいて落とす。ジュウ、と瑞々しい音が広がり、赤が鍋の中でやさしくほどけていく。


「酸の角、立ってない?」


「もう少し。詰めながら休ませる」


「なら、卵の練りをもう一段階だけ。泡は細かく、でも潰さない」


 リリスは呼吸を合わせ、腕の疲労に小さく笑った。王都の長い一日よりも、この数分のほうが濃い――そんな気がする。


「……ねえ、リナ」


「まだ、なに?」


「帰ってきてよかった。ううん、戻る場所があってよかった、かな」


「それは、ここが“厨房”だからよ」


「厨房、だから?」


「そう。食べることは、戻ること。だから私たちは、鍋を温め、皿を温め、席を空けておくの」


 言葉が胸のどこか深いところに落ちて、音もなく溶けた。リリスは頷き、泡立て器を置く。卵は、もう充分に呼吸している。


「じゃあ次の段で、“ライス”を探そう」


「ええ。押し麦か、じゃがいもか、パンくずか。――見つからなければ、潔く退く。目的は“気持ちが上がること”。方法は従者でしかない」


「それ、いい言葉。いただき」


 鍋から湯気が立ちのぼる。トマトの赤は心を励まし、玉ねぎの甘みが肩の力をほどく。包丁の音、鍋の音、泡立て器の音――台所の交響が、夜をやさしく回し始めた。


 まな板の上には、三種類の素材が小皿に分けて並べられていた。押し麦、角切りのじゃがいも、そして細かく刻んで乾かしたパンくず。それぞれ、ライスの代わりになり得るかを確かめるための、ほんのひと口分だ。


「じゃあ、順番にいきましょう。押し麦から」


 リナが湯を沸かし、小鍋へ押し麦を投入する。くつくつと泡が立ち、麦の外皮がわずかに膨らむ。火を落とし、水気を切った麦をフライパンへ移すと、少量の油を絡めてから軽く塩を振った。


「香りは悪くないけど……」


 リリスは木べらで軽く押し広げ、しゃもじで一口分をまとめて卵の試作生地に包み込む。スプーンで切り分けて口へ運ぶと、独特の弾力が舌の上で跳ねた。


「ん……ちょっと主張が強い。卵とソースの滑らかさを壊すかも」


「うん。麦の皮の歯ごたえが、どうしても残るわね」


 次はじゃがいも。小さく角切りにして蒸し器で半蒸しにし、表面を乾かしてから菜種油で軽く炒める。うっすら色づいた芋は、外がほろり、中はやや硬さを残している。


「じゃがいもは甘みが出る分、酸味のソースには悪くないけど……」


「粒感がバラバラね。まとまりは押し麦よりいいけど、卵を割ったときの一体感が薄い」


「“包んだ”というより、“混ざっている”感じ」


 最後はパンくず。軽く炒って香ばしさを出し、オイルを絡めてから少量のブイヨンで湿らせる。しっとりしたそれを卵に包んでみると、見た目はなかなか悪くない。


 炒め終えた具材を、リリスは一口すくって試しに味を見た。


「……うーん」


 口の中でほぐれるのは、香ばしさを帯びた根菜と雑穀。しかし、彼女の中にある“理想のオムライス”の記憶とは明らかに違う。

 リナも同じく一口食べ、わずかに首を傾げた。


「これ、味は悪くないけど……米の粒感とほくほく感がないから、どうしても別物だね」

「だよね。これじゃ、ふわとろ卵を乗せても“似てる料理”にしかならない」


 木べらを握る手に、力がこもらなくなる。疲れのせいか、味の差を受け入れる余裕もない。

 しばし沈黙が落ち、鍋の中の湯気だけが二人の間を満たす。


「……どうする? このまま仕上げちゃう?」


 リナの問いに、リリスは視線を鍋から外し、少しだけ天井を仰いだ。


「……いや、やめよう。中途半端に“似てるけど違うもの”を出すより、今日は別の方向で喜ばせたい」


 その声色には、迷いを断ち切った響きがあった。

 リナが少し意外そうに目を丸くするが、すぐに笑みを浮かべた。


「ふふ、リリスらしいね。じゃあさ……卵はあるんだから、卵が主役の別のごちそうに切り替えようよ」

「卵が主役……」

「甘いやつ。疲れたときには甘さが効くでしょ? 卵黄たっぷりで、なめらか〜に仕上げるやつ」


 リリスの瞳がぱっと輝く。


「……もしかして、プリン?」

「そう。すごく滑らかで、とろけるタイプのやつ」


 その瞬間、鍋の中の“代替ライス”は迷いなく脇へ退けられた。


 リリスは袖を軽くまくり、空いた調理台に卵と砂糖、牛乳を並べていく。

 ルーファスとルシェルも、匂いにつられて顔を出した。


「お姉ちゃん、何作るの?」

「プリン。卵黄をたっぷり使って、つるんとしたやつよ」


 ルシェルはぱっと笑顔になり、足取り軽く調理台のそばに来た。ルーファスも、興味を隠せない様子で鍋の中を覗き込む。


「甘いの?」

「もちろん。最近はいろいろあって疲れたからね。みんなで甘いもので癒されましょう」


 そう言ってリリスは卵を割り、黄身と白身を分けていく。黄身はボウルへ、白身は別の器に。黄身の鮮やかな色が、これから始まる甘い時間を予告していた。

 リナはカラメルソース用の小鍋を取り出し、砂糖と水を入れて弱火にかける。


「焦げないように見張っててね。あのほろ苦さが、プリンを引き立てるんだから」

「任せて」


 リリスは泡立て器を手に取り、黄身と砂糖をなめらかになるまで混ぜる。ルシェルが興味津々で手を伸ばすと、リナが笑って制した。


「まだ混ぜ終わってないからね。味見はあと」


 温めた牛乳を少しずつ加えると、甘い香りがふわっと広がる。黄身の黄金色と牛乳の白が混ざり合い、柔らかなクリーム色になっていく様子は、見ているだけでも心がほどけそうだ。


 リナが作ったカラメルは、琥珀色に輝いて湯気を立てていた。それを手早く型に流し込み、プリン液を静かに注ぐ。


「ルシェル、こっち持ってきて」

「はーい」


 小さな手で型を受け取るルシェルの顔は、真剣そのものだった。ルーファスも無言で鍋を押さえ、兄妹そろって小さな戦力になっている。


 型を並べた天板にお湯を張り、オーブンにそっと入れる。扉が閉まる音とともに、甘い香りがさらに強まった。


「焼き上がるまで、少し待とうか」


「どれくらい?」とルーファス。


「三十分くらい。でもね、冷やしてからが本番なの」


 待ち時間を利用して、リリスは残った卵白でメレンゲを作り、軽く焼いたクッキー生地にのせて小さな焼き菓子に仕上げる。ほんのり甘く、香ばしい香りが再び広がった。


「これ、待ってる間のおやつ」


 小皿に分けられたメレンゲ菓子を口にしたルシェルが、ほっと息をつく。ルーファスもわずかに口角を上げ、二人の表情から疲れが抜けていくのがわかる。

 やがてオーブンのタイマーが鳴り、蒸気の立ち上るプリンが姿を見せた。


「まだ温かいけど、香りだけでも」


 リリスが一つ持ち上げると、ぷるんとした揺れが視線を奪った。カラメルのほろ苦さと甘い卵の香りが絡み合い、部屋中を満たす。


 この瞬間、オムライスを諦めたことへの未練は、誰の胸にも残っていなかった。


 冷蔵庫でしっかりと冷やされたプリンは、器から外された瞬間、つるりとした姿を見せた。カラメルがゆっくりと流れ、淡いクリーム色の表面に琥珀色の光を落とす。


「わあ……!」


 ルシェルが小さな手を合わせ、目を輝かせる。ルーファスもわずかに目を細め、静かに席についた。


「じゃあ、いただきましょうか」


 リリスがスプーンを手に取ると、全員が同時にカチャリと器に手を伸ばした。プリンの表面をすくった瞬間、柔らかな弾力が指先に伝わる。口に含めば、卵のまろやかな甘みとカラメルのほろ苦さが広がり、一日の疲れを静かに溶かしていく。


「……おいしい」


 ルーファスの低い声に、リリスは思わず笑みを浮かべた。普段あまり感情を表に出さない彼が、こうして素直に褒めるのは珍しい。


「お姉ちゃん、これ毎日作って!」


 ルシェルはすでに半分近く平らげ、さらにスプーンを動かしている。


「毎日は贅沢すぎるわ。でも、また作る約束はしてあげる」


 そんなやり取りの合間に、留守中の報告が始まった。


「市場の広場に、旅芸人が来ていたよ」


 ルーファスが淡々と話し始める。大道芸や歌劇のような催しがあり、子供たちが集まって賑わっていたらしい。


「それから、アイシャが本屋に行って、新しい帳簿の紙を仕入れてきたんだって」


 ルシェルが続けると、リリスは小さく頷いた。彼女の不在中にも、領内の動きは止まらない。


「お父様は?」

「今日は領民の相談を聞く日だったみたい。すごく忙しそうだった」


 ルーファスの声には、少しだけ誇らしげな響きがあった。


「……私も、もう少し時間を作って顔を出さなきゃね」


 リリスがそう呟くと、リナが軽く肩を叩いた。


「まずは、休むこと。元気じゃなきゃ、いい仕事もできないでしょ?」


 その言葉に、リリスはふっと肩の力を抜いた。甘い香りと温かな空気が、屋敷全体を包み込んでいる。


 プリンの皿が次々と空になり、残るのはほんのりと甘い香りだけ。満たされた静けさの中で、リリスは心の底から「帰ってきた」と感じていた。


 食卓に残ったカラメルの香りが、ゆっくりと薄れていく。皿の縁に琥珀色の筋がほんの少しだけ残り、蝋燭の灯がそれをやわらかく照らしていた。


「ごちそうさまでした!」


 ルシェルがスプーンを置いて両手を合わせる。ルーファスも無言で席を立ちかけて、すぐにハッとして戻り、きちんと椅子を引いてから頭を下げた。


「……ごちそうさまでした」

「うん、えらいわ。二人とも、手を洗ってきましょうね」


 リナが台拭きを手に、子どもたちの背中を扉の向こうへと送り出す。リリスは空いた器を集め、流し台にそっと重ねていった。


 水栓から落ちる水が、冷たいガラスのような音を立てる。スポンジに石けんを含ませると、甘い香りがふわりと広がった。


「この香り……ラヴェンダー、ですね」


 アイシャが隣で手を動かしながら、わずかに目を細める。


「ええ。庭の刈り取り分で試作していた石けんよ。泡立ちは控えめだけど、手肌は荒れにくいはず」

「十分です。香りが落ち着いていて、台所に向いています」


 言葉を交わすたび、胸のあたりに温かな重みが戻ってくる。遠い王都のざわめきも、冷たい石の謁見の間も、ここではただの遠景に過ぎない。


 洗い物がひと段落すると、リナが鍋を拭き上げ、火口の周りを丹念に磨いた。


「明日はスープを増やそうか。塩と根菜で、“帰ってきた日の味”に」

「いいわね。……ルシェルは温かいものが好きだし、ルーファスは具が大きい方が喜ぶの」

「刻み方、覚えました。角は大きめ、でも口当たりは優しく」


 三人で目を合わせ、同時に息を抜く。台所の片隅に、さっきまで小皿に分けていたプリンの空き器が整然と並んでいた。光を映す乳白色の縁が、どこか誇らしげに見える。


 廊下の向こうから、ばたばたと小さな足音が近づいてきた。


「おねえしゃま、歯、みがいたよ!」


 ルシェルが口をあんぐり開けてみせる。


「うんうん、きれいね。ほら、もう一回“いー”のお口」


 リナが笑いながら点検し、ルーファスの頭も軽く撫でる。


「ぼくも、もう眠い」

「今日はいっぱい報告してくれたものね。偉かったわ」


 子ども部屋まで送っていくあいだ、リリスは二人の手をそれぞれ握り、ゆっくりと歩いた。廊下の壁にかけた小さな絵――市場の広場を描いた拙い彩色――が、蝋燭の揺れで水面のように震えている。


 寝台に潜り込んだ二人は、毛布から小さな額だけをのぞかせた。


「おねえちゃん、またプリンつくってくれる?」

「もちろん。でも“毎日”は内緒ね。特別な日のお楽しみ」

「とくべつ……じゃあ、ぼくががんばった日」

「うふふ。いい約束だわ」


 ルシェルはすでに半分眠っていて、言葉がやわらかな湯気みたいにほどけていく。


「おやすみなさい」

「おやすみ……」


 灯りを落とすと、窓の外の夜気が静かに部屋へ流れ込んだ。虫の声が遠くで薄く重なり、屋敷全体を綿で包んだように柔らかい静けさが満ちていく。


 子ども部屋を出てから、リリスは廊下の手すりに両肘をのせた。階下の台所では、リナが布巾を干し、アイシャが帳面を机に広げている。


「……少しだけ、書き留めてもいい?」

「はい。今夜は“労働禁止”のつもりでしたが……五分だけ、ですね」

「五分。約束」


 自室に戻ると、机の上に“今日”の端切れ帳を広げた。そこには急いで走り書きした、断片的な言葉が並んでいる。

《オムライスは“米”の代替が要――穀物の粒感・吸油・トマトソースの抱き》

《プリン:卵黄多め、低温長時間、余熱+氷水でなめらか。次回は蜂蜜ひかえめでもう一段コシ》

《市場:登録台帳の更新サイクル“七日→十日”に伸ばす?現場の負荷を見直す》

《見回り:交代表の穴を埋める時の“連絡札”を木札から革に。雨で滲む》

《窓口:苦情箱の投入口に“覆い”を。紙が湿る》


 ペン先が止まる。紙の繊維を指先でなぞると、胸の中にあの甘い香りが蘇った。――なめらかなプリン、カラメルのほろ苦さ、笑い声、手の温もり。


「……ここが、帰る場所」


 独り言のように、ことばがこぼれた。音にしてみると、胸の奥で静かに灯がともる。王都では緊張でこわばっていた肩が、ようやく解けていくのがわかる。


 ペンを置いたところで、そっと扉がノックされた。


「お嬢様、温かいハーブティーを」

「ありがとう、アイシャ」


 湯気の向こうで、アイシャの顔がやわらかく揺れる。


「……王都のことは、明日に回しましょう。今日は“ここ”を胸いっぱいに」

「ええ。……でも、少しだけ聞いて」


 リリスは椅子を一つ引き、アイシャを向かいに座らせた。


「登録者優遇と検品刻印、王都でも興味を持たれたわ。けれど、広げるには“物と人の入口”を見える化しないと。入市名簿だけでは足りない」

「門の流入を図に落とす、ですね」

「そう。次の市で、人の流れを砂時計みたいに描いてみたいの。午前と午後で粒の大きさがどう変わるのか、比べるために」

「描図板、用意します。見回りのメンバーにも観察のポイントを配っておきましょう」

「お願い。それと……“ありがとう”。今日は、ほんとうに助かった」


 アイシャは短く首を振り、カップをそっと受け皿に戻した。


「こちらこそ。……お帰りなさいませ、お嬢様」


 その一言が、深く沁みる。胸の奥にもう一度、小さな灯がともった。


 やがて、アイシャが部屋を辞す


 部屋にひとりになると、窓辺のカーテンを少しだけ開いた。夜空は深く、刈り取ったばかりの畑のように静かだ。月は薄く、白い粉砂糖のような光を屋根に撒いている。

(王都でも、同じ月が出ていたっけ)


 ふと、謁見の間で交わした視線を思い出す。硬い石床の冷たさ、議場の冷ややかな空気、そしてアメリア殿下の柔らかな微笑。――けれど、そのすべてよりも今は、木の床が軋む音と、寝息のリズムの方がずっと近い。


 机に戻り、端切れ帳の最後の行に小さく書き足す。

《明日:市場の“粒”を数える。甘さは控えめ、でも温かさは増やす》

 ペン先が止まる。胸の奥の灯は、もう揺れない。


 湯たんぽの温もりが布団の中でひろがっていく。シーツの冷たさは一瞬だけ、そのあとは、昼間の陽だまりを思わせる穏やかさに変わる。

(帰ってきた)

 目を閉じる。その一言の重さに、身体がそっと沈む。


「……ここが、帰る場所」


 声に出すほどでもなく、ただ唇が形をつくる。家の匂い、木のきしみ、遠い台所の瓶の触れ合う音――ぜんぶが自分の輪郭を確かにしてくれる。


 明日は市場へ行こう。見回りの視線の高さを合わせ、台帳の行を一行だけ減らして、書く人の肩を軽くする。苦情箱の蓋に布を足し、雨の日でも紙が泣かないように。プリンは“ご褒美”に取っておくとして、朝は温いスープで始めよう。

 そんな“明日”の粒が、眠りのふちでやさしくころがる。


 屋敷のどこかで、柱時計が遠く小さく鳴った。ひとつ、ふたつ。数える前に、音はやわらかい暗闇に溶ける。

 リリスは静かに息を吐き、布団を肩まで引き上げた。甘い香りが、眠りの上澄みに薄く漂う。


 ――灯りが消えたあとも、家の温度は消えない。ここが、帰る場所。明日はまた、ここから始めればいい。


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