市場の声、少女の決意
リリスは夜明け前の厨房で、黙々と作業を続けていた。
照明はランタン一つ。小さな火の灯りに照らされるのは、いつもよりしっとりとした質感のラスクだった。
「前回の……甘さ控えめが好評だった。でも、少しパサつくって声もあったわね」
帳面には、客たちから受け取った生の言葉が、丁寧な字でびっしりと記されていた。
「ある年配のご婦人は――『お茶に浸せば食べられるけど、歯が悪いとちょっと厳しいかも』って」
「小さな子ども連れの母親は――『うちの子、好きなんですけど、口の中でくっついちゃって食べにくそうでした』と心配してた」
「若い商人風のお兄さんは――『美味しいけど、もう少ししっとりしてたら仕事中にも食べやすいのに』って笑ってたわ」
「年配の男性は――『柔らかめのも出してくれると嬉しいねぇ、最近は固いのはちと苦手でね』なんて言ってた」
「そして、あの小さな女の子……――『ねぇ、おねえちゃん、もっとふわふわのラスクもある?』って、無邪気に聞いてくれて……」
リリスはそのときの少女のきらきらした目を思い出し、自然と口元が緩む。
「……ふふ、あれが一番効いたのよね。あの子に、もっと美味しいものを食べてほしいって思ったもの」
前世のブラック企業では、どれだけ努力しても誰からも感謝されることはなかった。ただノルマとクレームと、空虚な報酬だけが積み上がる日々だった。
「今は違う。誰かの喜ぶ顔が、私の報酬になるなんて……信じられないくらい、嬉しいわ」
そんな思いを胸に、リリスは焼き加減と素材を何度も試し、ついに新しい改良版ラスクを仕上げる。
「……よし。今日はこの子たちで勝負!」
オーブンから取り出した焼き立てのトレイには、前よりもしっとり、そしてふんわりとした風合いのラスクが並んでいた。
市場がにぎわい始める朝。リリスは、今までの経験をもとに前夜から商品を工夫し、新しい包装や見せ方に挑戦していた。
「うん……今日の並べ方、少しはマシになったかしら?」
そう呟きながら品物を整える彼女のもとへ、前回訪れた少女と母親が再び現れる。
「この前の甘さ控えめのが忘れられなくて。今日もあるかしら?」
「あ……はい! 今日はさらにしっとり柔らかく改良してあります!」
手渡すと、少女の笑顔がはじけた。「わあい!」と声を上げるその様子に、リリスは頬を緩める。
少女はもじもじとしながら、リリスの顔を見上げた。
「ねぇ、おねえちゃんの名前、なんていうの?」
「ふふ、リリスよ。とある商家の…ちょっとだけ頑張ってる令嬢かしら」
「リリスおねえちゃん……! わたし、ミーア! このお菓子、だいすき!」
「ありがとう、ミーアちゃん。またいつでも来てね」
「うんっ! ミーア、絶対また来るよ!」
朝日が昇る頃、リリスとアイシャは軽い荷車を押して市場に向かっていた。その荷車には、丁寧に並べられた新作ラスクが収められている。包装には、手書きのちいさな「ふわふわ仕立て」の文字が踊る。
「……今日も、いい天気ね。売れるかしら」
「きっと大丈夫です、お嬢様。あの子がまた来るって、前回おっしゃっていましたから」
アイシャの言葉に、リリスの胸は高鳴る。市場に到着すると、もうすでに幾つかの常連の商人たちが品を並べ、道行く人々が次第に活気を帯びていく。
そして──。
「おねえちゃん!」
リリスが並べ終えるかどうかというタイミングで、あの少女が駆け寄ってきた。母親が後ろからゆっくりとついてきている。
「この前のラスク、また食べたいってずっと言ってて……今日はあるかしら?」
「はい! 今日はふわふわに仕上げた特別版よ」
手渡すと、少女は両手で包み込むように受け取り、ぱくりとひと口かじった。
『……んん! ふわふわー!』
「こら、ちゃんとお礼言いなさい」
「ありがとうっ!」
少女の満面の笑みに、リリスも自然と顔を綻ばせる。
それからというもの、リリスの屋台には次々と客が訪れた。前回も買ってくれた夫婦、見覚えのある青年、そして新顔の親子連れ。
『この前のより、口当たりがいいわねぇ』
『甘すぎなくて、仕事中でもつまめるのが嬉しい』
『うちの爺さんでも噛みやすいわ』
『子どもが気に入って食べてくれるんですよ。ありがたいです』
『あの子が「今日もラスクのお姉ちゃん行こう」ってうるさくてねぇ』
それぞれの声が、リリスの心に深く染み入っていく。忙しい手を止める暇はないが、確かに積み重なる評価と笑顔が、彼女にとっての報酬になっていた。
その隣で、アイシャが冷静にメモを取っている。
「今日の販売数、前回より二割増です」
「すごい……!」
「ラスク一枚あたりの製造原価は若干上がっていますが、満足度の上昇によるリピート率の方が上です」
「ふふ……さすがね、アイシャ」
甘味の加減、焼き時間、包装コスト。すべてがリリスの中でつながっていた。
「前世で培った節約術、こんな形で役に立つなんて……」
一段落した昼過ぎ、リリスは売上を袋にまとめ、小さな帳面に金額を書き込む。
「これが、ラヴェンダー家再建の第一歩……」
ささやかでも確かに積み上がる希望に、リリスの目が静かに輝くのだった。
そのとき、ふと視線を上げた先に──
「……ノ、ノエルさん……?」
市場の雑踏の向こうに、屋敷の家令であるノエルがこちらをじっと見ていた。
まさか、見つかるとは思っていなかった。アイシャの背筋がぴんと伸びる。
「お、お嬢様……」
リリスはぐっと息を呑む。そして、目を逸らさずに視線を返した。
「……大丈夫。隠れるようなことじゃないもの」
胸を張って、ラスクの袋を手に取る。
それが、自分の信じる道の証になると信じて──。
いつも見てくださってありがとうござます