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王族の使者来訪――、静かな足音

 朝の空気は澄んでいて、ほんのわずかに秋の気配を含んでいた。ラヴェンダー子爵家の屋敷にも、いつものように静かな朝の時間が流れている。庭には朝露が光り、小鳥のさえずりが涼やかに響いていた。


「ふぁあ……アイシャ、今朝のハーブティー、ちょっと香りがやさしめね?」


「はい、今日はカモミールを多めにいたしました。お疲れが残っておられるかと思いまして」


 窓辺でリリスが湯気を立てるティーカップを持ち上げ、にこりと笑った。アイシャは控えめに微笑みながら、そっとティーポットを傾けて追加の湯を注いだ。


「こうして静かな朝が過ごせるのも、当たり前じゃないんだなって、最近よく思うの。市場も動いてるし、商会の人たちも毎日忙しそうで」


「リリス様が積み重ねてこられた成果でございます。けれど、まだ“日常”と呼べるには、少しだけ時間がかかりそうですわね」


「……そうね。でも、ここからは“日常の中の非日常”がやってくる気がする」


 リリスがそんな言葉をぽつりと呟いた、その瞬間だった。


 コツ、コツ――と遠くから規則正しい蹄の音が響いてきた。騒がしいわけではない。むしろ静かに、まるで何かを告げるように、屋敷の前へと迫ってくる。


 数分後、扉の向こうから慌ただしい足音が駆け込んできた。部屋の扉がノックもそこそこに開かれ、若い使用人が顔を覗かせる。


「お、お嬢様! 門の方から、王家の紋章を掲げた馬車が接近中とのことです!」


「……王家?」


 リリスはティーカップをそっと置いた。冷静なまなざしが、すっと窓の外へ向けられる。


 屋敷の空気が、ざわめきを含んで波打ち始める。廊下の奥では執務室の扉が開き、クラウスと家令ノエルの姿が現れた。ふたりは視線を交わすと同時に、無言で正装の準備を始めていく。


「アイシャ、来客対応の支度をお願い。きっと“特別な方”がいらっしゃる」


「はい。ただちに」


 アイシャが小さく頷くと同時に、使用人たちが慌ただしく動き始める気配が屋敷中に広がった。


 リリスは、まだ見ぬ“使者”の姿を思い浮かべながら、胸の奥に小さな緊張を覚えていた。外には、深紅の飾り房と金糸の王家の紋章が、朝日を受けて静かに揺れている。


 使用人に先導されて、使者は中庭からラヴェンダー邸の正面玄関へと進んでいた。服装は簡素ながら、裾さばきや背筋の伸び具合に、どこか洗練された空気が宿っている。クラウスが玄関扉を開けて迎えると、使者は片膝を折り、丁重に頭を垂れた。


「クラウス・ラヴェンダー子爵殿。王家より命を受け、当地の視察にまいりました」


 使者はそう名乗ると、懐からひとつの革製の筒を取り出し、恭しく差し出した。クラウスは慎重にそれを受け取り、筒の端に押された赤い封蝋に目を落とす。


 そこには、確かに王家の百合紋章がくっきりと刻まれていた。しかも、それは単なる通信文に用いられるものではない。外務監察局や王都財務局など、政務に関わる公的機関の者が帯びる特殊な印――“直達印”と呼ばれる、高位から直接届けられる命令文書の封蝋だった。


「……これは、確かに王家からの視察状。印も間違いない。ノエル」


「はい」


 後方で控えていた家令のノエルがすぐさま一歩前に出て、クラウスの隣でその封蝋と文書を確認する。慎重に開封された文書には、形式ばった書式で、こう記されていた。


 ――“本命は伏す。王都よりの使者を当地に遣わす。市の仕組みと諸施策を確認し、民心の動向を探るべし”――


「文中に差出人の記名はありませんな。だが、この書式は……」


「王家直轄の監察命です。内容は外に漏らすことなく、協力のほどを」


 使者は低く、しかし凛とした声音でそう告げた。その口調に虚勢や押しつけは微塵もなく、むしろ「騒ぎ立てる意図はない」という静かな配慮すら感じられる。


 クラウスは一瞬だけ眉根を寄せたが、すぐに静かに頷いた。


「承知した。応接室を用意しよう。ノエル、案内を頼む」


「かしこまりました。こちらへどうぞ」


 使者が頭を下げてから立ち上がり、ノエルのあとに従って屋敷内へと歩を進める。足取りは迷いなく、まるですでに屋敷の造りを把握しているかのようだった。クラウスはその姿を見送ると、深く息を吐いてからリリスの名を呼ぶ。


「……アイシャ、リリスに伝えてくれ。王家からの視察が来ていると」


「かしこまりました」


 クラウスの背後からそっと現れたアイシャは、静かに一礼し、その場を離れていく。その瞳の奥には、ほんのわずかに不安と緊張が混じっていた。


 ラヴェンダー家の屋敷に、再び波が立とうとしている――。


 リリスの私室に戻ったアイシャは、部屋の扉を控えめに叩いたあと、静かに中へ入った。朝の支度を終えたリリスは、帳簿を広げながらペンを片手に、前日の売上や在庫の記録を見直していた。眉間に小さく皺を寄せていたが、アイシャの気配に気づくと、すぐに顔を上げる。


「アイシャ? どうかしたの?」


 アイシャは一歩進み、深く一礼してから口を開いた。


「リリス様。先ほど、王家の印を携えた使者が到着いたしました。旦那様より、応接室にてお迎えいただきたいとのお申し付けです」


 リリスの手が、ぴたりと止まった。


「……王家の使者?」


 思わず繰り返したリリスの声には、かすかに戸惑いが滲んでいた。だが、それはすぐに理性的な沈黙へと変わる。表情を引き締めたリリスは、ゆっくりとペンを置き、立ち上がった。


「わかりました。すぐに向かいます」


 その短い返答には、まだ幼い少女のものとは思えぬ落ち着きが宿っていた。アイシャはそれに小さく頷き、リリスの外套を手渡す。外は少し風が強まっており、朝の冷たい空気が窓の外で葉を揺らしている。


 リリスは袖を通しながら、心の内で状況を整理していた。王家からの視察――それ自体は、前話で王都の役人が去った際に予感していたことであり、想定の範囲ではあった。だが、それが現実となり、しかも“使者”という形で自らの屋敷にまで足を運ばれるというのは、やはり特別な意味を持っている。


 これは、単なる地方の視察ではない。明らかに“誰か”が、明確な意志を持ってこちらを見ている。そう直感したリリスは、扉に手をかける前に、一度深く息を吐いた。


「アイシャ。応接室まで案内をお願い」


「はい。リリス様、お足元にお気をつけて」


 そう言って、アイシャは扉を開き、リリスがそのあとに続く。廊下の絨毯を踏みしめる足音は、まっすぐに、そしてためらいなく前を向いていた。少女の歩みに、迷いはなかった。


 邸内は静かだった。まだ朝の活動が本格的に始まる前の時間帯であり、使用人たちも廊下の陰で控えめに控えている。そんな中、リリスの姿はひときわ凛として見えた。濃紺のドレスに身を包み、銀糸の刺繍が柔らかな朝陽を受けてきらめく。


 応接室の扉の前で立ち止まると、アイシャが小さく頷いた。


「こちらです。使者の方はすでにお待ちです」


「ありがとう。アイシャはここで待っていて」


「かしこまりました」


 リリスはもう一度だけ身だしなみを整えると、ゆっくりと扉に手をかけた。その動作には、重圧と向き合う覚悟がこもっていた。


 扉を開けると、部屋の中には一人の男が静かに立っていた。年の頃は二十代半ばから後半、整った顔立ちに冷静な目を持ち、仕立てのよい外套を羽織っている。その背筋は伸び、両手を前に組んでいる姿はまるで武人のような気品すら漂わせていた。


 リリスが一礼すると、男もすぐに深く頭を下げた。


「お初にお目にかかります。私は王家より遣わされた者――名は明かせませんが、あなた様とお話しするために、ここへ参りました」


 その言葉に、リリスは小さく目を見開いたあと、静かに口元を引き締めた。


「……ようこそ、ラヴェンダー家へ。王家の方よりお越しいただけるとは、光栄です」


 そうして二人は、言葉を交わしながら応接の椅子へと腰を下ろした。緊張はあれど、場には落ち着いた空気が流れていた。それはまるで、二人ともが既に“相手の覚悟”を察しているかのような、妙に成熟した静けさだった。


 応接室に差し込む朝の光が、使者の肩を柔らかく照らしていた。リリスは、手元に出された紅茶には手をつけず、まっすぐにその視線を向けていた。使者もまた、正面から彼女を見据えていたが、そのまなざしには敵意も軽蔑もない。ただ、静かに評価するような眼差しだった。


「ラヴェンダー子爵家の運営状況、そしてあなた様の働きぶりについては、王都でも注目されております」


 使者は切り出した。声に威圧感はなく、むしろ淡々とした語調だったが、それが逆に“本気”を感じさせる。リリスはわずかに瞬きをして、控えめに頷いた。


「恐縮です。まだまだ未熟ではございますが、できることから一つずつ積み重ねてまいりました」


 その受け答えに、使者の目が僅かに細められる。だがすぐに、話は本題へと移った。


「地方の報告書に記された“市の仕組み”と“帳簿管理”について、王家の財務局より直接の確認依頼が出されております。正式な査察ではございませんが、密命という形で、先行して調査をさせていただいております」


「……密命、ですか」


「ええ。王家の意向により、特定の名義は控えさせていただきますが……これは、単なる視察ではありません。あなた様の“今後”が、我々の関心事であることを、ご理解いただきたい」


 リリスは少しだけ姿勢を正した。


「承知いたしました。では、私の行っていることについて、できる限りお答えさせていただきます」


「ありがとうございます。まずは、“帳簿”を拝見しても?」


 リリスはすぐに、手元の革製のバインダーを開いて、複写用の紙が綴じられた帳簿を差し出した。そこには、出納の明細、日付ごとの取引記録、各店への貸し付けと返済の動向、さらには在庫管理に関するメモまで、丁寧に記されていた。


 使者はそれを受け取り、しばらく無言でページを繰った。指先が止まるたびに、わずかに眉が動き、視線の奥に驚きの色が混じっていく。


「……これは」


 数分後、彼はついにそう呟き、顔を上げた。


「この帳簿形式……非常に整理されている。しかも貸方と借方を分けて記録し、それぞれの項目に明確な分類がされている」


「支出と収入、貸し付けと回収、それぞれを明示的に管理しておけば、何が不足し、何が過剰かが一目でわかります。農家の方々にも説明しやすくなりますし、間違いも減らせます」


「なるほど……。この形式は、商業ギルドの中でもまだ普及しておりません。あなたが独自に?」


「はい。前例はなくとも、必要だと思った仕組みを試しているだけです」


 使者は再び帳簿に目を落とし、静かに感嘆の息を漏らした。


「……まったく、信じがたい。これを……九歳の少女が構築したというのか」


「今は九歳ですが、始めたのは八歳の頃です」


 リリスが小さく微笑んで返すと、使者は思わず沈黙し、その表情を和らげた。


「失礼、年齢に対しての驚きが過ぎました。だが正直なところ、これは……尋常ではない」


「よく言われます。でも私は、誰よりも大切な家族を守るためにやっているだけです」


 その言葉に、使者の視線が僅かに揺れた。そこには、ただの知恵や利発さではない、芯のある決意が宿っていた。


 その静かな熱を感じ取ったのか、使者は帳簿を閉じ、丁寧にリリスへ返す。


「十分です。この情報だけでも、王都へ報告する価値があります」


「お役に立てたのなら何よりです」


 リリスは深く礼をする。使者は一度それに応じ、椅子からゆっくりと立ち上がった。


「では、私はこれにて。王都に戻り、所定の手続きをもって報告いたします。今後また、正式な要請が届くかもしれません。その際には改めてお力添えを願います」


「はい。いつでも、お待ちしております」


 最後まで礼を尽くすリリスの姿に、使者はわずかに目を細め、軽く頭を下げた。


 使者の姿が扉の向こうへと消えていった瞬間、応接室の空気がふっと和らいだ。沈黙の中に残されたのは、革靴の足音が残した余韻と、帳簿のページが閉じられる音だけだった。


 クラウスは席を立ち、深く息をついた。


「……王家直轄の使者か。予想以上に、注目されているな」


 その声には、警戒心よりもむしろ、どこか感慨深げな響きが混じっていた。これまで幾度となく国の命に振り回されてきた彼にとって、それは決して歓迎すべきものではないはずなのに、今はただ静かに事実を受け止めていた。


「父様、ご対応ありがとうございました」


 リリスが立ち上がり、丁寧に頭を下げる。その仕草は幼さよりも礼節が勝っていて、クラウスの口元に一瞬だけ微笑が浮かんだ。


「おまえの受け答えには、驚かされてばかりだ。まさかあの使者を言葉一つで納得させるとはな」


「少し緊張しましたけれど、やるべきことをしただけですわ。……帳簿の説明も、少しずつ慣れてきましたし」


 と、その場に控えていたアイシャがリリスに近づき、そっと小声で告げた。


「リリス様、使者の方……本当に驚いていらっしゃいましたね。まるで、宝物でも見つけたような目をされていました」


「そう見えた? ……ふふ、そうなら良かった」


 リリスの口元に、淡い笑みが浮かぶ。だがその瞳は、ほんの少しだけ遠くを見ていた。


 王都へ届けられる報告。それがどんな波紋を呼ぶか、まだ予測できない。だがそれは、いずれ必ず――何かを動かす。


(エレオノーラ様や、アメリア王女様にも届くかしら)


 ふと、先日の手紙を思い出す。控えめながらも丁寧に綴られていた言葉の端々に、あの令嬢たちの気配が感じられた。けれど、今はただ思い出すだけ。リリスは意識的に思考を打ち切り、視線をクラウスへと戻した。


「父様。いずれ、正式な王命として改めて来訪があるかもしれません。そのときは……」


「……ああ。覚悟はしておこう。だが、その時もおまえが先頭に立つのだろう?」


「はい。もちろんです」


 躊躇なく即答するリリスの声に、クラウスは僅かに目を細めた。そこにはすでに、“娘”という枠を越えた何かがある。ひとりの“同士”としての信頼が、確かに芽生えはじめていた。


 すると、部屋の外から軽くノックの音がした。


「お嬢様、ご来訪の応対が終わられましたら、視察の続きについてお知らせを――」


 メイベルの落ち着いた声が、扉越しに響いた。アイシャが応じて扉を開けると、彼女が恭しく頭を下げて入室する。


「市場の区画にて、商人たちが本日納入した新製品の検品をお待ちしております。お嬢様のお立ち会いのもとで、とのことです」


「分かりました。すぐに参りますわ」


 リリスは再び姿勢を正し、小さく息を吸い込む。


「……今日のような日こそ、丁寧に、一歩ずつ」


 静かに告げるその言葉に、アイシャとメイベルは揃って頷いた。


 少女の背はまだ小さい。けれど、今やその歩みは確かな重みを持って、次なる未来へと踏み出していく。王都の風はすでに、この片田舎の子爵領へも届き始めていた。


 そしてこの日。

 王家へ向けて届けられた報告書の一枚に、ある名が、しっかりと刻まれることになる。


 ――ラヴェンダー子爵令嬢、リリス・ラヴェンダー。


 その名を記した役人の筆が、やがて一人の王女の目に触れるまで、そう遠くはない。

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