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クラウスとリリスの“収益”報告会、ようやく動き始めた私の世界

 ラヴェンダー子爵家の書斎には、いつもと違う空気が流れていた。窓からは柔らかな午後の日差しが差し込み、書類の山に囲まれたクラウスの横顔を優しく照らしている。


 机の上には、帳簿と収支報告書、それにいくつかの地図と過去の税記録。傍らには控えめに立つリリスと、彼女の背後に寄り添うようにして立つアイシャの姿があった。


「……今年の税収は、前年比で三割増しだ」


 クラウスが静かに告げると、リリスはぱちりと瞬きをして、思わず聞き返した。


「三割、も……ですか?」


「ああ。昨年の干ばつが回復してきたこともあるが、それ以上に大きいのは――やはり市場の効果だな。新たな農家が定着し、取引が増え、税収の母体そのものが拡大している」


 クラウスは手元の資料をめくりながら、少し口元を緩めた。彼が微笑んだのは、久しぶりのことかもしれない。


「……鉱山が枯れて以降、我が領はずっと右肩下がりだった。畑も小規模で、ろくな産業が育たず、税収は年々細る一方。干ばつがとどめを刺した、そう言ってもいいだろう」


「……はい」


 リリスは静かに頷いた。彼女が生まれる前から、ラヴェンダー家の没落は始まっていたという。古くは銀や銅を産出していた鉱山の閉鎖。かつての主力産業が潰えた後、代わりとなる産業を育てきれず、領地は徐々に衰退していった。


 そして追い打ちのように、天候不順と干ばつ。土地は痩せ、作物は実らず、人々は生活に困窮した。


「そんな中で、お前が始めた“市場”は、確かに光をもたらした。最初は半信半疑だったが……今では、領民たちの目の輝きが違う。誇りと、活気が戻ってきている」


「……ありがとうございます」


 リリスは深く頭を下げる。だが、感謝の言葉を言うのは自分ではなく父の方だ、とも思っていた。


「それからもう一つ、報告がある」


 クラウスが、別の書類を取り出した。淡い茶色の封筒に収められたそれには、商会の紋章が刻まれている。


「これが……?」


「ラヴェンダー商会の登記証明書だ。王都の役所から、正式に受理された。これで、お前の行ってきた商いは、名実ともに“領内経済に貢献している事業”と認められたことになる」


 リリスは思わず、胸元で手をぎゅっと握った。


「……嬉しいです。これで、ようやく“遊び”ではなくなったんですね」


「最初から、遊びなどと思ったことはない。だが……こうして証明が出た以上、文句を言う者も減るだろう。お前のことを“田舎貴族の令嬢の道楽”と笑っていた連中も、見直すはずだ」


 少しだけ、クラウスの言葉に棘が混じっていた。だがそれは、リリスにではなく、自分自身や周囲への苛立ちでもあった。


 アイシャがそっと一歩前に出て、小さく礼をする。


「旦那様、このような形で認めていただけたのは、お嬢様の努力があってこそです。どうか、これからもご支援をお願いいたします」


「……もちろんだ。今さら後ろを向くつもりはない」


 クラウスの言葉に、リリスの胸が温かく満たされていく。


 これが、出発点ではなく、一区切り。


 次に目指すべきは、この成果をどう“家族”で分かち合うかだった。


 午後の執務室。広々とした窓から陽が差し込み、書類の山に彩りを添えていた。


 クラウスは机に座り、静かにリリスが差し出した帳簿をめくっていた。以前にも見たそれとは異なり、今回は詳細に整えられ、収支の変動や分類も丁寧に記録されている。


「……なるほど。これは実に分かりやすいな。出金と入金が項目ごとに見比べられるようになっているのか」


 ページをめくる指先に力がこもる。並べられた数値が、どれも明快に整理されていた。


「この帳簿は何だ? 今まで領の管理では見たことがない形式だ」


「うちの商会で使っている形式です。出金と入金を見比べて、どこで利益が出ているか、逆にどこで無駄が出ているかを一目で確認できるようにしたものです」


 リリスの説明に、クラウスはしばし黙して頷く。


「……なるほど。収支が流れとして可視化されているな。これは……領の財務にも取り入れられるかもしれん」


 帳簿の記述に目を落としつつ、クラウスは思わず呟いた。余剰分や人件費など、各項目が簡潔かつ正確に記されており、従来の煩雑な記録とは雲泥の差だった。


 その中で、特に目を引いたのは“新規農家支援費”という項目だった。市場で売上が上がるまでの間、宣伝に使った布代や標識作りのための出費などが控えめに記載されていた。


「これは……出資か?」


「はい。市場に初めて参加する農家の方々には、看板を作るための布や道具を少しだけ提供しました。すべて後日、売上の一部から返済いただく約束になっています」


「返済……なるほど、単なる施しではないのか」


 クラウスはその点に深く感心した様子で、手元の帳簿を閉じた。


「なるほど……つまり、貸与と還元をうまく組み合わせて、市場の活性化と自立を両立させたというわけか。炊き出しのような慈善ではなく、持続可能な経済として」


「はい。今はまだ余裕があるとは言えませんが、いずれは余剰野菜で“日雇いの労働者に食事を安く提供する店”のようなものも考えています。ですが、それは商会がもう少し安定してからでないと難しいです」


 リリスの言葉に、クラウスは満足そうに息をついた。


「お前は……本当に、変わったな…あんまり早く大人にならないで送れよ、リリス…」


 それは叱責でも驚きでもない。父として、心からの賞賛がにじんでいた。


 しばらく帳簿のページを見つめていたクラウスは、ふと視線をリリスに向けた。


「……しかし本当に、お前がこんなにも現実的な帳簿を作るようになるとは思わなかった」


 言葉の端に、ほんのりと笑みがにじむ。


「やっぱり……子供の道楽、では済まされないな」


「子供の道楽どころか、私にとっては“自分たちの命運”を背負った営みです。もともと、鉱山の収入に頼っていた時代が長すぎたんです。干ばつの影響もありましたが、それ以前から、別の柱を探さなければいけなかった」


 リリスの言葉は、年齢を超えて冷静だった。その声に、クラウスの表情が微かに陰る。


「……あの鉱山は、私が若い頃にはまだ掘れば出ると思われていた。誰もが、何とかなると楽観視していた。私も――その一人だった」


 リリスは黙って耳を傾けた。責めるつもりなどなかった。ただ、現実を見据えていた。


「でも、鉱山の寿命は、もう尽きていました。農地も痩せていて、商人たちも流出して……何も手を打たなければ、あとは緩やかな崩壊を待つばかりでした」


 クラウスの手が、静かに帳簿の端をなぞる。


「そうならなかったのは……お前の働きがあってこそだな」


「私だけじゃありません。アイシャも、母様も、リナさんも……領民の皆さんも。私たちは、ひとつひとつ積み上げてきたんです」


「そうだな」


 しみじみと呟いたクラウスは、静かに席を立つと、机の上に置かれた茶を一口啜った。


「商会の活動が正式に領の経済に加わったことで、他領からの視線も変わるだろう。領地の商業活動が回復しつつあるという証明になる。……誇らしいことだ」


 リリスは、小さくうなずいた。


「それでも、まだ油断はできません。この勢いを継続しないと、本当の意味での“再建”とは言えませんから」


「まったく……本当に、どこまで先を見ているんだ、お前は」


 照れたような笑みを浮かべながら、クラウスは小さく息を吐いた。


「だが、あまり……早く大人にならないでくれよ、リリス。父としてはな……少し寂しいんだ」


 その言葉に、リリスはわずかに驚いた顔をして、それからふっと目を伏せた。


「……はい」


 短く返事をして、彼女は帳簿を閉じた。父のその気持ちは、まだ子供でありながら“働く一人の人間”として認められた証のようにも思えた。


 沈黙が、しばし部屋を満たした。


 クラウスは、空になった茶器をそっと盆に戻すと、再び机に向かって椅子に腰を下ろす。その視線の先には、すでに閉じられた帳簿が置かれていた。


「お前は……どうしてそこまで、先のことを考えられるようになったんだ?」


 問いかけは穏やかで、責めるような色はなかった。ただ、どこか自分自身への問いかけのようにも聞こえた。


「……私、昔はただ“家がなくならなければいい”くらいにしか思っていませんでした。毎日、食べることで精一杯で。でも、ふとしたときに気づいたんです。何かを変えるには、自分が動かなきゃいけないって」


 リリスの言葉は静かだったが、その内側には熱を感じさせた。


「それに、父様が……私に“継がなくてもいい”って言ってくれたでしょう? あれが、私の背中を押してくれました。“自分のために動いてもいい”って、初めて思えたから」


「……そうか」


 クラウスの瞳が、どこか遠くを見つめるように細められる。


「私は……子供たちには何も背負わせたくなかった。ただ、できる限り守ってやることだけを考えていた。でも……お前は守られる側ではなく、すでに“支える側”になっていたんだな」


「守ってもらっているつもりです。父様にも、母様にも。だから、私も守りたいんです。この家も、領地も……弟や妹たちも」


 その言葉に、クラウスは思わず口元を綻ばせた。


「そう言ってもらえるだけで……もう十分すぎるほどだ」


 ふと、リリスが立ち上がり、机に置かれた帳簿を両手で包み込むように持ち上げる。


「これ、母様にも見せに行ってきます。夕餉の準備、お手伝いしていると思うので」


「そうだな……ああ、伝えてくれ。“今日の食卓は、少し特別だ”とな」


 リリスは微笑みを浮かべ、軽く会釈して部屋を後にした。その背中を見送ったクラウスは、ふぅと一息つき、天井を仰いだ。


「まったく……あの子は、私よりもずっと、先を見ているな」


 その呟きには、不思議と悔しさはなかった。ただ、誇らしさと、少しの寂しさとが入り混じっていた。


 台所は、夕餉の支度で活気づいていた。煮込みの香り、刻まれる野菜の音、焼かれたパンの温もり。すべてが一日の終わりを告げるように、どこか安心感を与えてくれる。


 リリスが扉を開けて中に入ると、すぐにリシアが気づいて顔を上げた。


「おかえりなさい、リリス。お父様とのお話、終わったのね」


「はい。ちょっと、見せたいものがあって……これ、今日の帳簿なんです」


 リリスは両手で抱えていた帳簿を差し出す。リシアは驚いたように一瞬目を見開き、それから柔らかな笑みを浮かべた。


「まあ……こんなに整っていて、見やすくて。あなたがまとめたの?」


「一応、アイシャと相談しながら。父様も、驚いていました」


 リシアは帳簿を開いてざっと目を通すと、ページを丁寧に戻しながら静かに頷いた。


「すごいわ、リリス。数字のことはあまり詳しくないけれど、それでも“努力”の形が見えるの。こうして一つ一つ積み重ねていくのね……私、安心したわ」


 その言葉に、リリスの胸が少しだけ熱くなる。母に褒められることの温かさは、どんな成果よりも沁み入るものだった。


「ありがとう、母様」


 その時、台所の隅から小さな声が聞こえた。


「ねえねえ、今日のごはん、なんだと思う?」


 ルシェルがにこにこしながら、木のスプーンを手に振り向いた。横にはルーファスがいて、手にしたエプロンの紐を懸命に結ぼうとしている。


「ふふ、二人とも、お手伝いしてくれてるの?」


「うんっ! おねーちゃんがすごいって、お父様が言ってたから、今日はがんばるの!」


「ルーファスがね、パンにバター塗る係なのよ」


 そう言いながら、ルシェルはスプーンでじゃがいもの煮込みをゆっくりかき混ぜている。鍋の縁に届くよう、足元には踏み台が置かれていた。


「ふたりとも、上手にできてるわよ。ね、母様」


「ええ。……この子たちがこんなに意欲的なのは、きっとリリスが一生懸命だからよ」


 リシアがそう言って微笑むと、リリスは照れたように視線を落とした。


「でも……みんなががんばってくれるから、私ももっとがんばらなきゃって思うんです。だから今日は、ちょっとだけ特別な夕餉にしませんか?」


「まあ、どんなふうに?」


「炊き出しでも余ったじゃがいもがあったから、リナさんが簡単なグラタン風にしてくれたんです。あと、パンも焼き立てですし……ちょっとだけチーズも」


「それは贅沢ね。でも……そういう夜があっても、いいと思うわ」


 リシアの言葉に、ルシェルとルーファスがぱあっと笑顔になる。


「やったー! グラタン!」


「チーズ入りなんてすごいな!」


 リリスは家族のその笑顔を見つめながら、胸の奥でそっと拳を握る。この瞬間こそ、自分が目指していたものだと確信できた。


 この台所には、確かな未来があった。


 夕暮れがすっかり落ちた頃、ラヴェンダー子爵家の食卓には、家族が自然と集まっていた。テーブルの上には、焼き立てのパン、野菜のスープ、そしてじゃがいもとチーズを使ったグラタン風の一皿が湯気を立てている。


「わあ、ほんとにチーズの匂いだ!すごいなあ!」


 ルーファスが目を輝かせて言うと、ルシェルも負けじとスプーンを構える。


「いただきます、してからよ?」


「うん……いただきます!」


 子供たちの声に、皆が笑って頷いた。


「いただきます」


 クラウスもいつになく穏やかな表情でスプーンを取り、リシアの横に座るリリスにちらと視線を送った。


「……やはり、家族そろって食べる夕餉はいいものだな」


「ええ、本当に」


 リシアがそっと微笑む。その隣で、リリスは少しだけ背筋を伸ばして応じた。


「今日は、領の皆さんにも感謝の気持ちをこめて“少しだけ特別な夕餉”にしたかったんです」


「特別?」


「はい。さっきもお話ししましたが、市の売上と税収の報告、商会の正式な登記……たくさんの方が支えてくれた成果が形になってきて。それを、まずは家族と分かち合いたいと思って」


 クラウスはスプーンを置き、ゆっくりと頷いた。


「お前の言うとおりだな。……こうして食卓を囲む時に、何が必要なのかを考えさせられる。贅沢じゃなくて、感謝だな」


 ルーファスがパンをかじりながら、何気なく言った。


「おねーちゃん、すごいなぁ。ぼく、まだぜんぜん計算もできないのに……」


「ふふ、ルーファスはまだ覚えることいっぱいよ。ゆっくりでいいの」


 リリスが笑いかけると、ルシェルも得意げに言う。


「わたし、おねーしゃまみたいになりたい!お料理も、数字も、笑いかたも!」


「笑いかたまで……それは難しいかもね」


 皆がくすくすと笑い出す。台所に残っていた使用人たちも、物音を立てないように微笑みながら静かに場を見守っていた。


 外は夜の帳がすっかり下りていたが、食卓の周囲だけは、温かな光に包まれていた。


 リリスはふと手を止めて、皆の顔を見渡した。


 父が静かに語り、母が支えてくれる。弟と妹が笑って隣にいる。――それは、数か月前の自分が想像もできなかった未来だった。


 ラヴェンダー家の未来を照らすのは、大きな富や名声ではなく、こうした小さな食卓の灯りなのかもしれない。リリスは心の中で、そう思った。


「……ごちそうさまでした」


 最初に手を合わせたのはルシェルだった。


「ごちそうさま」


 それに続いて、全員が口々に言葉を重ねる。


 この夜の温もりが、明日の活力になると信じて。静かに、穏やかに、ラヴェンダー子爵家の一日は幕を閉じていった。



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