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ラヴェンダー印、ふたたび旅立つ

 秋風が冷たくなり始めた朝。ラヴェンダー子爵家の台所には、ほんのりと甘い香ばしさが漂っていた。


「ん、いい焼き色になったわね。これなら、袋に入れても潰れない」


 リナはオーブンから取り出した焼き菓子を、ひとつひとつ丁寧に鉄板から外していく。表面には焼き印であしらった「ラヴェンダー」の紋章――ラヴェンダー印のマークがくっきりと浮かび上がっていた。


 リリスは隣で、粗熱を取った菓子を袋に詰める作業を黙々と進めていた。どれも形が揃い、焼き色も上々。新たに導入した焼き印も安定してきた。


「これ、焼き印の押し方次第で雰囲気だいぶ変わるんだね。ちょっと位置ずれるだけで不格好になるし……」


「そうなの。慣れるまでは試し押ししてからじゃないとね。あんたみたいな商売屋さんは特に、“見た目”にもうるさいんでしょ?」


「う、うん……お客様の第一印象って大事だから」


 リリスが苦笑しつつ袋を整えると、リナがふっと目を細めた。




「それにしても、見違えたね。最初は“とりあえず形になればいい”って感じだったのに。今じゃ焼き色も揃えて、シール貼る角度まで気にするようになってるんだから」


「うぅ……前はそんな雑だったかな……」


「雑というか、必死だったんでしょ。今のあんたには、余裕ができたのよ。……それだけ、前に進んできたってこと」


 リナの声は柔らかかった。


 袋詰めされた菓子は、次々と籠に並べられていく。今日の市場での主力商品となる、リナとリリスの“新作焼き菓子”だ。


「並べ方、気をつけなさいよ? 目線の高さと色のコントラスト、あと光の当たり方。ひと工夫で印象変わるから」


「うん! アイシャと相談して、いつもより目立つ配置にするつもり」


 そこまで聞いたリナは、「ふん」と鼻を鳴らして、口角を上げた。


「……あんたたちが堂々と売ってくれるなら、それがいちばん宣伝になるわ」


「リナさん、今日一緒に来てもらえたら心強いんだけど……やっぱり無理かな?」


 ぽつりと漏れたリリスの言葉に、リナは少しだけ眉を寄せる。


「今は、まだね。あたしが外に出てる間に、屋敷の中が回らなくなったら意味ないし。それに……」


 ふいに視線を逸らして、少し照れくさそうに続けた。


「市場に出るってことは、“看板を背負う”ってことでもあるでしょ。あんたたちがどこまで通用するのか、もうちょっと見てからでも遅くないわ」


 その言葉は、決して突き放したものではなかった。むしろ、“次は一緒に”という予感を含んだ含蓄あるものだった。


 リリスは嬉しそうに微笑む。


「わたし、もっとがんばらなくちゃだね」


「そ。そうやって、もっともっと良い品を生み出しなさい。あんたの味と、あたしの腕――その両方が揃って、ようやく“本物”になるんだから」


 朝の台所に、ぽつんと日差しが差し込む。

 少女たちは、それぞれの役割を胸に、今日という一日へ向かっていた。


 市場は、朝の開場を迎えてすぐに賑わい始めていた。


 ラヴェンダー子爵領の領都にあるこの地方市場は、月に数度の大規模市とは別に、地元の商人や農家が日々小規模ながら商品を持ち寄る常設型の広場だ。ラヴェンダー家は、この市場の片隅にある屋根付きの小さな木製ブースを借り、数か月前から定期的に出店していた。


 アイシャとリリスは、慣れた手つきで商品の陳列を始めている。


「こっちの台には、ラヴェンダー印の焼き菓子を目線の高さに。奥には漬物の瓶を……よし、並べる順番は昨日の通りでいこう」


「今日はこれ、新作って書いた札を出しましょうか?」


「うん、それお願い。あと、昨日夜なべして作った試食用も……」


 ふわりと甘い香りが風に乗って、広場を漂う。今朝焼いたばかりの“ラヴェンダー焼き印入り菓子”は、素朴ながら目を引く形に仕上がっていた。


 リリスは持参した手製の布張り看板をブース上部にくくりつける。


 《子爵家謹製 やさしい味の焼き菓子と保存食》


 字は幼さが残るが丁寧で、来る客の目を引くには十分だった。


 そのとき、ふいに声がかかる。


「おや、ラヴェンダーの小さなお嬢さん。今日も来ておられるとは!」


 振り返ると、そこには顔なじみの若手商人が立っていた。前回の出店で漬物を気に入り、リリスに少し商売の話を持ち掛けた人物だ。


「こんにちは。今日は新作の焼き菓子も持ってきました」


「ほう、これはまた……この焼き印、手作りですか?」


「はい。お菓子の見た目にも“物語”があると、覚えてもらいやすいって聞いて」


 リリスの言葉に、商人は「なるほど」と頷く。


「見た目も大事ですが、味の記憶も残りますからな。……試食、いただいても?」


「もちろんです。どうぞ!」


 小さな一口サイズに切った試食菓子を渡すと、男は口に運び、ゆっくりと咀嚼した。


「……おお、素朴なのに、あとからじんわりと甘みが広がる。これは……」


「干しリンゴと麦粉、それにリナさん特製の“卵入りの焦がし糖液”を少し混ぜてあります」


「焦がし糖液!? いやはや、子爵家の厨房は実験場のようですな。いや、これは買いましょう。十個ください」


「ありがとうございます! ご自宅用ですか? 袋の種類をお選びいただけます」


 アイシャが丁寧に対応し、リリスはにこにこと会計を進める。


 (これで今日の売れ行き、いい流れになるといいな)


 リリスが胸をなでおろしたそのとき、別の方向からも見慣れた顔が現れた。


「あっ、ミーアちゃん!」


 幼い少女が母親に手を引かれながら近づいてくる。前にも何度か焼き菓子を買いに来てくれた、常連の子ども客だ。


「お姉ちゃんのおかし、きょうもあるの?」


「あるよ。今日はね、新しいマークがついてるの。ラヴェンダーの花の形、見えるかな?」


「みえるー! かわいいー!」


 リリスは膝を折って視線を合わせ、焼き菓子をひとつ手渡す。


「これ、特別に味見してみる? 甘すぎないようにしたから、フィーちゃんにも分けてあげてね」


「うんっ!」


 嬉しそうに笑うミーアに、リリスもつられて笑みを浮かべた。


 (こうして“名前”で買いに来てくれる人がいる。それって、すごく嬉しいな)


 商人としての喜び。物を売るという実利以上に、“覚えてもらえること”“また来てもらえること”の重みが、じわりと胸にしみてくる。


 アイシャが耳元で小さく囁いた。


「……リリス様。このままいけば、今日も完売間違いなしですね」


「うん。午後の仕込みに帰る前に、きっちり売り切りたいな」


 きちんと毎回完売できている、市場出店と商会経営がようやく安定し始めた証でもあった。


 朝の市場は、昨日よりも幾分涼しく、風も穏やかだった。

 露店の軒先に並ぶ野菜や布、陶器の皿の間に、小さな焼き菓子のかごがすっと並ぶ。


「……うん、やっぱりこのラヴェンダーの焼き印、目を引くね」

 リリスは、整列させた焼き菓子の上から視線を巡らせ、静かに満足げに頷いた。

 ラヴェンダーの花を模した印は、単なる目印に留まらず、今や“この味なら安心”という印象すら生み出しつつある。


「アイシャ、値札の文字はちょっと小さめにして、“焼き印入りは限定品です”って添え札にしてみない?」

「かしこまりました。……あ、それなら、こちらの焼き菓子の説明文と並べるようにすると、お客様の目に入りやすいかと」

「いいね。じゃあ、焼き印入りの方は少し手前に寄せて」

 二人は息を合わせ、手際よく並べ替えていく。


 市場の人波がじわじわと増えてくる時間帯。

 今日も、顔なじみの客たちがぽつぽつとやってくる。


「お嬢ちゃん、昨日のお菓子、旦那がうまいってうるさくてさ。今日もあるかい?」

「はい、今日もこちらにございますよ。焼き印のあるものは数が少ないので、お早めにどうぞ」

「ほほう、こりゃまた……ほんとに子爵家の出してるもんかね。味が“ちゃんとしてる”んだよな」


 言葉に混じるのは驚きと賞賛、それにちょっぴりの疑い。

 けれど、その反応すらリリスには嬉しかった。信頼を積み重ねる、地道な手応えがそこにある。


「リリスお姉ちゃん、これも買っていい?」

 小さな子どもが母親の手を引きながら、焼き菓子を指さす。

 リリスは優しく微笑んで、その子の目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「このラヴェンダーのマークが入ったやつは、ちょっと特別なお菓子なんだよ。お母さんにも相談してみてね」

「……うん!」

 満面の笑みを浮かべてうなずくその様子に、母親も思わず笑みを浮かべた。


 「こうして話してると、普通の町娘みたいだな……お嬢様なのに、えらい親しみやすいっていうか」

 通りすがりの年配の男がぽつりと呟く。

 それを耳にしたアイシャが、すかさず応じた。


「お嬢様は、“町のために何ができるか”をずっと考えておられますから」

「なるほどな……そりゃ応援したくもなるわ」


『まあ私の前世がこっちで言う町娘だったからなんだけどね!』


 リリスがそう思っていると気恥ずかしげに頭を掻いて、男はポケットからダブセン硬貨を数枚取り出した。


「じゃあ、今日は“応援セット”ってことで、いくつか買わせてもらうぜ」

「ありがとうございます!」

 リリスとアイシャは、頭を下げて笑みを交わし合う。


 午前の販売は順調に進み、焼き印入りの品はあっという間に完売した。

 それをきっかけに、他の焼き菓子や漬け物も動きが早くなり、荷台の上は着々と空になっていく。


「焼き印……やっぱりすごい効果ですね」

「うん。でも、これはあくまで“第一歩”。これから、“ラヴェンダー印”が“この味なら信じられる”って思ってもらえるように、もっと頑張らないとね」


 空になったかごを整えながら、リリスは真剣な眼差しで次の展開を思い描いていた。



 焼き菓子の焼き印が効いてきたのは、翌日の午前も終わりに差し掛かった頃だった。


 「おねーちゃん、“ラヴェンダーのマーク”のお菓子、まだある?」


 可愛らしい声にリリスが振り向くと、二人組の子供が小さな手をつないで、台の前に並んでいた。見れば、それぞれ手に小銭を握りしめている。


「うん、あるよ。これと、こっちのクッキーにもついてるよ」


 リリスはにこやかに答え、焼き印の入った菓子を手に取って見せた。


「やったあ! 昨日、お母さんが“これ美味しかった”って言ってたの!」


「わたし、おばあちゃんにも持ってくね!」


 二人は笑いながらお金を渡し、大事そうに袋を抱えて去っていく。リリスはその背を見送りながら、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……ラヴェンダーの印、すごいね」


 隣で袋詰めを手伝っていたリナが、ぽつりと呟いた。


「最初は“可愛いね”くらいだったのに、もう子供たちの間じゃ“あのマークのお菓子”って認識されてる」


「うん。“名前じゃなくても通じる”って、すごいことだよね」


 リリスも同じ思いだった。

 たったひとつの焼き印が、こんなにも人の記憶に残るとは思わなかった。

 けれど、それこそが“ブランド”というものなのだと、今ならわかる。


「このマークがついていれば美味しい――そう思ってもらえるなら、わたしたちの手仕事も、少しずつ価値になる」


「じゃあさ、この印……屋敷の布製品にもつけてみない?」


 そう口を開いたのはアイシャだった。

 袋の結び目をきゅっと締めながら、彼女はまっすぐにリリスを見た。


「リリス様が考案されたこの印、屋敷の織物や刺繍にもあれば、“ラヴェンダー印”として、品物に統一感が生まれます」


「屋敷の織物に……そっか、それも“うちの商品”なんだよね」


 リリスは、焼き菓子を見下ろす。ラヴェンダーの花を模した印が、きれいに焼き色のついた生地の上に浮かんでいた。


「まずは、“記憶に残る味と印”。そこから“信用される印”に育てていきたい」


「つまり、ラヴェンダー印=誠実な手仕事、っていうイメージを作るんだね」


「うん。わたしたちが“誠実”を積み重ねることで、いつか、名前だけじゃない“信用”になる。……それが、ずっと使える“力”になるから」


 焼き印はただの飾りじゃない。

 “品質の証”になれば、それはきっと、未来へ続く橋になる。


 夕方になり、店じまいを終えたリリスたちは、屋敷へと戻っていた。荷車を引く従者たちの足取りは軽く、市場での手応えが彼らにも伝わっていたのだろう。


 暖炉の灯りがほのかに揺れる応接間に、リリスの姿があった。

 丸いテーブルの向こう、クラウスがいつもの椅子に腰掛けている。手には晩酌代わりのハーブティーが湯気を立てていた。


「今日は……ずいぶんと売れたようだな」


 穏やかな声だった。問いというより、確認に近い響き。

 リリスはふっと微笑んで、正面から父を見つめる。


「ええ。けれど“売った”というより……“信頼”を買ってもらえた、そんな気がします」


 クラウスの眉がわずかに上がる。


「信頼、か」


「お菓子が“美味しい”って言ってもらえるのはもちろん嬉しいけれど……“この印があるから安心”“また買いに来るね”って言ってくれる人たちがいて……それが、何より嬉しくて」


 言葉に込められた静かな熱意は、確かに父に届いていた。


 クラウスはティーカップを置くと、しばし黙考するように目を伏せた。

 そして、ふと窓の外に目を向けながら、ぽつりと呟く。


「……本当に、お前は“あの事故の後”から、変わったな」


 リリスの表情が、わずかに動いた。


(あの事故――)


 それは、家の没落のきっかけとも言える出来事だった。

 名家だったラヴェンダー家が、一夜にして領地の主導権を失いかけた事件。まだ年端もいかぬ少女だったリリスも、その夜の空気を、静かに、そして深く胸に刻んでいた。


「昔のお前なら、こんなこと……いや、何かを背負おうなんて、思いもしなかったろう」


 それは、父としての実感と、誇らしさ、そしてほんの少しの寂しさを含んだ言葉だった。


「お前が市場に立つ姿を、正直……最初は見ていられなかった。貴族の子が“物売り”のまねごとなど……そう思っていたからな」


 クラウスは、苦笑まじりに肩を竦める。


「でも、今日の評判は……まるで、“希望の芽”が根を張り始めたようだった」


 その言葉に、リリスは目を見開いた。


「希望……?」


「そうだ。この領地にとって、お前の商売は“救い”かもしれん。……いや、“お前自身”が救いなんだろうな」


 まっすぐに向けられた言葉が、胸に染み入るようだった。

 リリスは、目を伏せて小さく頷く。


「……ありがとう、お父様。でも、まだ始まったばかりです。今日のことで満足するわけにはいきません」


 クラウスはうなずいた。


「なら、私も本腰を入れて支援しよう。……この領地の未来に、お前の商売に、賭けてみたくなった」


 それは、父としてだけでなく、子爵としての“投資”の宣言でもあった。


 リリスの胸に、温かいものが広がっていく。

 理解されることの喜びと、託された期待の重み。

 家族の信頼が、自らの道を照らす灯火となっていた。


 立ち上がりかけたリリスに、クラウスが一言、ぽつりと付け加えた。


「……だが、くれぐれも無理はするな。お前はまだ九つ。子供であることを忘れるなよ」


 その言葉に、リリスはくすりと笑った。


「はい。“子供だからこそ、できること”もありますから」


 少女の瞳には、確かな光が宿っていた。

 家族に認められたこと。

 信頼を形にできた一日。

 そのすべてが、“次の目標”を指し示していた。

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