はじめての売り物、はじめての一歩
数日後、薄曇りの空の下、屋敷の台所は朝からあわただしかった。
焼き上げられたパン耳の乾パン——香ばしくて甘いラスク風のそれ——が、籠に丁寧に詰められていく。
「これ、本当に全部売るの? おやつにしてもいいのに……」
ルーファスが名残惜しそうに乾パンを見つめながら呟くと、リリスはくすっと笑った。
「売れたらまた作れるから。我慢して、ね?」
ルーファスはしぶしぶ頷きながらも、最後に一つ口に放り込んだ。
だが——問題があった。
「そもそも、貴族令嬢が市場で売り子って……如何なさいますか?」
アイシャの問いに、リリスは真剣な顔で頷いた。
「やっぱりそのまま行くのはまずいよね。没落してるとはいえ、まだ“子爵家の令嬢”なんだから」
「では、変装を……ご用意いたしましょうか?」
アイシャが小さく首をかしげながら言うと、リリスは即座に手を叩いた。
「そう! 変装しよう。私もアイシャも、それっぽく見えないようにしなきゃ」
屋敷の隅に保管されていた、古びた布や使用人の衣服を引っ張り出し、リリスは自らの服装を整えた。
粗末な布で体を包み、髪は緩くまとめて帽子を深くかぶる。鏡の前に立つと、幼い女の子にしか見えない。
「どう? それっぽくなった?」
「……お嬢様、実に貧しそうでいらっしゃいます」
「褒め言葉として受け取るよ!」
問題はアイシャだった。
黒髪を三つ編みにしているその姿は、地味なはずなのに、なぜか目を引く。生まれ持った整った顔立ちと、すっとした立ち居振る舞いが“令嬢感”を隠しきれていない。
「うーん、どうしても高貴に見えるね。なんで?」
「……申し訳ございません、お嬢様。なるべく控えめに振る舞っているつもりなのですが……」
アイシャは懸命に猫背を意識したり、表情を崩したりと努力したが、その美しさは逆に“神秘的な使用人”にしか見えなかった。
「まあ、いいか。とりあえず変装ってことで通そう!」
リナも試作品の詰まった籠を持って手伝ってくれたが、実際に売るのはリリスとアイシャの役目だった。
城下の市は週に一度開かれる。村人や商人たちが集まり、野菜、織物、小物などが並ぶ賑やかな空間。
その一角に、リリスとアイシャはささやかな布を敷き、乾パンを並べて座った。
初めての市。
初めての売り物。
リリスの胸は、期待と不安でどきどきと脈打っていた。
(どうなるかな……でも、やってみないと始まらない)
最初は誰も足を止めなかった。
だが、ひとりの子どもが香ばしい香りに誘われて近づき、試食をひとくち。
「おいしい!」
それを皮切りに、ぽつりぽつりと人が集まり始めた。
「これ、保存食なの?」「なんだか面白い味だね」「お茶請けにちょうどいい」
口コミで少しずつ広がっていく評価。
中年の女性がひとつ乾パンを手に取りながら、リリスの顔をまじまじと見つめた。
「あら……なんだか、うちの子爵家様の令嬢に、ちょっと似てるねえ」
リリスが固まる中、アイシャがすかさず丁寧に頭を下げた。
「恐れ多いことでございます。あのような高貴なお方に似ているとは、とても光栄に存じます」
「……え、えへへ。おばさん、目が良いんだね!」
リリスは引きつった笑顔を浮かべながらごまかした。
年配の男性が足を止めて話しかけてきた。
「こりゃ、どこかの商会が作った新製品かね? いや、この香ばしさは……どこの会長さんが仕掛けたんだか」
「私たちは……その、商会の下っ端でして……今日が初めてなんです」
「へぇ、こりゃ見込みあるな。会長さんによろしく伝えな!」
「は、はい! 恐れ入ります!」
売上は小さかったが、確かな手応え。
屋敷に戻ったあと、ルーファスは乾パンを少しだけもらって満足そうに笑っていた。
「ボクのおやつ、なくなっちゃうと思ったけど……また作ってくれる?」
「もちろん。なんなら、お店開いちゃおうか?」
「ほんと!? ボク、店長になる!」
「じゃあ私は商会の創設者、会長ね!」
笑い合う二人の横で、アイシャはそっと胸に手を当てていた。
(お嬢様は……やはり、特別なお方です)
そして、その傍らで一緒に変装しながらも、ただの“侍女”ではいられない自分の存在を改めて実感していた。
(私の役目は、お嬢様を見守り、支えること。どんな形でも、どこまでも……)
こうして、令嬢の変装市デビューは無事に終わった。
小さな乾パンから始まったリリスの経済戦略は、ほんの一歩を踏み出したばかり。