没落子爵家の現実と、小さな誓い
夕暮れ時、リリスは薄暗い廊下を歩いていた。
目を覚ましてから半日が経ち、身体のだるさもようやく引いてきた。
部屋の窓から差し込む斜陽が、埃の舞う空気を照らしている。
屋敷の中は、どこもかしこも老朽化が進んでいた。壁紙は色褪せ、柱にはひびが入り、使用人の手が回らなくなった廊下は軋む音を立てる。
(……こりゃひどいな。貧乏ってレベルじゃないよ)
幼い体でゆっくりと歩きながら、リリスはこの屋敷に漂う疲弊を感じ取っていた。
前世では節約OLとしてアパート暮らしをしていたが、まさか異世界の貴族屋敷で“それ以下”の暮らしを味わうとは思わなかった。
「リリスー! お姉ちゃーん!」
突然、足音が駆け寄ってくる音がした。
振り返ると、リリスの弟ルーファスが、満面の笑みで駆けてきた。
「もう元気になった? ボク、ずーっとお姉ちゃんのこと、まもってたよ!」
「ふふ……ありがとう、ルーファス。お姉ちゃん、すっごく助かったよ」
小さな体をぎゅっと抱きしめてくるルーファスに、リリスは自然と笑顔になる。
彼はまだ3歳ながら、やたらとしっかりしていて、まるで忠犬のように姉のそばを離れない。
「お姉ちゃん、今日ね、お父さまとお母さま、なんだかむずかしい話してたよ」
リリスは表情を引き締めた。
(……きっと、お金のことだ)
そう思って向かった先は、家族が集まる居間。
ラヴェンダー家の主、クラウス・ラヴェンダー子爵は、やつれた顔で暖炉の前に座っていた。
その隣には、優しくもどこか切なげな微笑を浮かべる妻、リシア。
そして、使用人として残っているわずかな顔ぶれ——忠義の家令ノエルと、その孫娘にしてリリスの専属侍女であるアイシャ、台所係のリナ、掃除担当のメイベル、洗濯担当のエリー。
最後に、新人として最近雇われた少年付き人ライナスが、そっとルーファスの後ろに控えていた。
ライナスは14歳で、身寄りがなく、格安の給金で雇われたばかり。
もともとは領民の子でありながら、剣術の心得があることから、クラウスの計らいでルーファスの補佐役として屋敷に引き取られたのだ。
「……リリス。体調はどうだ?」
「うん、大丈夫。ちょっとだるいけど、もう平気」
クラウスは頷いたが、その目には疲れが色濃く残っている。
「父さま、わたしたち……今どれくらい困ってるの?」
ストレートな問いかけに、大人たちは一瞬言葉を詰まらせた。
やがてクラウスがぽつりと語り出す。
「鉱山の枯渇が決定的だ。交易路も隣国の新街道に取って代わられた……。貴族としての影響力はもう風前の灯火だよ」
「じゃあ、もう収入がないってこと……?」
「……そういうことだな」
ラヴェンダー子爵家がかつて繁栄していたのは、鉱山の銀と、交易で栄える拠点だったからだ。
しかし資源の枯渇と新たな交易路の出現により、その利権を失い、今や家計は火の車だった。
かつてこの屋敷には10名を超える使用人がいたが、今ではわずか数名。
広い屋敷は手入れが行き届かず、雨漏りの修理も滞っている。
それでもクラウスは、誇りを捨てず、領地民の生活を守るため、あらゆる資産を削ってでも支出を抑えていた。
「お金なら、親戚のベルガモット伯爵家に頼れないの?」
その名を出すと、空気がピリッと張り詰める。
クラウスは苦々しく唇を噛んだ。
「……一度、頼ったことがある。しかし、断られた」
それだけではない。
ベルガモット伯爵家はかつて、クラウスの父がラヴェンダー家を継ぐ際に政略結婚の話を持ち掛けてきた名門であり、形式上は血縁に近い存在だ。
だが、今となっては没落したラヴェンダー家に見向きもしない。
「おまけに……かつて、リシアに縁談を持ち掛けてきたのも、あの男だ」
「えっ、お母さまに?」
リリスが驚いて尋ねると、クラウスは静かに頷いた。
「そう。だがリシアは、私を選んだ。そして……それからというもの、あの男は我が家に冷淡でな」
リリスは内心で舌打ちした。
(見返りがないと動かないのは相変わらず、ってわけか)
「お父様、私に少し考えがあるのです。市場で商売をする許可を頂けますか?」
「仮にも令嬢のお前が商売…?大丈夫なのかね、そもそもまだまだお前は幼い。」
「わかっております、でもどうにか今を現状を打破していかないといけない、という事は理解しましたので精進いたします。」
「ふむ…そこまで言うのなら許可しよう、ただし絶対に無理をしたり危険な事はしないでおくれ。リリスは大事な私の娘なのだから。」
「もちろんです、お父様。」
そこで ルーファスが小さな手でリリスの頬を包み込む。
「お姉ちゃん、ボクね、お姉ちゃんとリナさんがいれば、きっとなんでもできるって思うよ!」
「ありがとう、ルーファス。お姉ちゃん、もっともっと頑張るね」
(これが……最初の一歩)
リリスの“節約無双”は、着実に形を成しつつあった。