笑顔と酸味と、ちょっぴりのハプニング
朝の空気には、少しだけ湿気を含んだ初夏の香りが漂っていた。
リリスは仕上がったピクルス瓶をひとつ手に取り、日の光にかざして覗き込む。
「うん、見た目もいいし、香りも問題なし」
ルビーがすぐ隣で頷いた。
「瓶詰めは目を引くものが勝負よ。可愛いラベルも効いてるわ」
マリーも緊張した面持ちで、きれいに整列した野菜瓶を見つめる。
「……売れるといいな。お父さんも楽しみにしてたし」
「売れるよ。だってこれは、わたしたち三人の“最初の答え”なんだから」
リリスの声に、マリーの頬がふわりと緩んだ。
三人は荷車に商品を詰め込み、ルビーの店のある市場通りへと向かう。
今日はルビーの店舗脇に設けた「試作品販売コーナー」でのデビューだ。
市場に着くと、開店準備に慣れたルビーが手際よく机を並べ、簡素な布をかけた即席の出店スペースが整った。
「さぁ、お披露目よ。“百合草の誓い”の記念すべき初商品ね」
「ちょ、ちょっと恥ずかしいかも……」
「ふふ、でもこういうのは勢いが大事だから!」
リリスが元気よく声を張る。
「いらっしゃいませー! 新鮮野菜のピクルスと、香り豊かなパン床漬け、試食もありますよーっ!」
元気な呼び込みに、すぐに二、三人の婦人が足を止めた。
「まぁ、可愛らしい瓶ね」
「パン床漬けって……パンを使ってるの? 珍しいわねぇ」
「はい! 焼き立てのパン耳を乳清で戻して、ハーブと塩で発酵させてるんです」
リリスの説明に、「へぇ」と感心した声が重なった。
ルビーが間を見て、さっと試食品を差し出す。
「まずは、カブのピクルスからどうぞ。ほんのり甘くて、お子様にも人気ですよ」
マリーも小皿を持って、スライスされた人参のパン床漬けを配っていく。
「こちらはほんのりセージの香り。冷やして食べると夏場にぴったりなんです!」
客たちは口にして、思ったよりもさっぱりしていることに驚き、次第に「お土産にいいかもね」といった声が聞こえるようになる。
「……売れてる」
マリーが小声で呟くと、リリスはにっこり微笑んだ。
「うん、このままいこう」
こうして、“百合草の誓い”の新商品は、市場で静かに、けれど確かな一歩を踏み出したのだった。
昼を過ぎて、人通りが最も多くなる時間帯。
屋台の前には小さな列ができはじめていた。
「このピクルス、贈り物にしても素敵ね」
「涼しげだし、瓶も可愛いし……ほら、あのカブのやつ、もう残り少ないわよ」
賑わいの中、ふとした声が聞こえた。
「こっちのパン床ってやつ、塩辛いだけじゃなくて……深い味がするわ」
「本当だ、野菜も歯ごたえがいいし。これ、どこのお店の品?」
リリスたち三人は顔を見合わせて小さく頷き合い、即席の看板を掲げた。
――“百合草の誓い・初商品 ピクルス&パン床セット”
その時、ざわっと周囲が騒がしくなる。
「大変! 八百屋の裏手で、野菜を積んだ荷車がひっくり返ってるって!」
「えっ、それって……あの農家さんの荷じゃない?」
マリーが顔色を変える。
「……たぶん、うちの隣のアレーナさんだ」
「行こう!」
リリス、マリー、ルビーは即座に立ち上がり、現場へと駆け出した。
そこには、青く大きなキャベツやナスが、石畳の上にばらばらと転がる光景が広がっていた。
近くにいた女性が困ったように膝をついている。
「売り物にならないわ……みんな、踏まれたらダメになる……」
「まだ使えます!」
マリーがすぐさま駆け寄り、丁寧に野菜を拾いはじめる。
「全部は無理でも、ピクルスやパン床にすれば、多少傷んでもなんとかなるかも」
「だったら、すぐに洗って、漬け込めるようにすればいいわ」
ルビーが冷静に応じ、リリスはその場の人たちに呼びかける。
「この場でどうにかするのは難しいけど、わたしたちが買い取って、加工して売ってみせます! だから、少しだけ時間をください!」
周囲にいた人たちの表情が変わる。
「本当に……やってくれるの?」
「頼もしいな、“百合草の誓い”ってやつ……」
その声に、リリスたち三人は一歩前に出て、それぞれの手を重ねた。
「この野菜、無駄にしないよ」
三人の目が合い、力強く頷き合う。
小さな騒動が、次なる挑戦への扉となった瞬間だった。
夕暮れ時、ルビーの店先は、日中のにぎわいを終え、静けさに包まれていた。
空は淡い茜色に染まり、ピクルスの瓶の中の野菜が、柔らかな光を反射して揺れている。
「ふぅ……初日としては、上出来だったと思うよ」
リリスが瓶の整理をしながら、ややはにかみつつ呟いた。
「想像以上に売れたわね。ラベルの評判も良かったし」
ルビーは満足げに頷き、いつもの勝気な笑みを浮かべている。
マリーは胸元のポーチをぎゅっと握りしめながら、小さな声で言った。
「お父さんに……今日のこと、ちゃんと話すね。わたし、もっと頑張るって言いたいから」
リリスはそっとマリーの手を取る。
「“百合草の誓い”は、今日から本格的に走り出すんだもん」
「うんっ!」
ルビーが腕を組み、ふっと軽く笑う。
「これからも忙しくなるわよ。リリスも覚悟しておきなさいね」
「もちろん。楽しみで仕方ないんだから!」
その瞬間だった。
「ねえリリス、さっきの奥様方の話、聞いてた?」
アイシャがすっと近づき、耳打ちのように囁いた。
「えっ? どの話?」
「どうやら最近、このあたりの農家の中で“収穫物の痛みが早い”って悩みが広がってるみたい」
「……! それって、うちに相談に来たマリーの家だけじゃなかったってこと?」
アイシャは静かに頷く。
「気温のせいなのか、保存方法の問題なのか……原因は不明だけど、どうやら広がってるようです」
リリスは顔を上げ、夕焼けの空を見上げた。
売れることの喜びのすぐ裏側に、誰かの困りごとがある。
その両方に向き合うのが、“商人令嬢”としての自分だと、胸の奥で思う。
「……調べてみよう。売るだけじゃなくて、もっとできることがあるはずだから」
夕焼けに染まる横顔に、ルビーとマリーもまた、真剣な眼差しを向ける。
新たな挑戦の気配が、確かにそこにあった。