百合草の誓い、手を取りあえた友との結成の日
早朝の市場。まだ空気がひんやりと冷たさを残している時間帯だというのに、ざわめきの声がいつもより早くから聞こえていた。
「……え、まさか全部ダメになったのかい?」
「昨日のあの雨でな…。収穫済みのが濡れて、乾かす暇もなく箱詰めされちまったらしい」
「輸送の荷車も遅れたって話だぜ。町に出す分、全部やり直しだとさ」
野菜を並べる農家の男たちが、背中を落としながら小声で話している。隣の展示店から耳に入ったそのやり取りに、リリスはじっと耳を傾けた。
「アイシャ……もしかして、これって……」
「ええ。流通の混乱、そして保存が利かないことが原因のようですね。かなりの被害額になるかと」
昨夜の雨は、屋根のない収穫屋を濡らし、農家たちの出荷準備に打撃を与えた。しかも今朝になってから、都心部への駐駅車隊の遅延が伝えられたという。
「このままじゃ、野菜が腐って捨てられるかも……」
リリスは視線を遠くに向け、拳を握った。
(待って。これは……チャンスだ!)
この間試したパン床や、蜂蜜を使ったジャムの保存方法。それらを活かせば、農家の廃棄危機を救えるかもしれない。
リリスは小さく深吸をし、アイシャに向き直る。
「アイシャ、お願い。マリーちゃんを探してきて。話があるの」
「はい。すぐに」
アイシャが姿を消して数分後、怒った様子で戻ってきた。
「お嬢様、マリーさんも出荷で困っているようです。すぐにお連れします」
「ありがとう。急ごう。できるだけ早く手を打たないと……」
市場の騒がしさの中、リリスの目だけが強く、真っ直ぐに未来を見つめていた。
雨によって傷んだ野菜が積まれたままになっている一角で、リリスはマリーと再会した。少し日焼けした肌に、まとめた髪。以前よりも背が伸び、14歳らしい落ち着きを帯びている。市場に立つ姿も板についてきた。
「マリーさん!」
呼びかけに、振り返った少女がほっとしたように笑う。
「リリスちゃん……! あのときはありがとう。今日、大変だったんだ。全部出荷準備してたのに、雨で……」
「聞いたよ。でも、なんとかなるかもしれない。パン床のこと、覚えてる?」
「あれって、野菜漬けるやつだよね? でも……今日の野菜は水分多すぎて、ぬか床でも難しいって言われてて……」
「だからこそパン床なんだよ。水分を吸ってくれるし、発酵も進めばいい風味になる。塩加減さえ調整できれば、きっと大丈夫」
「……ほんとに? じゃあ、うちのニンジンとカブ、持ってきてみる!」
リリスの自信ある言葉に、マリーがぱっと表情を明るくする。
「それとね、ジャムも。蜂蜜があるなら、軽く火を通した果物を瓶詰めにすれば保存できると思うの」
「そうか……ピクルス! ジャムとピクルスにすれば、どっちも長持ちする!」
マリーが拳を握って声を上げたとき、もう一人の少女がゆっくりと歩いてきた。
「ずいぶんと楽しそうね。私も混ぜてもらってもいいかしら?」
ルビー・カーマイン。街では有名な商家の娘で、最近リリスと少しずつ距離を縮めていた。
「ルビーさん……見てたの?」
「ええ。あなたたちの情熱、少しうらやましくなったの。私も少しばかりだけど、余ってるビンやラベルがあるの。使って」
「ありがとう、ルビーさん……!」
マリーが深く頭を下げると、ルビーは照れくさそうに手を振った。
「いいのよ。おいしいピクルスができたら、私も買いたいもの」
そしてルビーはリリスにそっと耳打ちする。
「パン床って……何かしら。後でこっそり教えてくれる?」
「ふふ、もちろん。こっちの発酵文化を広めるつもりだからね」
三人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
「ねえ、せっかくだし、名前つけない? わたしたち三人の、チーム名みたいなやつ!」
リリスが言い出したその提案に、ルビーが片眉を上げる。
「チーム名? なんだか、子供の遊びみたいね」
「ふふっ、違うの。こういうのって、大事なんだから」
リリスは真剣な顔で、小さく呟くように言った。
「――“百合草の誓い”。どう?」
「……百合草?」とマリーが首をかしげる。
「百合の花言葉、『純粋』とか『友情』とか、そういう意味があるって、昔聞いたことがあってね」
ルビーが吹き出す。「昔って、あなた何歳なのよ」
「こほん! ともかく、そういうのってちょっと憧れるの。誓いを立てるって、なんだか格好いいじゃない」
マリーが笑顔で頷く。「私、好き! それ、いいと思う!」
「では、これより――『百合草の誓い』を、ここに結成します!」
三人は顔を見合わせ、声を合わせて小さく笑った。
未来の保存食と、小さな共闘の始まりだった。
三人が小さく笑いあったあと、ほんの一瞬だけ、誰も口を開かなかった。
市場のざわめきの中、風が通り抜け、どこからかパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
「……じゃあ、始めようか。今日から、わたしたちの“保存作戦”!」
リリスが意気込むと、マリーが笑いながら手を合わせた。
「まずは野菜の仕分けと、パン床の準備だね。瓶詰めも手伝ってくれる?」
「もちろんよ。せっかく『百合草の誓い』を名乗ったんだもの、全力でいくわ」
ルビーが肩をすくめつつも、満更でもない笑顔を浮かべる。
少女たちの笑顔は、乾いた市場の空気に、少しだけ新しい風を呼び込んでいた。
その様子を少し離れたところから見守っていたアイシャは、目を細めて、そっと呟く。
「……やっぱり、お嬢様はすごい方です」
それは、嫉妬や焦りでもなく、心からの尊敬の混じった言葉だった。
(でも――置いていかれたくない)
小さくそう呟いた彼女は、静かに屋台の帳面を手に取り、黙って計算を始めた。