卵の夢と、ハーブの香りと
朝の市場に、すっきりとしたハーブの香りが漂っていた。
リリスの屋台の一角には、今日から新たに並べられた小さな石鹸の束。丁寧にラッピングされたそれらは、淡いラベンダー色のリボンと、香草の名前が書かれた手描きのラベルが目を引いていた。
(やっと……やっと形になった……!)
初めての“商品化”となったハーブ石鹸。とはいえ、量はまだ多くない。仕込みに日数がかかるため、今日の分はほんの十数個だけだった。
「いらっしゃいませ~! こちら、新作のハーブ石鹸になりますっ。限定品ですよ~!」
元気な呼びかけに応じて、興味を持った女性たちが足を止める。そしてひとつ、ふたつ――気がつけば、用意していた石鹸は昼前にはすべて完売していた。
「すごい……全部売れちゃった……」
「やはり、香りがよかったのが決め手でしょうか。お嬢様の調合、大正解でしたね」
「ありがとう、アイシャ。でも正直……ここまで早く売れるとは思わなかったよ」
この世界でも“石鹸”そのものは存在する。ただし、庶民が気軽に使えるようなものではなく、どちらかといえば貴族や富裕層の贅沢品。だからこそ、リリスは迷いながらも、少し高めの価格をつけていたのだ。
それでも――買う人はいた。
ハーブの香り、肌ざわり、可愛らしい見た目と包装。それらすべてが、「ちょっとした贈り物にぴったり」と評価されたのだ。
(これで……ひとつ突破口が見えた気がする)
「売り上げで言えば……初期目標、達成だよね?」
「はい! ですが、利益で見ると……ラスクや原材料費がまだ少しかさみますね」
「うん、そこは課題だけど……でも、売れたっていう実績がついたこと自体が嬉しい!」
リリスは両手を胸の前でぎゅっと握って、小さく飛び跳ねた。
「ありがとう、アイシャ。ここまで来れたの、あなたのおかげだよ」
「いえ、お嬢様の行動力と発想力の賜物です」
目を細めて微笑むアイシャ。その視線に、リリスも思わず笑みを返す。
こうして、小さな成功と喜びを胸に、新たな夢への歩みが始まった。
───そして、リリスの思考は、ふと「もうひとつの夢」に引き戻されていく。
(エッグベネディクト……食べたいな)
思わず、口元に手を当てて、ひとりごちる。
ふっくらしたイングリッシュマフィンに、ベーコンととろける半熟卵。
その上にかかる、あの夢のようなソース――オランデーズ。
(でも……オランデーズソースって、どうやって作るんだっけ?)
脳裏に浮かぶのは、前世で読んだ無料の料理系ウェブ小説。
当時のリリスにとって、それはほんのひとときの癒しであり、逃避でもあった。
物語の中のヒロインが、おしゃれな朝食であるエッグベネディクトを恋人にふるまうシーン――。
読んだときは、まさか自分が作りたくなるなんて思わなかった。
(アイシャにも、ルーファスにも、温かくて美味しいものをお腹いっぱい食べさせてあげたい)
そんなふうに考える自分が、今のリリスにはとても誇らしく思えた。
──明日は、また市場だ。
そして、次なる一手も考えなければならない。
少しだけ思考を切り替えながら、リリスは自身の“生活の基盤”についても振り返りはじめた。
(そういえば……こっちで目覚めたあの日あの時買ってきてもらったクズ野菜、塩漬けにしたけど、ちょっと水っぽくて……)
保存はできたが、食感がいまひとつ。味もしみすぎて、結局スープに入れるぐらいしかなかった。
もっと食材を長持ちさせつつ、美味しくする方法――。
(たしか、前世で……“パン床”ってあったっけ?)
糠床の代わりにパンくずを使って、発酵させて漬け物を作る。
あの頃、自家製の糠床は節約のために試してみたけれど、途中で挫折。
でも、スーパーで売ってたパン床の漬け物は、けっこう美味しかった。
(それ、できないかな……? この世界でも)
リリスの瞳が、静かに輝きを宿す。
(試してみよう。パンは手に入るし……ラスク作って出たくずも、使えるかも!)
やるべきことが、また一つ増えた。
だが、リリスは笑っていた。
この世界では、それがとても楽しいことだから――。
「……もっと稼がないと、卵料理は夢のままだわ」
午後の陽射しが傾くなか、リリスは作業台の上に置かれた帳面を見つめていた。
そこには、これまでの売上や経費、商品の仕入れや試作費が細かく記されている。
ハーブ石鹸の初動は好調で、それなりの単価で売れたにもかかわらず、まだ“贅沢品”を自由に扱える余裕までは生まれていない。
「……あの、オランデーズソースの材料って……レモンと卵黄と……あと何だっけ……バター?」
首を傾げながら、前世で必死に読んでいた無料のウェブ小説の一節がふと脳裏をよぎる。
“異世界マヨネーズ無双!”
当時、会社帰りの電車の中で読むのがささやかな楽しみだった、あの異世界グルメ小説。
マヨネーズひとつで貴族の食卓を制した主人公に、自分を重ねてわくわくしていたことを思い出す。
手を打ちかけて、すぐにまた顔をしかめた。
「でも、卵……大量に使うのよね。しかも、こっちの卵って日本のものと違って鮮度の管理もされてないし……腐ったら怖いし……」
保存や流通の環境がまるで違う。今のままではマヨネーズの安定供給は難しい。
だけど、それでも作ってみたい――自分だけの調味料を、この世界で。
「せめて……保存方法がもう少しマシになれば」
その言葉を、ポツリと呟いたときだった。
(あ……そういえば、前にクズ野菜を塩漬けにしたとき……)
リリスは視線を泳がせながら、ふと一話目の記憶を手繰り寄せる。
あの日、初めての市場仕入れで買ってきてもらったクズ野菜。
とりあえず塩で漬けてみたものの、思ったほど美味しくはならず、水分が抜けすぎてスカスカになってしまった。
結局、スープの具材にするくらいしか使い道がなくて、がっかりしたのを思い出す。
「……あの時の失敗を、活かせないかしら」
保存しながら、美味しく食べられるようにできる方法――それはつまり、“漬物”。
しかも、前世で節約のために一時期作っていた、簡易ぬか床セットの思い出がふと浮かぶ。
「そうよ……糠はないけど、パンなら……パン床ならいけるかも!」
使い切れなかったパン、売れ残りの端っこたち、パン耳――。
それを細かくちぎって、発酵させたら、もしかして?
「これで、野菜も少しは日持ちするし、美味しくもなる……!」
頬がほころぶ。目の奥が、再び未来を描く光で満ちていく。
(マヨネーズはまだ早い。でも、保存食ならきっと現実的。次の商売の種になるかも……!)
夜へと近づく空の下、リリスの胸には、またひとつ新しい挑戦の灯がともっていた。
「まずは試してみよう。明日には、試作を始めてみよう――」