塩とハーブと、小さな挑戦者
朝の市場に、いつもと少し違う風が吹いていた。
涼やかな陽光に照らされて、リリスの屋台には色とりどりのラスクが丁寧に並べられている。今朝の主役は、甘味を抑えた“塩とハーブのラスク”だ。
「タイムとローズマリーはこのくらいでいいかしら……」
試作の段階で何度も調整した塩加減と香草のバランス。焼き上がったそれは、かすかにオリーブの香りをまとい、ほんのりとした塩気が食欲をそそる。
「……お嬢様、今朝は並べ方も完璧です」
アイシャが誇らしげに言う。彼女の体調はすっかり戻り、今朝も元気に荷車を引いてくれた。
「ありがとう。今日はいつもより冒険してるから……売れるといいんだけど」
そこへ、屋台を見つめる鋭い視線にリリスが気づいた。
赤毛をポニーテールにまとめた、勝気そうな少女がこちらを見ていた。年の頃はリリスより少し上――十五、六といったところだろうか。
くせ毛混じりのセミロングが風に揺れて、焼けた小麦色の肌に、燃えるようなルビー色の瞳がよく映えている。
「……あんたが、最近ちょっと噂になってる“商人令嬢”?」
少女が、ストンとリリスの屋台の前に立った。少し小馬鹿にしたような口元のゆるみ。そして、鋭く観察するような目。
「あなたは?」
「ルビー・カーマイン。新人だけど、こっちの市場じゃ、ちょっとは顔が利くの」
彼女が腰に手を当てて名乗ると、周囲の商人たちがちらちらとこちらを見た。
(あ、意外と本当に有名人なのかも……)
「ふーん。塩ラスク? 面白いとこ突いてくるじゃない」
「……ありがとう。でも、お客様の声を聞いて作ったものよ」
「へえ、いい耳してるのね。けど甘くないラスクなんて、うまく説明しないと誰も買わないわよ?」
「その辺は……ちゃんと考えてあるの。うちの屋台、今日のテーマは“仕事の合間に食べられるおやつ”よ」
「ふーん……」
ルビーは手に取った試食品を、じろりと眺めると、無言でひと口かじった。
「……!」
一瞬だけ目を見開き、そして口元に笑みを浮かべる。
「なるほど。素人じゃない味ね。思ったより……ちゃんと、勝負になるかも」
そしてルビーは、くるりと踵を返しながらひとこと――
「いいわ。今度の仕入れ、ちょっと相談してあげる。条件次第で、悪くない話よ」
残されたリリスとアイシャは、ぽかんと彼女の背を見送るしかなかった。
「……いまのって、いったい……?」
「お嬢様。あれは“商人ルビー”。あの辺の市場では、若手では一番手ごわいって噂です」
「手ごわい……?」
「はい。それに、きっとまた来ますよ。今度は、本気で“売り物”を見に」
市場に、新たな競争と機会の火種が灯った瞬間だった。
翌日、リリスの屋台に再びルビーが現れた。今日は、腰に革の小袋をさげ、足取りも軽い。
「ちょっとあんた、昨日のラスク、悪くなかったわ。ちょっと相談したいことがあるの」
「……昨日の話、続きかしら?」
ルビーは頷き、ラスクをひとつ手に取った。
「うちの屋台で取り扱ってもいい。場所はこっちの商人街の真ん中、客も多いし、通りの奥まで香りが届けば集客効果も抜群。でも、条件があるわ」
「条件?」
「3日以内に100枚分、全部“同じ味”で仕上げて。それができないなら、この話はナシ」
アイシャが息を呑む。
「それは……!」
「うちの名前を出すってことは、品質が保証されるってこと。片手間の商品じゃ無理なの」
リリスは一瞬だけ悩む。しかしその悩みはすぐに自分の中で解決する。
「“条件付き”って言ったでしょう?」
ルビーは口元を緩めて軽く笑いながら言った。
それに対してリリスは…
「……まいったわ。正直、こんなに早く形にするとは思ってなかったの」
「でも、私はまだ“売り場”を広げるつもりはないの。今はここで、しっかり足元を固めたいから」
リリスの言葉に、ルビーは少しだけ目を見開く。そして、肩をすくめて笑った。
「へぇ……“地に足をつける商売”、ね。あんた、見た目よりずっと堅実なんだ」
「見た目って、どういう意味かしら?」
「そのまんま。お嬢様って感じだから、どこか浮ついてると思ったの。でも違った。根が強いのね」
軽口を交わしながらも、ルビーの視線は真剣そのものだった。
「いいわ。今回は仕入れとかじゃなくて、ただ“観察”ってことで。商人同士、これからも顔を合わせるでしょうし」
「そうね、またお互いに学び合いましょう」
そうして、ふたりの間には奇妙な距離感が残った。競争心と好奇心の入り混じった空気が、ふわりと立ち上がっていく。
ルビーは踵を返すと、手を振って言った。
「じゃ、また見に来るわよ、“ラスクのご令嬢さん”」
その背中を見送りながら、リリスは呟く。
「……今は、まだ“観察される側”。でも、いずれは……」
彼女の目が、遠くを見据えるように光った。
その夜──
夜も更け、ラヴェンダー家の屋敷はすでに静まり返っていた。
リリスはランタンの灯りだけを頼りに、小さな帳面に今日の出来事を書き留めていた。市場での売れ行き、客の反応、そして赤毛の少女商人・ルビーとのやりとり――。
(塩とハーブのラスク、悪くなかったわね。あの男の人も“ワインに合う”って言ってたし……)
思い出しながら、小さく口元を緩めた。
だが、気づけば時間はすでに深夜に差しかかっていた。
「お嬢様、まだ起きていらっしゃるのですか?」
声をかけたのは、薄手の上着を羽織ったアイシャだった。すでに寝巻き姿のまま、そっと部屋の扉を開けていた。
「あ、ごめんなさい。つい……いろいろ考えてたら」
「お身体に障ります。ほら、寝床はもう整えてございます。今日はもうお休みになってください」
「でも……明日の仕込みの準備も……」
「わたしがやります。ですから、お嬢様は横になってください」
そう言ってアイシャは、ランタンの灯りをやさしく伏せて、リリスの手から帳面をそっと取り上げた。
「アイシャ……ありがとう」
「こちらこそ。お嬢様が無理をして倒れたら、それこそ一大事ですから」
ベッドへと導かれたリリスは、素直に毛布へと身を沈めた。
「ねえ、アイシャ。今日の私、どうだったと思う?」
「誇らしかったです。とても、素敵でした」
その言葉に、リリスのまぶたがふるりと揺れた。
「そっか……なら、よかった」
目を閉じながら、リリスはルビーの最後の言葉を思い出す。
『また見に来るわよ、“ラスクのご令嬢さん”』
(……負けないわよ。だって私には、心強い仲間がいるんだから)
やわらかい温もりに包まれながら、少女はゆっくりと眠りの中へと沈んでいった。
傍らで毛布を直すアイシャの手が、そっと少女の頬にかかる髪を払う。
「おやすみなさい、リリスお嬢様」
月明かりの射す窓辺で、静かな夜がふたりを優しく包んでいた。