少女の看病、大切な人とやさしさと決意と
夜の帳が降りたラヴェンダー家の屋敷で、リリスは薄暗い廊下を急いでいた。
「アイシャ……? どこに行ったの?」
使用人部屋の扉を開けると、そこには壁に寄りかかって座り込むアイシャの姿があった。頬は赤く、息は荒い。額には汗が滲んでいる。
「ちょっと、アイシャ!? ……うそ、熱……!」
慌てて駆け寄ったリリスは、そっと手を取って額に触れる。肌が熱い。風邪どころではない高熱だ。
「……ダメ、立てる? わたし、支えるから……!」
ぐらり、と身体を揺らすアイシャに、リリスは自分の肩を差し出した。小さな身体で、必死に支える。
「しっかり捕まって、ね……大丈夫、もう少しだから……!」
二人の影が、廊下をゆっくり進んでいく。アイシャの体重は想像以上に重たく、リリスの足はふらつき、肩が軋む。それでも、何度も体勢を立て直しながら、なんとか部屋まで辿り着いた。
(情けない……これくらいしか、今の私にはできない)
自分がもっと大人だったら、簡単に背負って運べたかもしれない。もっと薬の知識や技術があれば、すぐに治してあげられたかもしれない。けれど今はただ、この熱をどうにか下げるために、冷たいタオルと水を持ってくるくらいしかできなかった。
「アイシャ……ごめんね」
ベッドに横たえられたアイシャの額に、冷たい布をそっとのせる。
(気づけなかった、わたしが……)
リリスはその場に座り込み、アイシャの手をぎゅっと握りしめた。
(前世では、誰にもこんなふうに思ったことなんてなかった。仕事も、同僚も、全部遠くて、ただ消耗するだけの日々だった)
「でも、今は違うの。アイシャは……わたしにとって、いちばんの……」
言葉にはできなかった。けれどその思いは、確かに心の底から湧き上がっていた。
そのとき、ふと視線の先、窓際に置かれた薬草の束が目に入った。
(そうだ……! たしか前世で読んだ本に、庭のセージやラベンダーを煮出して作った薬湯や、石けんの話があった……)
ここで使われている水も、衛生とはほど遠い。彼女を守るためにも、何かできることがあるはず――。
(ハーブの香りには殺菌作用があるし、灰と油を使えば……苛性ソーダまでは作れなくても、洗浄力のあるものができるかも……!)
その瞬間、ひらめきが走った。
「アイシャが元気になったら……試作してみよう。ううん、きっと商品にもできる」
少女の手を握りしめたまま、リリスは静かに、けれど確かな決意を胸に刻んだ。
リリスは夜遅くまで、即席の“手づくり石けん”と格闘していた。作業机の上には、ハーブの束と薪の灰から作った灰汁、溶かしたラード、そして混ぜ込むための木のスプーンが散らばっている。
(うまくいけば、少しでも雑菌を落とせる……!)
昔の記憶では、苛性ソーダの代わりに木灰の灰汁を使った石けんが、古代や農村地域で使われていたという話があった。効力は劣るかもしれないが、それでも何もしないよりはましだ。
(固まり始めた……!)
混ぜ続けたペースト状の液が、わずかに粘性を帯び、薄く乳白色に変わる。その中にミントとラベンダーの花をひとつまみ加えると、さわやかな香りがふわりと立ち上った。
「……これで、少しはマシな環境にできるかもしれない」
固まるまで数日はかかるだろう。けれど、リリスの心には達成感が芽生えていた。
翌朝。熱はまだ残っていたが、アイシャの表情は昨日よりもずっと穏やかだった。
「お嬢様……私のために、ここまで……」
「当たり前でしょ。あなたがいないと、私は商売できないもの」
リリスは照れ隠しのように笑いながら、濡れタオルでアイシャの額を優しく拭った。
「それに、これはね……ラヴェンダー家の一歩なのよ。私たちの道は、きっとここから広がっていく」
アイシャはぼんやりと笑みを浮かべた。
「……はい。私は、最後までついていきます」
その言葉に、リリスは心の中で静かに決意を新たにした。
その日から、リリスは市場への出店を一時的に控えた。代わりに、屋敷の衛生環境を見直し、キッチンと洗面所に即席の石けんを配置した。固まりきるまでには少し時間が必要だったが、手を洗う習慣が徐々に家族にも広まりつつあった。
そして数日後――
「お嬢様、ラスクの改良、そろそろ始めませんか?」
回復したアイシャが、ややかすれた声ながら、再びリリスの隣に立っていた。
「あら、もう立って平気なの?」
「はい。まだ少しふらつきますが……今日からまた、お供します」
「ふふ……なら、仕方ないわね。次はね、塩とハーブを使った“甘くないラスク”を考えてるの」
「甘くない……ラスク、ですか?」
「うん。前に仕事中でもつまめるって言ってくれた商人さんがいたでしょ? それなら甘くないバージョンも需要あるかもって」
「なるほど。お嬢様らしい発想です」
アイシャは小さく笑い、リリスと並んでラスク用のパン耳を仕込み始めた。
作業の手は自然と揃い、息も合っている。これまでの日々が、確かに2人の距離を縮めてきたのだ。
(この子を、もっと笑顔にしたい)
それが、リリスの胸に宿った新たな小さな願いだった。
そしてリリスは、石けんの試作品をじっと見つめながら、ふとあるひらめきを得る。
(……これ、売れるかもしれない)
庶民には手が届かない香りの良い石けん。洗浄効果は弱くとも、香り付きの清潔感あるものが市場に並べば、貴族の夫人や使用人たちにも一定の需要があるかもしれない。なにより、他と差別化された“リリスの商い”を広げるきっかけになる。
「"ハーブ石けん"……うん、悪くないかも」
口にしてみると、なぜだか言葉がしっくりくる。
乾燥させたミントやそれこそ我が家と同じ名前のラベンダー、庭で採れたカモミールなど、素材はそろっている。色付けにはビーツを使えば、ほんのり赤みも帯びて可愛いかもしれない。母親向けの"癒やしの香り"、子供向けの"果実の香り"、それぞれ商品化すればギフトにも使える。
(ラスクだけじゃ、すぐに限界が来る。でも、衛生用品と食べ物を組み合わせれば……)
「ふふ……"ラヴェンダー家の香り"ってブランド、どうかしら?」
鼻歌まじりに石けんを型に流し込むリリスを見て、アイシャが驚いたように目を丸くした。
「お嬢様、急にご機嫌ですね」
「だって、次の商売の柱を思いついちゃったもの。私たち、忙しくなるわよ?」
「はい、お嬢様」
柔らかな笑顔を交わすふたり。その背後には、少しずつ冷えていく石けんの型が並んでいた。
新たな風は、もうすぐ吹き始めようとしていた――。
10話まで何とかたどり着きました、拙作を読んでくださってありがとうございます