また貧乏!?異世界転生したら卵すら買えないんですが!
——冷たい。
その感覚が、彼女を現実へと引き戻した。
灰色の石造りの天井、寒々しい空気。薄い毛布の隙間から入り込む冷気に、リリス・ラヴェンダーは小さく震えた。
(……え? ここ、どこ?)
小さな体を起こしながら、ぼんやりと視線を彷徨わせた。
壊れかけた家具、ひび割れた壁。雨漏りの痕跡すら残るこの部屋は、明らかに“上流階級の屋敷”とは程遠い。
そして、頭を殴られたような衝撃と共に——記憶が蘇った。
(え……まって。これ……全部思い出した……!?)
榊原梨沙。28歳。現代日本でブラック企業に勤めるOLだった彼女は、過労の末に倒れ、その生涯を閉じた……はずだった。
気づけば彼女は、貴族社会が支配する異世界に転生し、“ラヴェンダー子爵家”の令嬢リリスとして生きていた。
だが、リリスの目の前に広がる現実は、決して華やかな貴族の生活ではない。
「また貧乏じゃん……」
前世でも光熱費に怯え、半額シールの貼られた弁当を買い、
せっせと家計簿アプリをつけて暮らしていたというのに——なぜ、転生先でもこんな生活!?
「もうちょっと……こう……公爵家の一人娘とか、なかったの!?」
しかも今の自分は、8歳。再び“子ども”からやり直し。
ラヴェンダー子爵家は、辺境地を治める地方貴族。かつては鉱山や交易で繁栄していたが、代替わりの失敗と資源の枯渇で現在は没落。王都からも見放され、辺境の片隅で細々と暮らしていた。
「子爵って……立場的に一番中途半端じゃん……上にも下にもなれない……」
リリスは、ため息をひとつ。
(でも……逆に考えれば、もう下がる場所なんてないんだよね)
この世界では、魔法が存在し、剣と魔術が力を示す。
だが、経済や商業の仕組みは前近代的。流通、保存、販促、管理、どれもが雑で非効率。
(だったら……この世界、節約知識でいくらでも“稼げる”)
彼女は、前世で得た知識——節約術、帳簿のつけ方、食品の保存法、ポイント生活やチラシの見比べ、そして“工夫して生きること”を思い出す。
寝ていたあいだに見た夢のことを、リリスは思い返した。
暗いアパートの台所。ガスコンロの前で、ひとつしかない卵をフライパンに割る自分。
とろりと流れる黄身、ジュッと広がる香ばしい匂い。
(卵焼き……オムライス……目玉焼き……スクランブルエッグ……親子丼……茶碗蒸し……エッグベネディクト……TKG……)
浮かんでくるレシピに、思わず喉が鳴る。
(そうだ。前世の私は、卵で一週間生き延びたことがあるんだ)
白米と卵、醤油。それだけで幸せだったあの数日。
まさか、異世界に来てまで、卵に執着することになるなんて——。
「うん……とりあえず、まずは卵料理をお腹いっぱい食べたい」
この世界の卵は高級食材。庶民にはなかなか手が届かない。
リリスの目標は、現実的で、切実で、そして……とてもささやかだった。
そのとき、扉がそっと開く。
「……お嬢様。お目覚めでございますか」
入ってきたのは、13歳の専属侍女・アイシャ。
長い黒髪を三つ編みにし、ややスレンダーな体つき。どこか影を帯びた瞳で、リリスの体調を心配そうに見つめている。
「アイシャ……心配かけたね。大丈夫、もう元気だよ」
「……よかった。ずっと熱を出していらしたので……」
アイシャは、リリスのために拵えたスープを差し出す。
だが、その中身は……じゃがいもの皮と、かすかな香草の香りだけ。
(……ほんとにギリギリだね、ウチ)
「アイシャ、このじゃがいも、皮の部分だけで作ったの?」
「はい。中身は昨日のお父様のお皿に……」
「そう……ね、ありがとう」
温かくはないが、アイシャの気持ちがこもったスープを、リリスはゆっくりと口に運ぶ。
「……アイシャは、どうしてこの家に残ってくれてるの?」
その問いに、アイシャは少しだけ目を伏せた。
「……覚えていらっしゃらないかもしれませんが、昔、私がこの家に来たばかりのころ……他の使用人たちから冷たくされていたとき、
お嬢様だけが、私の名前を呼んでくれたんです。“アイシャ、ありがとう”って」
「……えっ、そんなこと……」
「私にとっては……それが、この家に仕えると決めた理由です」
その言葉に、胸が熱くなる。
(……私は、誰かのためになれていたんだ)
その後、屋敷の居間で顔を合わせたのは、両親と、まだ3歳の弟ルーファスだった。
「よくぞ目を覚ました、リリス。お前が寝込んでいる間、家中が大騒ぎだったのだぞ」
「ごめんなさい、お父様……」
父・クラウスは30代半ばながら疲れた表情をしており、母・リシアも心配そうに肩を寄せる。
「……リリス。今は無理しなくていいから。でも……あなたがいるだけで、私たちは救われているのよ」
(……こんな家庭でも、私はこの人たちの“希望”なんだ)
その夜、リリスはアイシャとふたり、台所で“ある作戦”を練っていた。
「ねえアイシャ。もし野菜を腐らせず、長く保存できたら、どう思う?」
「保存……ですか?」
「うん。前に買ってきたキャベツ、結構傷みやすかったよね? 塩で揉んで重しを乗せて一晩寝かせれば、しばらく日持ちするの」
「それは……本当ですか? 魔法も道具も使わずに?」
「うん。すごく簡単で、しかも美味しくなるんだ」
リリスは、前世の節約生活で学んだ知識を思い出しながら、瓶詰や発酵保存の方法をアイシャに伝える。
「明日、村で少し安くなってる野菜を買ってきてくれない? 見切り品でいいから」
「……はい。わかりました」
(まずは、10ルア——いや、最初の目標は100ルア。約1万円。これなら……卵料理をお腹いっぱい食べられる!)
そして——リリスの“節約無双”が動き出す。
没落子爵8歳令嬢の、ささやかな経済戦争の幕が、静かに上がった。
とりあえずやってみる事にしました