『白と黒の贈り物』36
ゲームルームでのにぎやかな時間が終わるころ――
私たちはそれぞれの部屋に戻って、ひとまず「おつかれ〜〜っ!」ってぺたんとベッドに倒れ込んだ。
……でも、そのまま寝るわけにはいかない。
シャワー、洗濯、明日の準備っ!
まずは順番にシャワーを済ませて、汗をかいた私服を洗濯ネットに入れて――
脱衣所に備えつけのドラム式洗濯機で、まとめて回す。
ぐるぐると静かにまわる音が、なんだかちょっと心地よかった。
「明日の朝には、ふわふわになってるといいな〜っ」
私がそんなことを言うと、美咲ちゃんが「柔軟剤、いい匂いになりますように〜っ」って笑ってくれた。
そして、美咲ちゃんは私たちよりひと足先にベッドに
もぐりこんで、お気に入りのピンク色のフリル付きパジャマのまま、すやすやと寝息を立て始めた。
「ふふっ……美咲ちゃん、おやすみ〜っ…」
そっと囁いてから、静かに毛布をかけてあげる。
その寝顔があんまり気持ちよさそうで――
こっちまで、ふわぁって眠くなってきちゃう。
……でも、そのとき。
「……シャワー、気持ちよかった。
美咲、もう寝ちゃったのね」
ヒカリが、少し濡れた髪をタオルで押さえながら、洗面所のほうから戻ってきた。
部屋の照明はすでに落としてあって、
間接照明の柔らかな光だけが、私たち二人の影をぼんやりと映していた――
ヒカリが、自分のベッドに静かに腰を下ろす。
私も、となりのベッドからその横顔を見ながら、ぽつりと声をかけた。
「ねえ、ヒカリ……今日、テニス部に入ってくれて、ほんとにありがと」
「……ふふ。お礼を言うのは、私のほうかもしれないわ」
「玲奈先輩がくれた言葉も、あなたがそばにいてくれたことも……それが、きっかけになったから」
「えへへっ……そっか。なんか、嬉しいなあ」
「……ヒカリが、ちゃんと“いまここ”にいてくれる感じがしてさ」
手元の白いリボンに、指をそっと添えて――
私はふと、笑みをこぼす。
「このリボン、ヒカリがくれたやつ。ずっと大切にしてるよっ。
……わたしにとって、本当に大事なお守りなんだ」
ヒカリはそれを見て、ゆっくり目を細めた。
「……大切にしてくれてるのね。うれしい」
そして、私は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「ねぇ……白のリボンと一緒に作った黒のリボンって、友達にちゃんと渡せた?」
ヒカリは、一瞬だけ目を伏せて、静かに首を振る。
「ううん。まだ……でも、ちゃんと持ってるの。
いつか渡せたらいいなって、思ってる」
その言葉には、どこか遠くを見るような響きがあって――でも、やっぱり、あたたかかった。
言葉にできない気持ちが、胸のなかでふわっとふくらんでいく。
そして――気づけば、それがそのまま、口をついていた。
「……ねぇ、ヒカリ。
……今夜、一緒に寝てもいい?」
ヒカリが、少しだけ目を見開いて、こちらを見る。
その瞳に映るのは、私の顔じゃなくて、心の奥を覗いているみたいで――ちょっとだけ、ドキッとする。
「……急に、どうしたの?」
「ん〜……うまく言えないんだけど……
なんか、いまの空気が好きでさ……このまま、ヒカリのそばで眠っちゃいたいなって、思ったの」
静かな沈黙。
でも、その静けさが、なぜかすごく心地いい。
ヒカリは、そっと目を細めて、ふわりと微笑んだ。
「……ふふ。
今夜くらいは、わたしも……誰かのぬくもりを感じていたいの。
こっち、あったかいわよ」
……ふたりの影が、間接照明のなかで、そっとひとつに重なる。今夜だけの、やさしい夜。
私は、ヒカリのベッドにそっと入り込んでから、
しばらくそのまま、言葉もなく横になっていた。
最初はちょっと緊張して、心臓がどきどきしてたけど――ヒカリの呼吸の音に耳をすませていたら、
そのうち、胸の奥までぽかぽかしてきて、
なんだか安心できた。
気づけば、ヒカリの腕が、そっと私の肩にふれてる。
重なった布団のぬくもりごしに、ヒカリの体温が伝わってくる。
すぐ隣から――
静かな、やわらかい寝息が聞こえてきた。
(……あ、ヒカリ……もう、寝ちゃったんだ)
その寝息が、あったかくて、やさしくて、
私の心まで、ふわっと溶かしてくれるみたいだった。
目を閉じたまま、深く息を吸う。
ヒカリの気配が、すぐそこにあることが――
どうしようもなく、うれしかった。
そして、気づけば、まぶたの裏がぼんやりと明るくなっていく。
音も、においも、風の感触も――全部が、少しずつ、夢の中へと溶けていく。
……私は、眠りに落ちた。
***
……やさしい、歌声が聞こえた。
胸の奥にそっと触れるような、
静かで、やわらかな旋律。
♪ とおく とおく 風吹いて
きみの夢を 運んでも
わたしの声 とどくから
おやすみ また あしたね
――その声を聴きながら、私は、
あたたかい空気のなかで、ゆっくりと目を開けた。
鼻先には、草のにおい。
耳の奥には、誰かの寝息。
(……ここ、どこ……?)
重たいまぶたをこすろうとして、
ぴょこっと前足が目に入った。
(……まって、足? しかも……毛が……!?)
ふと、すぐ横を見ると、
白くてふわふわの毛並みをしたみぃちゃんが、
くるんと丸まって眠っていて――
その向こうで、やさしい声を歌っていた女性が、私たちにぴたりと寄り添っていた。
この人、知ってる――でも
(……この人……)
胸が、ふわっと熱くなった。
この前、夢で見た。
でも――あのときは、顔がぼんやりしていて、
まるで霧の向こうにいるみたいだった。
声も、聞こえなかった。
だけど、今は違う。
顔も、ちゃんと見える。
声も、しっかり届いてくる。
やわらかな髪。まっすぐな瞳。
すこし恥ずかしそうに笑う、そのしぐさ。
(……あたたかい……)
名前も、誰なのかも、まだ分からないけど――
どこかで見たことのあるような、なつかしい横顔。
その人のそばにいると、
胸の奥がふわっとゆるんで、なんだかとても安心する。
(……ヒカリに……ちょっと似てる、かも)
でも、それが“誰か”なのかどうか、うまく言葉にはならなかった。
わたし――チップは、そう思いながら、
ふたたび目を閉じた。
*
ふと、引き戸の音がした。
「……こんなとこで、寝てたのか」
その声は、とても静かで――
どこか、優しい笑いを含んでいた。
守が、そっと部屋の中に入ってきて、
私たち三人を見下ろしていた。
彼女は、寝息を立てたまま。
その腕に、みぃちゃんとわたし――チップが、
ぴたりとくっついて眠っている。
「ふふっ……仲がいいな」
守はそう言って、しゃがみこんでこちらをのぞきこむ。
その目が、少し細められているのは、まぶしさじゃなくて――きっと、やさしさのせいだった。
やがて、そっと毛布をわたしたちにかけてくれて、
音を立てないように、また静かに部屋を出ていく。
その背中を見送ることもなく、
私はまた、夢の中の夢に戻っていった。
*
あたたかい日差しが差し込む座敷で、
わたし――チップは、のんびりとした空気のなか、
ふたたびうとうとしていた。
そんなとき――
「はーい、ごはんできたわよ〜」
女性のやさしい声といっしょに、小さな器がふたつ、畳の上にカチャッと並べられた。
ひとつは、香ばしいカリカリのキャットフードに、
ちょこんと乗った鰹節と、ほんの少しの蒸しかぼちゃ。
もうひとつは、ドッグフードに茹でたにんじんとさつまいものトッピング。
どちらも、“今日はちょっと特別”な朝ごはんだった。
(……えっ。これ、わたしが食べるの?)
「さあ、みぃちゃん、チップ。召し上がれ〜」
女性がにこっと笑いながらそう言った瞬間、
みぃちゃんが「にゃっ!」と小さく鳴いて、まっしぐらにごはんの器へ。
私も思わず鼻を近づけてみたけど――
隣でみぃちゃんは、もう「ガツガツガツガツ!!!」って、すごい勢い。
(うわっ……はやっ!? しかも、めちゃくちゃ満足そう……)
(……なんだか、美咲ちゃんみたいだ)
ちょっと引きながらも、私もおそるおそるひとくち……
(……ん。意外と、いけるかも)
そんな言葉がふっと心に浮かんで、
気づけば、私はくすっと笑ってた。
(そうだよね、美咲ちゃんも……あんなふうに、うれしそうに食べるもん)
理由はよくわからないけど――
心が、ふわっとほどけるみたいで。
夢なのに、どこか現実みたいな、不思議な気持ちだった。
『……ふぅ、満足にゃ……』
みぃちゃんが満腹になったのか、
器のそばでぺたんと座り込んで、すぐにうとうとし始めた。
私も、その様子に引っ張られるようにして、
みぃちゃんのとなりで小さく丸くなる。
(……なんか、しあわせ……)
そのまま、うとうとしていた私たちのそばで――
やさしい手が、針と糸を手に取り、
淡い水色のレース布を、ゆっくり、ゆっくりと縫いはじめていた。
――でも、どこかぎこちない。
針の動きはたどたどしくて、糸もときどき、ふにゃりと迷子になる。
それでも、丁寧に。心を込めて。
まるで“誰かへのお手紙”を綴るみたいに、ひと針ずつ、大事そうに。
その唇が、ふいに開いた。
やさしい声で、ぽつりぽつりと――
♪ わすれないで ぬくもりを
しっぽと ひげの このきおく
つながるように おもいだして
めをとじて おやすみなさい……
静かな子守唄。
針と糸の合間から紡がれる旋律が、縫い目のひとつひとつに、そっと染みこんでいく。
時間が、やわらかくほどけていくようだった。
そのとき――
「……なにしてるんだ?」
ふすまの向こうから、ひょこっと顔をのぞかせる人影。
守だった。
いつもの落ち着いた声――だけど、
その響きには、どこかあたたかい笑いが混じっていた。
「……また歌ってたな。あの子守唄」
守はふっと目を細めて、そっと寄り添う。
女性は手元を見たまま、照れたようにうなずいた。
「うん……陽一を寝かしつけるときに、よく歌ってたの。
でも……あの子たちにも、つい歌っちゃうんだよね。
チップも、みぃちゃんも、聞いてるとすぐ……とろんってしちゃうから」
「ふふ……そりゃ、寝かしつけ効果バツグンだな」
守がくすりと笑うと、女性もまた、肩をすくめて笑った。
「……今ね、みぃちゃんの首輪を作ってるの。
ほら、今までずっと、首輪つけてなかったでしょ? だから……」
その声は控えめだけど、まっすぐで。
どこか不器用な分だけ、針先のひと刺しに、にじむようなあたたかさがあった。
布のすみには、小さなお花の刺繍が、ぽつんとひとつ。
糸の色は、やわらかな生成り。
ほんの少し曲がった縫い目に、糸がぴょこんと飛び出していて、
けれど、それすらも――どこか愛おしい。
「へぇ……お前にしては、ずいぶん細かい作業だな」
「ちょ、ちょっと! なによそれ……! 苦手なの、知ってるくせにっ」
ぷくっと頬をふくらませながらも、
女性はそっと、針をレースの裏地に滑らせていく。
その場所には、まだ見ぬ小さな“言葉”が――
まるで、未来への種みたいに、静かに縫いとめられていくところだった。
そのやりとりを聞きながら、
言葉にできない気持ちが、あたたかく広がっていく。
(……みぃちゃんに、首輪……作ってあげてるんだ)
(……きっと、すっごく大事な人だから)
思わず、ちょこんと身を起こして、女性の顔を見つめる。
その視線に気づいたのか、彼女はふわっと目を細めて、
私に向かって、小さく笑った。
「ふふ……チップの首輪も、ちゃんと用意してあるのよ」
(……えっ?)
「……でも、それはまだね。
渡すのは、もう少し先で……ちょうどいい時に」
その言葉が、心の奥にそっと染み込んできて――
なんだか、理由は分からないけど……
涙が出そうになった。
守は、ふっと息をついて立ち上がると、
部屋の中をゆるく見渡してから言った。
「おーい。そろそろ準備しとけよ〜。陽一も起きたし、みんなで商店まで行くからな〜」
「はーい。……もうちょっとだけで完成なの。急いで仕上げちゃうね」
***
気づけば、わたし――チップは、
椿野商店の前の、陽の当たる土の上で、ぺたりと寝そべっていた。
木の柱に立てかけられた白い日よけ幕が、風にふわっと揺れるたび、
その影が背中にやさしく落ちてくる。
(……ここ、知ってる……出来たばかりの建物だけど、
あの時、別荘に向かうバスの中で見た。)
「はる姉さんっ……いつもの青汁、お願いできる?」
商店の前のベンチに、ちょこんと座った彼女が、
少しだけ遠慮がちに声をかける。
のれんの奥から顔を出したのは、エプロン姿のはるさん。
彼女の顔を見るなり、目元がくしゃっとゆるむ。
「ふふ、また来たわね。渡島産100%の特濃青汁、今日はちょっとだけ甘くしといたんだから」
「わぁ……ありがとう!はる姉さんっ」
彼女は、そっとカップを受け取り、
両手で包むように持ちながら、じっと中を覗き込んだ。
はるさんが、少しイジるように微笑む。
「さあて、今日のは特に青くて苦いよ? 覚悟して飲みなさいな」
「……ううっ……」
彼女は一瞬顔をしかめたあと、
ちょこんと腰を浮かせて――
意を決して、ゴクリッと一口。
「……ん〜〜〜〜〜〜っ……っ!!」
そして、くるっと顔を上げて、
まるで舞台の上のように、表情をぷくっとさせてから――
「まず〜〜いっ!! ……も、もういっぱ〜〜い……っ!!」
その声に、ベンチに座っていた守が吹き出し、
みぃちゃんが「にゃーっ」とタイミングよく鳴いた。
はるさんは、「ふふっ、ほんっとあんたって……」と肩をすくめながら、そっと彼女の頭を撫でる。
彼女は、最後の一口をゆっくり飲み干して、
カップをちょこんと置いた。
「ごちそうさまでしたっ♪」
はるさんが、ふふっと微笑みながら
そのカップを受け取り――
代わりに、小さな瓶を木箱から取り出して差し出した。
「まったく……毎日来るもんだから、あなたのために専用の瓶をいくつか用意したのよ。
ちゃんと名前も貼っておいたわ。」
はるさんがそう言って、
木箱から取り出した瓶を、ひょいと手に持ち上げる。
そして――
ひと呼吸置いて、ふっと微笑んだ。
「“陽花里”って、ね?」
(……えっ……!?)
言葉が、耳の奥で一度だけ跳ねた。
意味として飲み込めなくて、ただ“音”だけが残る。
でも――瓶のラベルに目を向けた瞬間、
青い筆文字の三文字が、視界のど真ん中に刺さった。
“陽花里”。
(ヒカリ……!?)
息が、ひゅっと細くなる。
夢の中なのに。
温度もにおいも、ぜんぶ現実みたいで――そのせいで、余計に逃げ場がない。
喉の奥がきゅっと固まり、視界がぐらりと揺れた。
(……でも、ヒカリ……? 顔も声も、少し違う。
なのに……どうして……こんなに、安心するの……)
瓶を受け取った陽花里は、
その名前を呼ばれたことが当たり前みたいに――ほんの少し照れた顔で、ふわっと笑った。
それが、怖かった。
“彼女らしい”って、思ってしまった自分が。
(……でも……これって、夢なんだよね?)
ぐらぐらしてるのに、ぬくもりだけが残ってる。
そのせいで、涙が出そう。
――だから、私はそっと心の中で笑った。
(ふふっ……素敵な夢。
いい夢見れて、嬉しい〜〜っ!)
……うん。そうだよね。
だってこれは、ただの夢なんだから。
そのとき――
「よーし、じゃあ写真でも撮っとこうか! 今日はいい天気だしな」
守の声が聞こえたとき、
わたし――チップは、陽花里の足元でぺたりと伏せていた。
陽花里は、くすっと笑って瓶をはるさんに返すと、
すぐそばにいたみぃちゃんを、やさしく抱き上げた。
ふわっと軽く、腕の中に収まる白い毛玉。
みぃちゃんはくるんと丸くなって、陽花里の膝の上で気持ちよさそうに目を閉じてる。
(……ほんとに、家族みたい)
はるさんがベンチの右隣に座って、
陽花里のほうに少し寄るように身を傾けた。
守は、ベンチのちょっと斜め前――
日差しの角度を気にしながら、しゃがんでカメラを構えてる。
「みんな、こっち見て〜……はい、チーズ!」
その声のあと。
カシャッというシャッター音が、
まるで空気ごと“今”を閉じ込めるように鳴り響いた。
――そして、時間が、ふわっとほどける。
でも、私はその瞬間のことを、
ぜったいに忘れないと思った。
陽花里の笑顔。
みぃちゃんのぬくもり。
はるさんのやさしいまなざし。
そして、あの名前が書かれた瓶のラベル。
(……忘れない。……たとえ、これが夢でも――)




