『白と黒の贈り物』29
コートの上に、静寂が降りた。
「ゲームセット! 勝者、天野さん〜〜!」
杉本先生のコールが響き、ほんの一拍ののち――
堰を切ったような拍手が、あちこちで巻き起こる。
けれど――まだ、動けなかった。
「……はっ、はぁ……」
ラケットをゆるく下ろすと、肩で息を整える。
胸の奥には、熱が残っていた。
それが、不思議と心地よい。
向かい合う天野さんも、浅く残った息を抱えたまま、
まっすぐこちらを見ている。
頬を伝う一筋の汗。
それでも、その瞳は凛として――どこまでも澄んでいた。
「……はぁ……本当に、素晴らしいプレーでしたわ」
息を落ち着けるように、そっと微笑む。
「まるで……記憶の中の“あの方”が、そこにいらしたかのようで――」
「……っ、ふぅ……」
ゆっくりと首が振られる。
「ありがとうございます。
ただ今日は、ラケットを握る感覚が、懐かしかったんです」
握られたままのラケットに、わずかに力がこもる。
「天野さん……」
ふと、視線が上がった。
「……ご一緒に、全国を目指してみませんこと?」
「……!」
その言葉に、瞳がかすかに揺れる。
まだ息は整いきっていないはずなのに――
それでも、ゆっくりと、想いを確かめるように頷いた。
「……はい。喜んで」
静かで、けれど確かな言葉。
想いが、そのまま形になったようだった。
――その瞬間。
そっと、手を差し出す。
一瞬だけ迷いが浮かんだものの、
すぐに、その手が重ねられた。
ふたりの掌が、しっかりと結ばれる。
汗ばんだ温度が、今この瞬間だけを確かにつないでいた。
「ようこそ。
わたくしたちのテニス部へ――天野ヒカリさん」
ほんの短い握手。
それでも、そのぬくもりは、胸の奥に深く刻まれていた。
***
「……はい。喜んで」
ヒカリがそう言った瞬間、
胸の奥が――ぱっとあったかくなった。
「……えへへっ」
気づいたら笑ってた。
なんだろう……よかった、って。ほんとに、それだけで胸がいっぱいになって。
「ヒカリ、ありがと。わたし……すっごくうれしいよ」
すぐ隣で、美咲ちゃんの目がきらきらしてる。
ちょこんと両手を胸に重ねて、小さく頷いた。
「……ヒカリ先輩が入部してくれるなんて……夢みたいです……っ」
そう言ったあと、ぱっと顔を上げて――
「これから、一緒に部活がんばれるんですねっ。
うわぁ……なんだか、ちょっと……泣きそうです……」
うるうるした瞳が、ちゃんと見えた。
そしてヒカリは、そんな私たちを見て、ふっと小さく笑う。
「……ふたりとも、ずいぶんと喜ぶのね」
でもその声は、どこか照れくさそうで――
ううん、きっと……ほんの少し、嬉しそうでもあった。
三人で笑い合っていると――
「……ふふっ。やっと、ですわね」
優雅な声。振り返ると、背筋をすっと伸ばした玲奈先輩が立っていた。
いつもの気品はそのまま。なのに今日は、表情が少しやわらかい。
「歓迎しますわ、天野さん」
その言葉に、ヒカリは小さく頷く。
ふたりの視線がそっと重なった。
さっき握手を交わしたばかりなのに――
この静かなひとときの中にも、ちゃんと“繋がり”がある気がした。
「……ありがとう、ございます」
小さい声なのに、しっかり響いて――胸の奥に落ちてきた。
すると――
「ヒカリちゃん〜っ! 玲奈先輩~っ! おつかれさまでしたっ!」
わあっと走ってくる、癒し広報部の三連星。
亜沙美はもうスマホを構えて、連写モード全開で――
「この瞬間っ☆ SNS投稿用に神ショット撮るから、笑って笑って〜!」
「ちょ、ちょっと落ち着き〜な。はしゃぎすぎやで〜」
天音ちゃんが横からツッコミを入れつつも、やっぱり笑ってる。
愛衣ちゃんは、ふわりと手を組んで――
「これで……また、素敵な風が、ひとつ加わりましたね〜」
やわらかく微笑む横顔に、胸がまたぽかぽかした。
その輪の中へ、ヒカリも自然に溶け込んでいく。
――それが、なにより嬉しかった。
***
夕方が近づく頃、屋内コートの熱気はようやく落ち着きはじめていた。
とはいえ、軽い練習とは思えないほど身体はしっかり動かされていて――
「ふぅ〜〜〜っ。汗びっしょり〜っ……!」
ラケットを持ったまま腰に手を当て、ぐいっと背中を伸ばす。
ポニーテールの先までじっとり。もうこれは、流さないとやばいって〜〜!
「動きはまだ荒削りだけれど……少しずつ形にはなってきましたわね」
タオルで首元を押さえながら、玲奈先輩が穏やかに言った。
「えへへっ……はいっ! 形になってきたって言ってもらえると、すっごく嬉しいですっ」
胸の奥が、ぽわっとあったかくなる。
玲奈先輩からそう言ってもらえると、それだけで、また頑張ろうって思えた。
「では、そろそろ軽く汗を流しておきましょう。
施設の奥にシャワールームがありますわ。ご一緒にどうかしら?」
そのひと声で、顔を見合わせる。
「えへへっ! 大賛成ですっ♪」
美咲ちゃんは満面の笑み。お団子ヘアがふにゃって揺れる。
「……さっと汗を流すだけ、ですね」
ヒカリ先輩はクールなまま、額の汗を指先で拭って、小さく頷いた。
「はいっ! わたしも行きますっ!!」
元気よく返事をして、ボールバッグを片づけながら、ちょっとだけワクワクする。
(こういうの……部活の後!って感じ、するよねっ)
シャワールームはコートとつながる廊下の奥。
白いタイルが並ぶシンプルな作りで、奥には個別の仕切りもついていた。
なんとなく、落ち着いた空気が流れてる。
バスタオルを手に、そっと扉をくぐると――
足音が、パタパタと床に響いた。
──シャワーブースの中。
お湯を出した瞬間、じわ〜っと汗と緊張が流れていって、思わず息が漏れる。
「ふぅ〜〜っ……生き返るぅ……!」
肩にかけてたタオルを横に置き、髪をかき上げる。
ざああ……と、隣のブースからシャワーの音が重なるたび、ちょっと不思議な気持ちになった。
さっきまで、コートの中で凄い試合をしてたふたりが――今はすぐ横で、同じ温度のお湯を浴びてる。
(……なんか、すごい。こういうのも、仲間ってことなのかな)
「……ねぇ、ヒカリ。ほんとにすごかったよ」
少し声を張ると、シャワーの音が一瞬だけ途切れて、隣から静かな声が返ってくる。
「……ありがとう。そう言ってもらえるの、嬉しい」
「うん、でも……見てて鳥肌たったもん。
なんかもう、“プロってこういう感じ?”って……」
「……あれは玲奈先輩が、本気だったから……だと思う」
そう言うと、さらに向こうのブース――玲奈先輩の落ち着いた声が重なった。
「ふふ……そう仰っていただけるなら、キャプテン冥利に尽きますわね」
「ていうか玲奈先輩もすっごかったですよ〜!
フォームもサーブもカッコよすぎて、なんか……“宝塚の男役”ってこういうのかな〜って思いましたっ!」
美咲ちゃんの声。
あはは、って笑いがこぼれた。
そのあとは、またシャワーの音だけが並んで流れてくる。
でも不思議と、その音が心地よくて――
緊張も汗も熱も、ぜんぶお湯と一緒に流れていくみたいだった。
***
シャワーを終えて、脱衣所横の洗面スペースへ。
タオルを巻いたまま鏡の前に立つと、ドライヤーの音がぽつぽつと続く。
その中で――ふと、声がした。
「……ひとつ、聞いてもいいかしら」
その声音だけで、すぐ分かる。玲奈先輩だ。
「はい?」
ヒカリの、少し驚いたような返事。
ドライヤーのスイッチを切って、こっそり耳を澄ます。
「最初の2ポイント。……あれは、本気ではなかったのですわよね?」
……っ。
胸が、どきっと跳ねた。
タオルを握る手に思わず力が入る。
少しの沈黙。
それから、ぽつりと。
「そういうつもりじゃ……なかったんです。
でも……体がまだ少し、戸惑ってたというか」
その言葉に、ふっと笑うような音。
「ふふっ……やはり、そうでしたのね」
悔しさが混じってる。けれど、どこか誇らしげでもある。
負けて悔しくて――それでも相手を称える、キャプテンの声。
「次は、最初から“その気”でお願いしたいですわ」
ヒカリも、くすっと笑って応える。
「はい。……次は最初から、全力で」
そのやり取りだけで、鏡の中の空気まで変わった気がした。
すごいなあ……って、思う。
そっとドライヤーを入れ直す。
気持ちが、ぽかぽかして――
(……ヒカリ、本当に……強くて、優しいな)
ドライヤーの音が戻ってきて、言葉はしばらく途切れた。
でも、心はあったかいまま。
ふたりの会話が、胸の中で静かに揺れてる。
(ふふっ……なんか、いいな)
そこへ、美咲ちゃんがタオルで髪を包みながら、ふわっと言う。
「ちー先輩っ。お腹……空きませんっ?」
「うんっ! めっちゃ空いた〜〜!」
元気よく返したところで、ちょうどタイミングよく、玲奈先輩の声が奥から届いた。
「皆さん、そろそろディナーの準備が整いましたわ。
リビングにお越しいただければ、お料理をご案内いたしますわよ」
「えっ、ディナーっ!?」
美咲ちゃんがびくん、と肩を揺らす。
その拍子に、タオルの端がぴょこんと跳ねたの、ちょっとおもしろい。
「やばっ、やばっ……さっきのシャワーで、胃袋も“ご飯準備OK”モードに切り替わってますっ!!」
「えへへ〜、美咲ちゃん、さすがだね〜っ」
笑いながらバスタオルをたたんで、制服に着替える。
ヒカリ先輩も、静かに微笑んで頷いた。
玲奈先輩はタオルの端を持ったまま、いつもの優雅な口調でふわりと続ける。
「今夜は、別荘のダイニングにて、シェフ特製の創作コースをご用意しておりますの。
前菜からデザートまで、夏の味覚をふんだんに使ったお料理……ご期待くださいませ」
「コ、コース料理〜〜〜っ!?!?」
美咲ちゃんが、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねた。
「え、わたし、おかわり自由のバイキング的なやつだと思ってました〜〜っ!」
「それは明日のお昼にでも、別荘テラスで開催いたしますわね。
今日は、少しだけ“贅沢”を」
玲奈先輩が、優雅に微笑む。
その笑顔が――
ちょっとだけ、特別な夜の始まりを告げてるみたいだった。




