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『白と黒の贈り物』28

わたくしはラケットを握ったまま、天野さんの方へ一歩近づいた。

彼女はすでにコート中央に立ち、まるでそこが“定位置”であるかのように、無駄のない立ち姿で待っていた。


その瞳に宿る静かな情熱が、胸の内を――静かに、しかし確かに、ざわめかせる。


「……では、始めましょうか」


ラケットを軽く持ち上げ、少し声のトーンを整えて続ける。


「試合形式は、一セット勝負。6ポイント先取でデュースはなし――“ノーアドバンテージ”方式ですわ」


天野さんは頷くだけで何もおっしゃらない。

けれど、その静かな仕草はきっと――“それで十分”という意志の表れ。


「サーブは……わたくしから、でよろしいかしら?」


「はい、構いません」


静かに返されたその声を背に受けながら、ラケットを持ち直し、ベースラインのサーブ位置へと歩を進めた。


空気が――音を失ったように感じる。

天野さんと、わたくしだけの世界。

ここには、誰の声も届かない。


(試合……いえ、これは――確認の儀式)


ボールをつかみ、ラケットの面でぽん、と一度だけ突いた。


そして、心の中で静かに呟く。


(天野ヒカリ……あなたが、“あの人”なのか――それを、確かめてみせますわ)


***


「それでは〜……高橋さん、天野さん。

 ご準備が整いましたら、どうぞ始めてくださいね」


コート脇の簡易な審判台には、わたくしたちの顧問・杉本先生が立っていらした。

ふわりとした口調はいつも通りだけれど、その目には、きちんと選手たちの動きを見極める鋭さが宿っている。


ラケットを握り直し、ひとつ、深く息を吸い込む。


ベースラインの後ろ、サーブ位置。天野さんは構えのまま、じっとこちらを見つめていた。

まるで、そこに立つだけで“すべてを受け入れる”と告げているかのような落ち着き……その静けさが、かえって胸の内に火を灯す。


(見せていただきますわ、あなたの本気を)


ボールを高くトスし――思い切り、振り抜いた。


――バシュッ!!


ボールは鋭い弾道を描き、ベースラインぎりぎりに突き刺さる。


「サービスエース! ポイント、高橋さん!」


杉本先生の、ほんわかした声がコートに響いた。


「うわっ、玲奈先輩、ガチモードっ……」

「きれいすぎるサーブ! なにあれっ!」

「フォーム崩れなさすぎて逆に怖い……」


癒し広報部の三連星がざわつく。河田さんのスマホのシャッター音が、連続で響いていた。


そのまま2ポイント目も、ストレート狙いのサーブが決まる。天野さんのラケットが、わずかに遅れた。


「ポイント、高橋さん! 2−0です〜」


杉本先生が、ゆるくコールを告げる。


「――そのままの調子では、わたくしには勝てませんわよ?」


ラケットを軽く持ち直しながら、微笑んでそう告げた。

挑発ではない。ただ、事実として。


その言葉に、彼女の瞳がかすかに揺れる。

まるで、どこか深くに沈んでいた何かに、そっと触れたように。


そして――空気が変わった。


天野さんは、ゆっくりと深く息を吸い込むと、静かに足元でトントンと小さくステップを踏んだ。

軽やかに、けれど確かな重心移動。その一連の動作には、無駄がひとつもない。


ほんのわずかに、前へ。

ラケットの握りも、意識的に深くなる。


その瞳の奥に宿る光が――かすかに、鋭さを帯びていく。


まるで、長く閉ざしていた扉の奥から、忘れていた“本能”が目を覚ましたかのような気配。


(……記憶の底から、何かを――)


杉本先生は、思わず目を見開き、わずかに息を呑んでいた。

……あの先生でさえ声を失うほど、ということですのね。


(来ますのね……やっと)


ボールをトスし、スピンサーブを仕掛ける。


――だが、返された。


高く弾んだボールを、天野さんは一瞬で読み切り、逆クロスへスライスで返してきた。


――くっ!


すぐさま体勢を立て直し、低い姿勢のままバックハンドを打ち返す。


だが――次の瞬間、彼女の影が目の前へと躍り出た。


まるで、一瞬で“風”になったかのように――。

天野さんは迷いなくネット前へ飛び込み、全身のバネを使って、鋭く振り抜く。


「――スマッシュ!」


空気を裂くような音とともに、白いボールが一直線に突き刺さる。

ラインぎりぎり――誰にも止められない、“意志の矢”のように。


「ポイント、天野さん〜〜! 2-1です!」


杉本先生の声が、わずかに揺れていた。

驚きの色が、そこに滲んでいる。


「うわっ、切り返した!」

「なにあの反応速度……」

「ていうか美しすぎでは!? 今の動き!!」


犬神さんと小川さんの歓声が、コートの外から重なって届く。


「うわー、今の反応、動画で見返したいっ!!」

「すごい……天野先輩、なんか、動きが変わった……」


癒し広報部の三連星も騒然としていた。


「えっ……なんか、いま鳥肌たったんだけど……」


河田さんは目を輝かせながら、スマホを構え直している。

「え、なにあれ? ヒカリ先輩、もしかしてプロとかそーゆー伝説級の……!?☆」


「……うち、テニスのことはよう知らんけど――」


タオル越しに額の汗を拭きながら、天音さんがぽつりとつぶやく。


「いまの……なんか、空気が変わった気ぃせぇへん? ゾクリとくるような……」


「……ふふっ」


ふわりと微笑んで、月城さんが手を胸に添える。


「いまの一球に……ヒカリちゃんの“想い”が、こもってましたね〜」

「まるで……風が、静かに流れ方を変えたみたいです〜」


ベンチでは、犬神さんが小さく拳を握りしめ、身を前へ傾けているのが見えた。


「ヒカリ……なんか、違う……!」


その隣では、小川さんが瞳を大きく見開き、ぴたりと寄り添っている。


「ちー先輩……すごいですよ、天野先輩……

 まるで……なんだろう……うまく言えないですけどっ……」


その様子に、周囲のテニス部員たちもざわざわと騒ぎ始める。


「今の返し、エグすぎる……」

「……あれで“テニス初心者”って、マジ?」

「うちらより、ぜんっぜん上手いじゃん……!」


圧倒され、言葉を失いそうな空気の中で――


(視線が、自然と彼女に集まっていく……)


天野さんの姿が、いつしか――この試合の“軸”へと静かに据わっていた。


* * *


無言でサーブ位置へ戻る。

指先に、汗がにじむ。


(まさか……“あの頃”の記憶が、もう――)


もう一度、ラケットを握り直す。


まだ、始まったばかり。

けれど――ここから、何かが動き出す。そう、確信していた。


次のポイント。天野さんの動きは、確実に変わっていた。


姿勢。目線。そしてフォーム――。


先ほどのラリーで掴んだ感覚を、わずかな時間で即座に修正してきたのだ。


その進化に、思わず息を呑む。


「杉本先生……この子、本当に入部していたら、

 部内の戦力バランス、変わってしまいますわね?」


「ええ……もう、それくらいに……ほんとに、すごい子です……」


いつもはどこかおっとりとした口調の先生が、珍しくため息まじりに呟いていらした。


次のポイントは、ラリーが続いた。


わたくしは、ボールを深めに打ち返し、サイドに振りながらペースを握るつもりでいた。

けれど――


天野さんは、まるで最初からすべてを見抜いていたかのように、すっと先回りしていた。


――速い。


いいえ、ただ速いのではなく、“動き出し”が的確すぎるのだ。


こちらが打つ“意図”を、まるで記憶の中にあったかのように読み切られている。


鋭く打ち込んだドロップショットに対しても、まったく無駄のない足運びで滑り込み――


“音”もなく、ラインぎりぎりに返球される。


「ナイスリターン!」

「うそっ、あれ拾うの!?」

「なんなのこの動きっ!!」


周囲の部員たちが、ひとつひとつのプレーに声を上げていた。


それでも、ラケットを握る手を離さない。

焦りを見せた時点で、すでにこちらの“主導権”は失われる。


(でも――確かに、これは)


思っていた以上。

そして――なにより、驚くほど“懐かしい”。


この感覚。いつか、どこかで……。

わたくしの打球を、誰よりも美しく受け止めて返してくださった“あの人”のような――


――そんな錯覚すら、してしまいそうだった。


彼女のラケットから放たれるボールには、力ではない、研ぎ澄まされた技術と、何より“経験”が宿っている。


初心者ではない。

ましてや、“たまたま才能があるだけの子”でもない。


これは――本物。


天野ヒカリという少女の中に、わたくしの知らない“時間”が、確かに存在している。


そして――


「ポイント、天野さん! スコアは……2-2!」


杉本先生の声が響いた瞬間、わたくしは初めて、無意識に唇を噛んでいた。


(……面白い)


心が、熱を帯びていくのを感じる。


冷静さの奥で、奥底に眠っていた“なにか”が――目を覚ましはじめていた。


スコアは、2-2。

どちらに転んでもおかしくない――けれど。


(このままでは、飲まれる)


そう予感した矢先だった。


次のサーブを放った瞬間、天野さんの返球が“速い”と感じたのではない。


――“間合いを奪うほど、早い”。


振り上げるよりも早く、彼女はすでにそこにいて、まるで“音を置き去りにする”ようにストレートへ突き刺してきた。


コートの一角に鋭く響くボールの弾み。

ラケットを構えようとした時には、すでに遅く――動けなかった。


「ポイント、天野さん! 3-2です〜!!」


杉本先生のコールに、場が一気に静まりかえる。


「逆転――!?」


誰かの声が思わず上がり、それに続くように、場内が一気にざわつき始めた。


(……一本、取られましたのね)


その事実に、焦りはなかった。

むしろ、心のどこかが――ふるえていた。


けれどそれは、恐れではない。

迷いでも、敗北への不安でもない。


(……まったく、なんて子ですの)


額に浮かんだ汗をそっと拭い、ひと呼吸、深く息を整える。


この胸を満たしていたのは、間違いなく――


歓喜。


眠っていた“本気”が、ゆっくりと目を覚ましていく。

理性の奥で、炎のように心が燃え始めていた。


(いいえ……まだですわ。

 ここからが、わたくしの“高橋玲奈”としての本領ですのよ)


ラケットを握る手に、力を込める。


そして、静かに唇を弧にし――ゆるぎない視線で、ネットの向こうを見据えた。


次の天野さんのショットは、信じられない角度のアングルだった。

スライスで低く抑えたボールが、足元をかすめるように滑り抜け――ラケットは、それに追いつかない。


「ポイント、天野さん! 4-2っ!!」


スコアボードに刻まれた数字が、胸に静かに迫ってくる。


観客席がどよめいた。

犬神さん、小川さん、そして広報部の三人も――


「すごっ! 今の、見えなかった……!」

「え、今の打ち返し、神業……っ!」

「これ、もう試合じゃない……演舞やで……っ!!」


癒し広報部の叫びが、まるで歓声のように響く中――


(でも……まだですわ)


押され気味の空気を断ち切るつもりで、構えを取り直した。

額に汗がにじむ。呼吸はやや浅く、胸が高鳴っている。

それでも――負けるわけにはいかない。


だが――


続くポイント。


わたくしのサーブを、天野さんはコート後方から迷いなく踏み込んでリターンしてきた。


「はぁっ!」


鋭い声とともにラケットが振り抜かれ――

リターンエース。ライン際に突き刺さるボールに、思わず息を呑む。


「くっ……!」


二球目。変化をつけて、浅めのドロップで揺さぶる。

けれど、天野さんはすでに読み切っていた。

滑り込むように拾い上げ、そこから高く、美しいロブで上を抜いてくる。


(……上から!?)


三球目――

焦る気持ちを抑え、全力で放つパッシングショット。


(ここで決める!)


汗がにじむラケットを強く握り直し、力強く振り抜く。


だが――


「っ……!」


天野さんは、滑り込むように低い体勢で追いつき、身体をひねって――そのまま、ノールックでクロスへ放った。

鋭く、鋭く、そして静かに――コートを切り裂く一撃。


(……なっ!?)


ボールは、返ってきた。


いいえ、“戻される”のではない。意志を持って、突き刺されたのだ。


もう、声が届かない。

目の前にいるのは、わたくしが知る“天野ヒカリ”ではなかった。


記憶の中の誰か。

あるいは、記録の中にしか存在しないはずの“誰か”。

けれど――確かに、彼女はそこにいる。

そして、わたくしを超えようとしている。


(この子は……もう、次の舞台を見ている)


「マッチポイント、天野さん〜〜!」


あれほど静かだったコートが、今はまるで世界の音を飲み込んだかのようだった。


最後のサーブ位置へと歩いていく彼女の姿を、見つめる。

その一歩一歩が、まるで長い年月を越えてきた選手のように、どこまでも揺るぎない。


(……まさか。まさか、そんなはずは――)


けれど、それでも確かに、脳裏には浮かんでいた。


――かつて、テレビ越しに見た、あの人の凛としたフォーム。

プロの舞台で、誰よりも美しく、誰よりも孤高でいらした――あの、伝説のプレイヤー。


名前も、記録も、もうどこにも残っていない。

けれど――あの日、幼いわたくしの胸に刻まれた“輝き”だけは、今でもはっきりと残っている。


(あの人のように――強く、優雅で、気高くなりたい)


 それが、わたくしがテニスを始めたきっかけだった。


……なのに、どうして。

今ここに立つ天野ヒカリさんから、“あの人”とまったく同じ気配を感じるのか。


風を切る音。軌道を読む視線。

ラケットの構え――そして、その一球に込める静かな熱量。


(まるで――重なるように)


次の瞬間。

風を切る音。疾るボール。伸びるラケット――


「ゲームセット! 勝者、天野さん〜〜!!」


――スコアは、6-2。


拍手の音が、一瞬だけ遅れて、爆ぜるように広がった。


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