『白と黒の贈り物』27
昼下がりの静けさが、部屋をゆるやかに包んでいた。
カーテンのすき間から射す光はまぶしく、外では蝉が遠慮なく鳴き続けている。
扇風機がときおり首を振り、その一定のリズムだけが熱気の中で規則正しく動いていた。
越智隆之はベッドに腰かけ、几帳面にタオルを畳む。
向かいのベッドでは、長谷川信也がスマホを手に、無言で画面をスクロールしていた。
「……静かだな」
ふと漏れた長谷川の声に、
「先輩が話しかけてくれないと、会話、発生しないんで」
隆之は視線を動かさず、さらりと返す。
「“始まらない”でいいだろ、そこは」
「現象として捉えるなら“発生”の方が自然です。……たぶん」
長谷川は肩を揺らし、くすっと笑った。
「昔と変わらないな、お前。中学のときも、こうだったよな」
「……先輩の方が、よく俺を巻き込んでましたよ」
「俺? 巻き込んでたか?」
長谷川が目を細め、スマホを伏せる。
「“止められるなら止めてみろ”って走り出したの、先輩の方ですよね。
こっちは仕方なく全力で追いかけた記憶しかないです」
「あー……言ったかもな、それ」
「ええ、忘れられるわけがないです」
ふたりの間に、くすっと空気が緩んだ。
「なあ、越智」
長谷川がふと視線を向ける。
「……お前さ、またコートに立ちたいって思うこと、あるか?」
隆之の手が、わずかに止まる。
「思うくらいなら、誰でもします。でも、実際やるとなると……非効率なんで」
「……詳しく聞いていいか?」
「……回復データが60%台で頭打ちです。
再発リスクは35.8%。跳躍系の負荷にはまだ耐えられません。
それに――市販サポーターの平均支持力4.2kgfじゃ不足します」
「おいおい、やけに数字がリアルだな」
長谷川は笑いながらも、目は真剣だ。
「調べないと落ち着かないんで。根拠のない希望は、逆に危ないですから」
「……でも、それでも。お前はたぶん、諦めきってないんだろうな」
隆之は答えず、畳んだタオルを揃え直す。
扇風機の風がまた首を振り、二人の間をそっと抜けていく。
しばらくの沈黙のあと、長谷川が立ち上がった。
「俺、これからバスケ部の練習行ってくる」
「……気をつけてください」
「よかったら……見にこないか?」
一度だけ、隆之は視線を上げた。だが、すぐにタオルへ戻す。
「すみません。科学部の地理調査で、これから近場の地層の観察に出る予定なんで」
「そっか、そっちも忙しいんだな」
長谷川は苦笑し、ジャージのファスナーを引いた。
隆之はもう何も言わず、タオルを手にしていたが――
ふと、何かに引かれるように窓の向こうを見る。
「……夜って、コート使えるんですか?」
長谷川が驚いたように目を見開く。
「ああ。屋内だから、空いてさえいれば使えるよ。たぶん、遅くまで誰も使ってないと思う」
「そうですか。……参考までに、覚えておきます」
それだけ言って、隆之はまた静かに――けれど、さっきより少し丁寧にタオルを畳みはじめた。
***
合宿初日の練習。
わたくしはコート脇のベンチで、静かに全体の動きを見守っていた。
ガラス張りの屋内テニスコートにはほどよく冷房が効き、夏の灼熱から守られた空気が心地よい。
本来なら澄んだ青空の下で汗を流すのが理想ですけれど、この猛暑では判断が屋内に傾くのも当然ですわ。
体調管理を第一に考える――それが、キャプテンとしての務め。
ストレッチが終わると、犬神さんと小川さんがネットを挟んで向かい合う。
ふたりとも目を輝かせ、身体を大きく弾ませていた。
「ふふっ……やはり、若い子たちが元気に動いている姿は、いいものですわね」
犬神さんがポニーテールを揺らし、まっすぐな笑顔でラケットを構える。
足運びにはまだ粗さが残っているものの、一歩ごとの伸びやかさと、迷いのない踏み込みがとても心地よい。
ああ――吸い込まれるような素直さ。
見ているこちらの表情まで、自然と和らいでしまう。
対する小川さんは、お団子ヘアをきゅっと結び直し、
「サーブうったら、お昼ご飯もう一回いけますねっ!」
なんて明るく声を上げていた。
言葉こそ奔放ですけれど、ボールへ向かう一瞬の集中は鋭い。
軽いタッチから放たれる球の変化は予測がむずかしく、そこに彼女の感性が確かに宿っている。
――互いの持ち味が、ようやく輪郭を見せはじめた。
軽く始まったラリーは、徐々に熱を帯びていく。
犬神さんのショットは力強く、時折フレームに当たるほど勢い任せ。
けれど、そこには理屈を超えた“素直さ”がある。
小川さんは変化球が得意らしい。
軽いタッチでスピンを効かせ、思わぬ角度へ返す――その読みづらさが、何よりの武器だ。
「ふふっ……いい動きです〜」
コート脇で月城さんがそっとカメラを構え、柔らかく微笑む。
「うわっ、この瞬間シャッター完璧っ☆」
河田さんは動画を撮りながら、SNS用のメモをリアルタイムで走らせている。
「フォームの癖、よう出てるな。撮っといて、あとでフィードバックしたろ」
天音さんはいつの間にかメモ帳を開き、まるで部活マネージャーのような鋭い目をしていた。
……“癒し広報部”。
賑やかすぎることなく、けれど確実に、この“空間”を支えてくれている。
ふと、視線の先――壁際のベンチに、静かに座る少女がいた。
天野ヒカリさん。学校ジャージのまま、その場の静けさに溶け込むように佇んでいる。
けれど、その瞳だけは、確かに――
コート中央のボールの軌跡と、犬神さんの一挙手一投足を追っていた。
(……やはり、見ている)
誘いを何度断られても、なぜか「そこにいるだけ」で安心していられたのかもしれない。
だけど、今のその視線には、明らかに“欲”がある。
押さえ込もうとしても抑えきれない、テニスへの衝動。
……あの瞳の奥に、何か懐かしいものを探しているような影が揺れた。
(……まさか)
少しだけ息をのむ。
彼女の中に灯るその光は、まぎれもなく、かつて幾度となく見てきた“情熱”に似ていた。
それでも天野さんは微動だにしない。
けれど、わかる。あの瞳に宿る衝動は、眠っているのではなく、押し込めているだけ。
(ラケットを手にする天野さん……その瞬間を、ずっと見たいと願っていたのかもしれませんわね)
そっと立ち上がり、コートを横切る。
ラリーを終え、水分補給をしていた部員たちの間を抜け、壁際のベンチへ。
「天野さん」
呼びかけると、彼女がゆっくり顔を上げる。瞳の奥に、一瞬の揺らぎ。
「少しだけ、手合わせしていただけますか?」
……静寂が落ちた。
部員たちの視線が、わたくしと天野さんに集まる。
癒し広報部の三人も、手を止めてこちらを見ていた。
彼女はすぐには答えず、ほんのわずかに瞬きして――
「……ラケット、持っていません」
そう言って、少し視線を逸らす。
けれど、その声音の奥に“余白”があった。拒絶ではない。ただ、覚悟が定まっていないだけ。
「お貸ししますわ」
微笑み、自身のラケットを差し出す。
「あなたなら、すぐに馴染むはずです」
……この瞬間を、どれほど待ち望んでいたのだろう。
あの日、最初に彼女を見たときから――いいえ、もっと前から。
胸の奥に、言葉にできない確信がふわりと灯る。
差し出したラケットを、天野さんはしばらく黙って見つめていた。
手を伸ばせば届く距離。けれど、どこか遠いものを見る眼差し。
……それでも、ひと拍の静寂ののち、迷いなくラケットを取る。
ぎゅっと握られたグリップ――微かに、風が走るのを感じた。
(……風? いいえ、これは――)
目を細める。
何かが確かに、彼女の中で動いた。
記憶の奥底にある“感覚”を、今、掴もうとしている。
「……わかりました。やりましょうか」
その静かな一言が、空気を変えた。
コートの周囲で見守っていた皆が、ぴたりと動きを止める。
癒し広報部の三人が無言で頷き、
河田さんはスマートフォンを、天音さんはメモ帳を、月城さんはシャッターを――それぞれ“構える”。
犬神さんと小川さんも、タオルを持ったまま凍りついたように見つめていた。
――これが、求めていた光景。
静かに微笑む。
「では……軽く、ラリーから始めましょうか」
彼女と向かい合いながらベースラインへ向かう。
……ラケットが重くないことに、少し驚いた。羽のように軽い。けれど、今はそれよりも――
“天野さんがラケットを手にした”。
その光景だけで、胸の奥がわずかに震えていた。
そして、軽く放たれたボールが、空気を押しひらくようにゆるやかに弧を描き――
ぽん。
乾いた一音が、静寂の中でひとつの始まりを告げる。
(さあ――見せてちょうだい)
夢のようなラリーが、今、始まった。




