『白と黒の贈り物』21
――真夜中って、静かなはずだった。
でも、今のこれは違う。
空気は重く、息が詰まりそうで。
音も風も、どこかに消えていた。
世界そのものが、じっとわたしを見ている――そんな気がした。
気配が、背中に貼りついてくる。
吹いていた風は、ぬるく湿っていて――まるで生きもののように肌をなぞった。
虫の声も、波の音もなかった。
耳の奥には、自分の心臓の音だけが、妙に大きく響いていた。
それが、まるで誰かの足音みたいに聞こえて――
ぞくり、と背筋が震えた。
その瞬間、どこかで声がした気がした。
“少女は歩いていた――
雷雨の夜、誰もいない山道を。
呼ばれるように、ふらり、ふらりと。”
長いピンク色の髪が、雨に濡れて背中に張りついていた。寝る前にほどいたままの髪だった。
(……ちー先輩……)
その名前が浮かんだ。
胸の奥が、あたたかくなる。
でも、なぜそう感じるのか――わからなかった。
(……ヒカリ先輩……)
懐かしい響きが、ふわりと脳裏をかすめた。
でも、それだけ。
名前の輪郭は残っていても、感情は、どこかへ消えていた。
ビカッ――!!
空が裂けた。
目を閉じても焼きつくような閃光。
続けて――
バアアァンッッ!!
雷鳴。
世界を切り裂くような音が、背中を突き上げた。
羽織っていたパーカーのすそが風にあおられ、肩から滑り落ちた。
(……べつに、もう、いらない……)
そんなふうに思った気がした。
そのとき――心の奥で、遠い誰かの声がかすかに響いた。
ザァァ……
サァァァ……サァァ……ッ
雨の音。
ただ濡らすだけの雨じゃない。
何かが、地面を這ってくるような音。
重たくて、湿っていて、じわじわと足元を覆ってくる。
肌にあたる雨粒が、誰かの手のように感じた。
それでも、わたしは歩いた。
濡れたTシャツが背中に貼りついて、
短パンのすそが、太ももにまとわりついた。
足元は、もう舗装された道じゃなかった。
ぬかるんだ土に足が沈み、
濡れた草と木の根が、進むたびにまとわりついてくる。
(……ここ、どこ……?)
そんな言葉が浮かんでも、すぐに流れていった。
後ろを振り返ろうとは、思わなかった。
前しか、見えなかった。
(あの場所へ……いかなきゃ……)
意味はわからなかった。
でも、その言葉だけが、わたしの足を動かしていた。
(……ちー……先輩……)
(……ヒカリ……せんぱい……)
呼んだはずの名前は、口からこぼれず、
雨と風にさらわれて、消えていった。
最後にもう一度だけ呼んだ名前も、声にはならなかった。
(いかなきゃ)
(いかなきゃ……)
(いかな……)
……声にならなかった。
言葉も、名前も、霧のように消えていった。
そして――
その沈黙の中から、ぽつりと、音がこぼれた。
♪……わすれないで…… ぬくもりを……
しっぽと……ひげの…… この、きおく……
つながるように…… おもいだして……
めを、とじて…… おやすみなさい……
美咲の口から、たどたどしく零れ落ちたその歌は、
誰かの記憶をなぞるように――
感情もないまま、ただ静かに、雨に溶けていった。
そして彼女は、
ただ、夜の中に――
静かに、消えていった。
………
***
【ここからは、彼女が姿を消す“二日前”。
まだ、全員がそろって、笑っていた日のこと。】
――あれは、まだ午前中の、日差しがゆるやかな時間帯のことでした。
わたしたちが旅館に到着してから、
けっこう時間が経っていました。
天音先輩も、愛衣先輩も、隆之先輩も、亜沙美先輩も――みんな玄関で待っていたけど、ちー先輩と天野先輩だけが、ずっと戻ってこなくて。
最初は「散歩にしては長いね〜」なんて言ってたけど、
だんだん、笑顔が減ってきて……
胸の中が、そわそわして、落ち着かなくて。
(もしかして……熱中症とかで倒れてたり……?)
わたしの声が震えそうになったそのとき――
「……しゃあない、うち、見に行ってくるわ」
って、天音先輩がひとことだけ言って、
そのまま山道の方へ、駆け出していったんです。
「森川――天音先輩っ!」
思わず声をかけたけど――
そのすぐ後。
天音先輩が、ふいに立ち止まって、目を見開きました。
「……あっ……あれ……!」
わたしも慌てて駆け寄って、天音先輩の視線の先を見ると――
(――いたっ!)
ちー先輩と天野先輩が、並んで山道を下ってきてたんです!
汗をぬぐいながら、でも、ふたりとも笑っていて――
「ちー先輩……! 天野先輩!!」
わたしは、その場にいられなくなって、
もう、反射で玄関を飛び出してました。
「会いたかったですっ……!」
足元がふらつきそうになりながらも、
一生懸命に走って――
気づけば、ちー先輩に、思いっきり飛びついてました。
「わわっ……美咲ちゃんっ!?」
ちー先輩は驚いたみたいだったけど、
しっかり両腕で、わたしのことを受け止めてくれて。
わたしは、ぐいって顔を胸元にうずめて――
こぼれそうになる涙を、ぎゅうっとこらえました。
「よかった……無事で……ほんとに……」
声が震えてしまっても、ちー先輩の手がそっとわたしの頭を撫でてくれた。
「うん、ただいま。ちゃんと戻ってきたよ」
ちー先輩の手は、あったかくて。
撫でられるたびに、胸の奥の不安が、ゆっくり溶けていくみたいで――
(わたし……ちー先輩のこと、やっぱり……)
……なんて、言えないけど。
でも、この瞬間だけは、ぜんぶ抱きしめたくなった。
ちー先輩に抱きついて、ようやく落ち着いてきたわたしの肩を、そっと、細い指がちょんっと叩いた。
振り向くと――そこには、天野先輩の姿があって。
「……心配かけて、ごめんね。小川さん」
その声は、ふわっと優しくて、
まるで、おひさまみたいなあったかさが、胸に届いた。
「……っ、ううん、わたしこそ、勝手に不安になっちゃって……!」
ぽろっと言いかけて、また涙が出そうになって。
なのに――
「よしよし……」
天野先輩の手が、わたしの頭に、そっと触れた。
その手は、そっと包み込むように やさしくて――
なんだか、胸の奥が、じんわりとあたたかくなる感じがした。
そのやさしい手のひらに、わたしは
ふっと目を閉じた。
(……あったかい……)
(おかあさんの、手みたい……)
どこか知らないはずの優しさなのに、
どうしてだろう――心の奥が、
じんわりと、ほどけていく。
ぽかぽかしてて、やさしくて……
まるで、ずっと探していたぬくもりみたい。
「もう大丈夫……だよね?」
「……はいっ。
ありがとうございます、天野先輩……!」
頭をなでてもらいながら、
わたしは、なんだかもう――
“ほわぁ〜……”って、溶けそうなくらい、癒されてました。
(……天野先輩って、こんなに、やさしかったんだ……)
ちょっぴりずるいくらい、あたたかかった。
その後ろで――
「おそーいっ、ほんま心配したんやからなっ!」
って、天音先輩が後ろで腕を組んで怒ってたけど、
その目は、ちょっとだけ潤んでて。
「ふたりとも、無事でほんま、よかったわ……」
そう言ったあと、ちょんと目元を拭いてたの、わたし見逃さなかったですからね?
そして、玄関前がどんどんにぎやかになっていって――
愛衣先輩、亜沙美先輩、隆之先輩、それから玲奈先輩と長谷川先輩まで合流!
ちー先輩が、ぱっと顔を上げて言いました。
「おまたせ〜、みんな! 夏合宿組、合流だよ〜っ!」
「犬神さん、天野さん、ご無事でなによりですわ。
少しだけ心配してしまいましたの」
玲奈先輩が、優雅に微笑んでそう言って、
ちー先輩の「ただいま」の声に応えるみたいに、
「おっ、来た来た。犬神、天野、無事でなにより」
長谷川先輩が軽く手を挙げて、にこっと笑う。
「荷物、平気か。合宿、思いっきり楽しもうな」
そのやりとりを見ているだけで、
わたしは、ちー先輩の横顔を見ながら、
ふっと胸の奥がぽかぽかするのを感じてました。
(このメンバーで夏合宿……ううん、“特別な時間”になる気がするっ!)
旅館の前で交差する、たくさんの声と笑顔。
その風景を見つめながら、
わたしはふと思いました。
ここからきっと、わたしたちにとって
大切な“何か”がはじまるんだ――そう思った。




