『白と黒の贈り物』19
光が静かに、ほどけていく。
気づけば私は――ふわふわとした、やわらかな草の上に立っていた。
(……ここは……)
空は、ほんのり夕暮れがかったような、不思議な色。
遠くには、見覚えのある山並みが、
影絵のように浮かんでいる。
耳をすませば、現実とはどこか違う、
しん……とした音のない世界。
風が吹いているはずなのに、草のざわめきすら届かない。音だけが、そっと取り残されたようだった。
それでも――風の匂いも、空気の温度も、
どこか現実とは違って感じられる。
まるで時間さえ、静かに眠っているような渡島。
その静けさの中に、ふと、いのちの気配が揺れた。
足元には小さな花が咲き、
向こうでは、水たまりのような湖が
光を映して、きらきらと揺れている。
そして――そのとき、私は気づいた。
(……また、四つ足になってる)
地面に視線を落とすと、小さな肉球のついた前足が、
ふわふわした草の上にちょこんと乗っていた。
毛並み越しに伝わる、草のくすぐったい感触。
ふわり、と――
首元から、あたたかな光が、
かすかにあたり一面に広がった。
視界の端で、きらきらと小さな光粒が揺れている。
それは、まるで夢のかけらみたいに静かに舞っていた。
(……犬神の首輪……)
私はそっと感じ取った。
白銀の首輪に刻まれた四つの印のうち、
いまは二つだけが、やさしく、確かに光を放っている。
(二つの試練を乗り越えて……封印を強化してきたんだ。あの日向町を…守るために。)
思わず、しっぽがぴくりと揺れた。
胸の奥から、じんわりと湧き上がる誇らしさと、
ほんの少しの不安。
でも、私は、まっすぐ顔を上げる。
(今回も絶対、越えてみせる――!)
しっぽをふわっと立てながら、
私は次の一歩を踏み出した。
そこに、もう驚きはなかった。
夢幻封界に来るのは、これで三度目だし――
この、犬の姿も、なんだか……今ではちょっと、
当たり前みたいになってた。
すると、ふいに。
静寂を破るみたいに、優しい声が耳に届いた。
「犬神さん」
その声に、私は、ぱっと顔を上げた。
そこにいたのは――
シロの体を借りて、堂々としていて、
でも、どこか懐かしい優しい目をした、“大きな犬”。
白くてふわりと揺れる毛並み、すっと通った鼻筋、
そして、あの声――間違いない。ヒカリだ。
ヒカリが、ふわっと微笑んで言った。
「……懐かしい。この姿で会うの、ひさしぶりだね」
「うんっ、ひさしぶり!またこの姿で、
ヒカリと一緒に頑張れるの、うれしいなっ!」
私は、自然としっぽをふりながら、そう答えた。
ヒカリは、静かに頷きながら――
「……ここは“記憶の入口”。私たちが向き合うべきものが、静かに待っている場所よ」
その言葉に、私はそっと
うなずいてヒカリと並んで歩き出した。
渡島のようでいて、どこか異なる景色。
白く霞んだ森を抜け、静かに流れる川を越え、
やがてふたりがたどり着いたのは――
広々とした、開けた大地。
そこには、白く輝く石柱が何本も立ち並び、
ひとつひとつが静かに、
けれど圧倒的な存在感を放っていた。
空の色さえも、ほんのり銀色に霞んでいて、
風の音すら吸い込まれていくような静けさ――
足元には苔のような柔らかい草が広がり、
どこにも“人の気配”はないのに、
なぜか「見られている」ような感覚だけが、
背中をそっと撫でていく。
それはまるで、
“人の世界と、何か大きな存在の領域”の境目に
ふと迷い込んでしまったような――
そんな場所だった。
(ここが……シロの言っていた、犬神の儀式の間……)
その中心に、ふわりと浮かぶようにして、
ひとつ、またひとつ……ふたつの光が現れた。
ひとつは、やさしくあたたかな白の光。
もうひとつは、重く深い、揺れる黒の光。
それぞれの光が、しんしんと静かに形を帯びていく。
白の光は――透き通るような装束をまとい、
背筋を伸ばした白巫女の姿に。
その表情はおだやかで、でも芯の強さが瞳の奥に宿っていた。
そして黒の光は、ふとした瞬間に影のように揺れ、
見る者を射抜くようなまなざしを持つ
黒巫女の姿へと変わっていった。
やがて――白巫女が、ゆっくりと口を開いた。
「……はじめまして。あるいは……おかえりなさい、
なのでしょうか」
その声は、やさしく透き通っていて……
でも、どこか懐かしい。
「この地は、かつてわたくしと、
黒の巫女が封を施した、祈りの記憶。光影の結びの祠。
あなたたちがここに導かれたのも、
きっと、時の縁によるものでしょう」
すると、その隣で、黒巫女がくすっと笑った。
「ふふっ……よう来たのぉ、犬神の血ぃ引くもんたち。
ここは、うちらふたりの“想い”が、ようけ染み込んだ
場所じゃけん。
まっすぐ進むつもりなら――それなりの覚悟、
見せてもらわんとな?」
ふたりの姿は、
もう完全に“人”としてそこに立っていた。
けれど――その身体は、時折、光と影にゆらりと揺れ、
まるで存在そのものが、
記憶の残響であることを物語っている。
ヒカリが一歩、前に進み出る。
「……わたしたちは、日向の町を守るために。
再び厄災が訪れることのないよう、
封印を強化しに、ここに参りました。
そして――その封印の本当の意味を、
確かめるために。」
白巫女は、静かにうなずいた。
「では、与えましょう。
――第三の試練を。
“記憶”と“想い”のはざまに揺れる、真実の姿を。」
黒巫女もまた、目を細め、微笑を浮かべながら続ける。
「うちらの“未練”――
そのすべて、受け止められるかどうか。
試してみぃや。」
その瞬間、ふたつの巫女の姿がふわりとほどけて、
白と黒の光が――重なった。
交わるはずのない光と影が、激しく渦を巻き、
銀の空にひとつの“獣の形”を描き出していく。
真っ白な毛並みと、禍々しい黒い模様。
獣のような、けれどどこか人の哀しみを宿した目――
ヒカリが、一歩踏み出しかけたとき――
心の深淵から、低く、重く、響く声が広がった。
それは、シロの声だった。
『――ノゾミヲ喰ラウモノ。
想いと記憶を喰らい、封印の理を守る、
最古の番獣……。その真実、覚悟して挑め。』
次の瞬間、
白と黒の巫女の想いが交わった地に、
暗く、うねるような影が姿を成す。
牙を剥き、
地を震わせるほどの唸り声をあげながら、
巨躯の獣が、ずしん、ずしんと大地を踏みしめた。
「犬神さんっ……!」
「うん、いこう……ヒカリ!」
そして――
その巨大な影は、
圧倒的な存在感とともに、私たちの前に立ち塞がった。
試練の真の姿が、
いま、否応なく目の前に迫っていた――!
***
「うわっ、な、なんかすごいの来たーっ……!」
白と黒の獣が、地を揺らすような咆哮を放った瞬間、
思わず後ろ足で踏ん張った私のしっぽが、
びくんとピーンと立った。
体が、ぶるっと震える。
けれど、それは――“恐怖”だけじゃない。
(この気配……この胸をぎゅっと締めつける感じ……)
目の前に立つ“ノゾミヲ喰ラウモノ”は、
たしかに、誰かの――想いそのものだった。
「犬神さん、下がって!」
ヒカリの声に振り向いた瞬間、
白い毛並みの彼女が、私の前へと飛び出した。
鋭く振りかざした前足が、
瞬間、まばゆい光をまとった――!
その爪先から迸った光の軌跡は、
大きな弧を描いて宙を裂き、
体格差をものともせず、獣の巨体へと鋭く切り込んだ!
ズシャアアッ――!
閃光が走ったその一瞬、
ノゾミヲ喰ラウモノの身体に、深く裂け目が刻まれ、
黒い霧のようなものが、じゅう……と
音を立てて噴き出す。
だが、悲鳴もなく――その巨体は微動だにしなかった。
「効いてない……?」
そう思った刹那、
ノゾミヲ喰ラウモノは、尾をうねらせ、
空間ごとゆがめるような凄まじい一撃で、
こちらへと襲いかかってきた――!
ヒカリが駆け、私もすぐに続く。
ノゾミヲ喰ラウモノが、うねる尾を振り上げた瞬間――
私は地を蹴り、低く回り込むようにして、
獣の背後へと跳び込んだ。
(今だ――!)
勢いを殺さず、身体をぐっと沈めると、
そのまま一気に跳び上がる!
足元に、蒼白の光がほとばしり、
しなやかな力が私を押し上げる。
裏側から回り込んだ私は、
太い尾に向かって、渾身の一撃を叩き込んだ!
「はああっ――!」
爪先から光の軌跡が走り、
獣の尾に深々と傷を刻む。
その瞬間、地面を駆け抜けるように、
光の波紋がぱぁっと一面に広がっていった。
(負けない――!)
小さな体でも、牙をむいて、必死に食らいつく。
ヒカリも、光をまとった爪で別方向から攻め立てる。
ふたりの攻撃は、ぴたりと呼吸を合わせたかのように、獣の動きを一瞬だけ止めた。
――けれど。
ノゾミヲ喰ラウモノは、うなり声をあげ、
さらに凶暴な力を解き放つ!
「っく――!」
獣の尾が、嵐のような勢いで薙ぎ払われる。
私は咄嗟に身を低くした――けれど遅かった。
爆風のような衝撃が、地面ごと私の体をぐわっと押し上げる!
そのまま空中に投げ出され、
私は、地面に叩きつけられるように転がった――!
ドンッ! ズザザザッ――ッ!!
草と土が舞い上がり、私は数メートルも引きずられる。
身体がきしむような衝撃とともに、全身がずぶずぶと土にすれていく。
(うっ……痛っ……
腕も、背中も、ヒリヒリする……
このままじゃ、動けなくなる……!)
重たい空気が、のしかかる。
絶体絶命――でも、私は、あきらめないっ!
絶対に、この試練を乗り越えるんだっ――!
日向町を救うために…私が、私であるために!
近くにいるヒカリの存在が、
あたたかく胸に灯っている。
「ヒカリ――!」
「うん、わかってる!」
私は、ぐっと地を蹴った。
ふらつきながらも、ヒカリのもとへ向かって駆け寄る。
ふたり、肩を並べた瞬間――
心の奥から、ぽうっと温かな光が灯るのを感じた。
それは、ただの力じゃない。
私とヒカリを結ぶ、確かな絆の光だった。
(……この力は――!)
胸の奥から、あたたかくて、
でも力強いものがあふれてくる。
(ヒカリと、私の想いが……ひとつになってる――!)
ふたりを包む光は、次第にまばゆさを増し、
私たちの間に、まるで一本の白い糸が輝くように、
きらきらと繋がっていった。
共鳴する、想いと想い。
ふたつの光がひとつに溶け合い――
いま、私たちは、一緒に戦うための“力”を手にした。
『やってみせよ、そなたらの―― “白い絆の力”、
そのすべてを!』
シロの声が、心の奥に響く。
「私たちなら――!」
「できる!」
そのときだった――
私たちの前足が、ぴたりと重なった瞬間。
ふたりの間に、白い光の紋様が広がった。
「これって……?」
「“共鳴”……」
ヒカリが静かに言った。
「この夢幻封界では、想いが力になる。
あなたの“願い”と、私の“想い”が、今――
重なったのね」
【共鳴技【絆の閃光】覚醒!】
私とヒカリが、並んで走る。
ヒカリの身体から広がる白い結界が、
私の動きを導くように走りを加速させる!
「いっけぇぇぇぇぇっ!!」
私の前足が、まっすぐに獣の胸めがけて突き進む――
その瞬間、横からまばゆい光が走った!
「はあああああっ!!」
ヒカリが空を裂くように跳び込み、私の突撃にぴたりと重なる!ふたつの光がひとつに重なった瞬間、
轟く閃光が、まるで稲妻のごとく敵の身体を貫いた!
獣の胸に、私の前足がめり込むように叩きつけられる。
同時に、ヒカリの前足が鋭い弧を描いて――
白と黒の模様を、真っ二つに引き裂いた!!
ズドォンッ――!
爆風のような衝撃が炸裂し、草原を一面に吹き飛ばす!
「これが――私たちを繋ぐ“絆の力”っ!!」
……そして、次の瞬間。
獣の瞳が――微かに、揺れた。
悲しげな、涙を宿したような目。
「やっぱり……あなた、ずっと……苦しかったんだね」
私は、小さくそう呟いた。
「でも――もう、ひとりで抱えなくていいよ」
直後、轟音が――夢幻封界に響き渡った!
「犬神さんっ!!」
ヒカリの叫びと同時に、
ノゾミヲ喰ラウモノが咆哮をあげ、空間が――裂けた。
白と黒の渦が、まるで意思を持ったように襲いかかる。
私はその渦の中へ、飲み込まれるようにして――
(ヒカリ……!?)
次の瞬間、目の前の光景が、音も色も奪われた。
空気が凍りついたようで、
世界はぴたりと動きを止めていた。
「……ここ、どこ……?」
誰の気配もしない。風も、空も、木々もない。
ただ、自分の心音だけが、ぽつぽつと鳴っている空間。
どこまでも深く、冷たく、暗い――
絶望だけが満ちている渦。
(ヒカリ……どこ……?)
(わたし……ひとりなの……?)
怖さじゃない。
でも、どこか奥の方が――空っぽになるような、
不安が広がっていく。
自分が消えてしまいそうな恐怖。
心の奥が、音もなく崩れていく。
(……やだ、こんなの、やだ……!)
闇に押しつぶされそうな中――
ふっと、心の奥底に、あたたかな光がともった。
それは、小さな、小さな光だった。
今にも消えそうで、それでも、確かにそこにあった。
(こんなところで……終わりたくない――!)
私は、ぎゅっと前足を握りしめる。
(ヒカリが、私を呼んでる。
私だって――あきらめたくない。
一緒に、未来へ進むって決めたんだ!)
小さな光は、静かに揺れながら、
次第に――大きく、そして力強く輝き始めた。
そのとき――
かすかに、あたたかな光が、闇の底から伸びてきた。
…ヒカリの想いだった。
『犬神さん……あなたは、もうひとりじゃない』
――ヒカリの声が、闇の中で微かに響き
光が差し込んでくる。
その一筋の光が、闇を裂いて――
「ヒカリッ!!」
「犬神さんっ!!」
ふたりの光が、絡まり、結び合い、
絶望の渦の中心に、一筋の道を照らした。
分断が、ほどけていく。
孤独が、想いによって溶かされていく。
そして再び、私とヒカリは並んで――
“ノゾミヲ喰ラウモノ”の前に、立った。
「いまよ、犬神さん――一緒にっ!」
ヒカリが叫んだ瞬間、
ふたりの動きが、ひとつになった。
光と光。
心と心。
呼吸のリズムさえ同じで、まるで最初からふたりは
繋がっていたかのように――
私たちは、ノゾミヲ喰ラウモノの核心へと、
駆け込んだ!
「……わたし、もう迷わない!」
「私も……あなたと一緒に、未来を選ぶ!」
「――ふたりで掴むんだ、未来をっ!」
私は吠えた。
ヒカリが並んで、加速する。
獣が、最後の咆哮をあげる。
けれど、その叫びはもう――
どこか苦しげで、悲しげだった。
――ズンッッ!!
私とヒカリの、光をまとった鋭い爪が、
同時に――“核心”へと突き刺さった!!
爆ぜる閃光。
それは、夜を切り裂くような輝き。
私たちの希望、祈り、絆――
すべてをのせた“想いの一撃”だった。
ふたりの光が重なり、絡まり、
天へと昇るような巨大な閃光となって――
ノゾミヲ喰ラウモノの核を、
迷いなく、真っすぐ――貫いた!!
その瞬間、世界は――
白銀の光で、すべてが包まれていく。
大地も、空も、風も――
優しく、やわらかく、塗り替えられていくように。
それはまるで、
私たちの絆が世界を塗り替えていく“奇跡”みたいで――
(これが……私たちの力)
私の胸の中で、確かな光がともっていた。
……やがて、音もなく世界が静まり返る。
獣の身体が――静かに、ほろほろと崩れていった。
白い光が、黒い影を包むように…
すべてを溶かしていく。
その中心に、ふわりと浮かび上がったものがあった。
ひときわ眩しい、透明な“光の結晶”。
「これが……“記憶の結晶”……」
ヒカリの声が、かすかにふるえていた。
その瞳は、まだ静かだった。
けれど、目の奥には、
こらえるような光が揺れていて――
(ヒカリ……今、何かを……)
喜びと、願いと――祈りが交差するその瞬間。
彼女の胸の奥で、確かに何かが…
静かに目を覚ましかけていた。
私が、そっとその結晶に触れようとしたとき――
一瞬だけ、ふたりの背後に――ふたつの影が揺れた。
白の巫女と、黒の巫女。
光のように、静かに微笑んで。
それぞれが、手を合わせるように――
私たちを、優しく、まっすぐ見つめていた。
声は聞こえない。
でも、心にはっきりと届く。
“ありがとう”
そして、ふと、もうひとつ。
かすかに、でも確かに、ふたりの声が重なる。
『……願わくば、
この未来、汝らと共に紡がれんことを』
まるで、光そのものになったみたいに、
白と黒の巫女は、そっと頷きあった。
ふたりの魂の残響は、
ひとひらの風となり、
あたたかな光となり――
夢幻封界の空へ、
静かに、静かに、溶けていった。




