『白と黒の贈り物』12
(ふぁぁ……今日は、いっぱい歩いて、
いっぱい笑ったなぁ〜……)
お布団にくるまって、暗くなった天井を
ぼんやり見上げながら、ごろ〜んって寝返りを打った。
レクリエーションも楽しかったし、
夜ごはんも、お風呂も気持ちよかったし――
それに、おばあちゃんの話も……
なんだか心に、そっと残ってる。
昔、忘れられた誰かがいた――なんて。
まるでおとぎ話みたいだけど、
不思議と、他人事に思えなかった。
……だって、私――
なんとなく、だけど。前世で“犬”だった記憶が、
うっすらと残ってる気がするの。
それに……誰かに、すっごく大事にされてた感覚。
あったかくて、やさしくて――
たぶん、それが……飼い主さん、だったのかな。
……全部がはっきりしてるわけじゃない。
でも、確かに、心の奥にふわっと残ってる。
あのぬくもり。あの声。あの場所。
それが“誰だったのか”は、まだわからないけど――
でも、確かにそこに“いた”って思える。
あれは――きっと、忘れちゃいけない何か。
隣のお布団では、天音ちゃんが軽く寝息を立ててて。
そのやさしいリズムに、私もだんだん、
まぶたがとろ〜んって重くなってくる。
そっと目を閉じると、
お布団の中のあたたかさが、ふわふわと体を包んで――
自然と、ヒカリの顔が浮かんできた。
ヒカリ……なんていうか、ちょっとだけ、
“まわりのみんな”とは違う空気を、まとってる気がする
だって――彼女には、ふつうは見えない“犬神の指輪”が、ちゃんと見えてるんだもん。
それに、彼女のそばにいるシロも――
ただの犬なんかじゃない。
ちゃんと、人間みたいに話すんだよ。
ふわふわで可愛らしい見た目なのに、
落ち着いた声で、言葉には、どこか威厳があって。
最初はびっくりしたけど、
今はもう、シロが静かに話しかけてくれるたび、
胸の奥が、ふわっとあたたかくなる…。
(……今度、ヒカリに聞いてみようかな)
そんなことを思いながら、
頭の中には、ヒカリとシロとの思い出が
ふわふわと浮かんでは、また消えていった。
(……あれ? なんでだろ。今、なんだかすごく……
なつかしい)
遠くで波の音が、やさしく響いている。
お布団のぬくもりも、波の音も――
ぜんぶが、だんだん夢と溶け合っていく。
……そのまま私は、静かに夢の中へと落ちていった。
***
……ひんやりとした風が吹いた。
乾いた土の匂い。かすかに混じる、枯れ葉の気配。
それが、胸の奥にふっとしみ込んでくる。
空は――朝でも、夜でもない。
ほんのり白く、どこか不思議な色。
それでも、どこか懐かしい――そんな気がした。
「この景色って……渡島、なの?」
ふと、そんな言葉が心の奥から浮かび上がった。
私は、身体も声も持たない存在だった。
ただ、ふわりと冷たい風の中に浮かんで、
世界を見下ろしているだけ。でも、それでも分かった。
ここはきっと、私たちが今、訪れているあの島――
“渡島”。
だけど、目の前に広がる景色は、
今のものとはどこか違っていた。
もっと静かで、もっとあたたかくて――
何十年も昔の、忘れられた記憶のような場所。
……ぱらぱらと枯れ葉が舞う音。
遠くでかすかに響く、冬鳥のさえずり。
空は高く、光は木々の隙間から、やわらかく斜めに射していた。
静かな、冬の山の中。
その奥を、ひとりの若い女性が歩いていた。
白と紅を基調にした、どこか巫女服を思わせる衣をまとい、
冷たい風を受けても凛としたまま、
静かな足取りで、山道を進んでいく。
すっと高く結ばれた髪が、
背中に沿ってふわっと揺れる。
姿勢はすらりとしていて、
どこか、あたたかな空気をまとっていた。
若いはずなのに、背中をそっと撫でてくれそうな、
やさしさがあった。
……なんとなく、だけど、
つらくても誰かを先に気づかってしまうような、
そんな人なんじゃないかって、そう思った。
顔はモヤがかかったみたいにぼんやりしていて、
はっきりとは見えなかったけど――
その姿を見た瞬間、
胸の奥がふわりとあたたかくなった。
どこかで知ってた気がする。
そんな、不思議な懐かしさに包まれていた。
……その余韻の中で
ふと、彼女が視線を落とした先に――
岩陰に、ぽつんと、ふたつの小さな動物が見えた。
寒さに震えながら身を寄せ合っている。
赤茶色のふわふわした小さな犬と、
雪のかけらみたいに白い子猫。
細くなった身体、冷たい空気――
それでも、二匹は、ぴたりと寄り添っていた。
まるで、世界に置いていかれても
お互いだけは、絶対に離れまいとするみたいに――。
冷たい風の中、二匹はじっと身を縮めたままだったけど、気配を感じたのか、そっと動きが生まれた。
犬はかすかに顔を上げ、
女性の姿を見て、小さくしっぽを揺らした。
彼女はしゃがみこみ、そっと二匹に手を差し伸べた。
その仕草はとても丁寧で、包み込むような優しさがあった。
その手からは、すべてを包み込んであたためるような、
やさしいぬくもりが、そっと広がっていた。
白い子猫の小さな身体を、そっと抱き上げる。
彼女はふと、その場で立ちすくんだ。
何かを迷うように、しっかりと腕の中の子猫を抱きしめながら、もう一方の手を、そっと子犬の背に伸ばしていく。その指先は、助けたい気持ちを隠せないみたいに、小さく震えていた。
(……どうにかして、二匹とも助けたいんだ。
いまにも消えそうな、この小さな命を……絶対に。)
私は、ただ――
そこに“浮かぶだけの存在”として、
見守ることしかできなかった。
だけど、その場に満ちていた空気だけは、
たしかに、心で感じることができる。
優しさと、葛藤と――
祈るような、切実な願い。
……凍りついたみたいに、世界が静まり返った。
すると突然、その背後から、
誰かが走ってくる足音がして――
風の音が、少しだけ変わった。
霜を踏む、かすかなざくりという音。
誰かが――走ってくる。
はっと顔を上げた女性の体が、
一瞬だけ、不安に揺れた。
でもすぐに、ふわっと空気があたたかくなる。
誰かの存在に気づいて、きっと安心したんだ。
次の瞬間――
「大丈夫かっ!?」
力強く、でもどこか優しい声が山の空気を揺らした。
モヤに包まれたその顔に、見えないはずの視線が――
確かに宿った気がした。
その声が、私の心の奥に眠っていた何かを、
優しく呼びかけるみたいに響いた。
(……なにか……思い出しそう……でも、まだ……)
胸の奥が、ふるっと小さく震えた。
まるで、遠い遠い記憶のなかで、
一度だけ――そっと、触れたことがあるような。
(……この人……)
ぼんやりと霞んだ空気の中で、
その男性の姿だけは、なぜかくっきりと見えた。
顔も、輪郭も、声も――
夢の中なのに、不思議なくらいはっきりとしていた。
白い吐息を浮かべながら、
まっすぐにこちらへ駆け寄ってくる、その人。
どこか、懐かしい――
でも、今の私には、まだうまく言葉にならない。
まだ断定はできない。
それでも、“あの人だ”と、胸の奥が強く訴えていた。
(……だいじょうぶ。ちゃんと、覚えてるから)
そう、心の中で静かに呟いて――
私はただ、その背中を見つめ続けた。
彼は、女性のそばに駆け寄ると、
何も言葉を交わさず、迷いのない動きでそのまま
子犬の元へしゃがみこんだ。
やさしく、小さな身体を抱きかかえ、そっと支える。
「……もう、寒い中でがんばらなくていい。
ふたりとも、ちゃんと助けるからな。」
彼の言葉が届いたその瞬間、
女性のまわりに、ふわっとあたたかい空気が広がった。
それに包まれるように、胸に抱いた子猫へ
やさしく頬を寄せた。
守るように、あたためるように――
小さな子犬と子猫を抱きしめたふたりの姿が、
そっと並んだとき――
それはまるで、どこか懐かしくて
“あたたかい家族”のようだった。
(……よかった……)
私の心に、自然とそんな安堵の息をついた。
二匹とも、ちゃんと見つけてもらえた。
もう、ひとりぼっちじゃない。
光がやさしく射し込むなか、
木々は祝福するようにそよいでいた。
その光景は、世界全体をほんの少しだけ、
やわらかく、あたたかく染めていた。
そういえば――
あの女性の隣に静かに寄り添っていた男性。
その姿に、私はなぜか、強い“懐かしさ”を覚えた。
声も、顔も、ちゃんと見えている。
聞き覚えのある、あたたかい声。
そして、どこか遠い記憶に触れるような、あの横顔。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
(……おじいちゃん……?)
そう思った瞬間、
隣に立つあの女性が目に入った。
その人の姿を見たとたん、ふいに心がざわつく。
だんだんと鼓動が速くなって、何か…
とても大切なことを思い出しかけて――
(えっ……じゃあ、この女性は――)
……そこで、すべてがふわりとほどけていった。
世界が、静かに滲んでいく。
光も、ぬくもりも、言葉も――
まるで、朝靄に溶けるみたいに、
少しずつ、そっと消えていった。
目覚める寸前、
なにかを思い出そうとしていたことさえ、
霧のように意識の奥で、ほどけていった。
残ったのは、あたたかい風の感触だけ。




