『白と黒の贈り物』2
フードコートを目指して、にぎやかな人波をかき分けながら歩いていたその時。
ふと、視界の隅に、カラフルな掲示ブースが目に入った。
「……あれ?」
ポスターがずらりと並ぶ特設スペース。
“里親募集中”の大きな文字と、
可愛く描かれた犬と猫たちの写真。
「あっ、もしかして……ここ、ときわ動物愛護センターの?」
懐かしい名前に足を止めたその瞬間。
「……犬神さん、こんにちは」
優しい声に振り返ると、そこにいたのは――
前にセンターで出会った、ときわ動物愛護センターの宮下副主任さん。
そして、その隣にはスタッフでもあった、あの白髪のおばあさんが立っていた。
穏やかな笑顔と、やさしく澄んだ目は、あのときと同じだった。
「あっ……! お久しぶりですっ!」
わたしは慌てて頭を下げる。
「こんなに人が多いと、ちょっと大変ですね。
今日は母と一緒に、里親募集の掲示活動なんですよ」
宮下さんが紹介するのを聞きながら、
私はもう一度、おばあさんを見つめた。
「あっ、宮下さんのお母様だったんですねっ!
……なんだか、すごく雰囲気が似てます」
「まあ……そう言ってもらえると、なんだか照れるわ。
でも……ふふっ、あなたを見ていると、なぜだか懐かしい気持ちになるのよ。」
宮下さんのお母さんは、やわらかく微笑みながら、
どこか遠い記憶をたぐるように、そっと視線を空へと向けた。
その笑顔を見た瞬間、私の中で、あの時の…
ときわ動物愛護センターでの、宮下副主任とお母さんとの温かな会話の記憶が、
ぼんやりとよみがえりはじめる――
(…………。)
胸の奥が、何かを叫びたがっているのに、言葉が出てこない。
そのあとに続くはずの何かが、喉の奥に引っかかったまま、言葉にならなかった。
まるで、思い出そうとしても形にならない夢みたいに――
なにか、大事な気持ちを、置き忘れてきたような……そんな感覚。
(今なら、もっとちゃんと動物たちと向き合える気がする。
あのときより、きっと――)
「すみません、私……友達と待ち合わせがあって……」
私は軽く微笑みながら、ぺこっと軽く会釈をして別れを告げた。
「今日は本当にありがとうございましたっ。
また、ぜひ動物愛護センターの方にも見学に行かせてください!」
「ふふっ……お会いできてうれしかったわ。
動物たちも、また犬神さんに会えるのを楽しみにしていますよ」
宮下さんのお母さんは、どこか懐かしそうな目でわたしを見つめながら、
ゆっくりとほほえんだ。
宮下副主任さんも「いつでもお待ちしてますね」と、穏やかな声で応えてくれた。
「はいっ!また伺いますっ!」
そう言って、私はもう一度小さく会釈をしてから、
くるりと向きを変えて歩き出す。
だけど背中のあたりが、
ほんの少しだけ名残惜しさでくすぐったいような気がして――
(……また、あの場所に行きたいな)
そう、心の中でそっとつぶやいた。
……と、そのとき、スマホがふるっと小さく震えた。
隆之からの通知だった。
(……うん、もうすぐ行くから)
***
フードコートの一角で、俺は飲みかけの麦茶を片手に、スマホを確認していた。
チハルからの「向かってる」というメッセージが届いたのは、少し前のこと。
(……迷子は、想定内か)
待っていると、少し騒がしい声が近づいてきた。
「ごめんごめん〜〜!やっと合流できたよ〜〜っ!」
いつものテンション。けれどその顔は、少し安心したような、少しだけ照れくさそうな笑顔だった。
「……おかえり、チハル」
「うん、ただいまっ!って、えへへ……迷っちゃってさ……」
俺は特に突っ込まずに、「まぁ、無事ならいい」とだけ言った。
その方がたぶん、あいつには響くと思ったから。
「さて、全員そろったわね。それじゃ、次は本題よ!」
亜沙美が立ち上がりながら、パッと声を弾ませる。
「本題……って?」
「水着売り場よ。この日のために来たんでしょ?
ディオンのオープンセール、逃す手はないってば!」
「……ああ、そうだったな」
俺はグラスを片付けて、椅子から立ち上がる。
「俺、荷物持ち要員だったっけ?」
「えへへっ、そうなっちゃうけど……ありがと、隆之。
ほんと、頼りにしてるから♪」
「ま、いいけど。楽しんでこいよ」
すると亜沙美が、ちょっと遠慮がちに続けた。
「あのね、ちょっとだけ私たちで見てくるから……
隆之は、レディースエリアのすぐそばにある待合スペースで待っててもらってもいい?」
「わかった。あそこな?」
「うん、すぐそこ。ほら、あっちのベンチのとこ。
長くかからないから、ちょっとだけ待っててね」
「了解」
俺はちらりと指さされた方向を見て、黙って歩き出す。
(……まあ、別に嫌じゃない)
チハルやみんなが楽しそうにしてるなら、それでいい。
……のだが、人混みのせいで通路が入り組んでいて、
目的の待合スペースがどこか、一瞬わからなくなっていた。
(……たぶん、こっちで合ってるはずだ)
少し人の流れを避けながら、静かに歩き出す。
周囲のざわめきが、ふっと遠ざかって――
不意に、自分ひとりだけが切り離されたような感覚に包まれる。
(……急に、静かになったな)
いつもなら、すぐそばでチハルたちが何か話してる声が聞こえてくるのに。
今は、どこにもその気配がない。
(チハル、あいつ……さっきまであんなに騒いでたのに)
思い出すのは、さっきの再会。
両手をブンブン振って駆けてきたかと思えば、満面の笑顔で「ただいま〜っ!」って。
……まったく、ああいうの、何気に破壊力ある。
(……ほんと、変わったよな)
ちょっと前まで、もう少し子どもっぽかった。
それが最近じゃ、しっかり考えて行動してることもある。
なのに、たまに抜けてるところもあって……
そういうとこ、見てるとつい気になる。
(なんで、そんなに気になるんだろうな……)
少し立ち止まってあたりを見渡すと、
人混みの先、数歩前を歩いていたチハルがふいに立ち止まり――
くるっと振り返って、俺の方を見た。
「ねぇ、隆之。今日ってさ、ほんとは亜沙美に頼まれて来たんでしょ?」
そう言って、笑いながらぴょこっと後ろに下がってきて、
俺の横に並ぶ。
「……ま、言われたのは事実だな」
「でしょー?今日は荷物持ち、ありがとね」
「……別に。持てるもんは持つし」
そう答えながらも、視線の先を追っていたら――
気づかないうちに、本音がこぼれていた。
「……でも、亜沙美の頼みがなくても、たぶん来てた」
「え?」
隣で足を止めかけたチハルが、不思議そうな顔で俺を見る。
「ディオンの構造にも興味あったし、
科学部で使えそうな機材とか、専門ショップも見てみたかった。
……それに、最近話題だったし、まぁ行っとくかって思ってた」
「えー、隆之でも『行っとくか』とかあるんだ?」
「……普通にあるけど」
「なんかちょっと、可愛いんだけど、それ」
「やめろ。恥ずかしいから」
チハルがくすくす笑いながら前を向く。
その横顔を見ながら、俺はほんの一瞬だけ迷った。
でも、結局――言ってしまった。
「……それと、チハルがまた迷わないように、な」
その一言に、チハルがびくっと反応して、
パッとこっちを見上げてきた。
「えーっ、子ども扱いしてる?」
「事実だろ?」
「ぐぬぬぬぬ……」
拗ねたように唇を尖らせるチハルを横目に、
俺はわざと無言で歩き出した。
(……ほんと、犬みたいなやつだな)
でも――そういうとこ、
なんか目が離せないんだよな。
けれど、隣でチハルが笑った。
「そっか……。でも、なんか嬉しい」
「……なんで」
「だってさ、隆之って、ちょっとクールすぎるけど、
ちゃんとみんなのこと見てくれてるんだなって思って」
「……“みんな”って言ったけどさ、
なんか――お前が楽しそうにしてたから、つい来ちまったんだと思う」
「えっ? ……へへっ、じゃあ今日は大正解だねっ!」
あっけらかんと笑う声。
ちょっと跳ねた髪。無防備な距離感。
(……やっぱ、俺、こいつのこと――)
視線を前に戻すと、俺はふと足を止めた。
──視界の両脇に、水着を着たマネキンがずらりと並んでいる。
……って。
(やば、完全にレディース水着売り場だ、ここ)
やっちまった。
冷静なふりしてたけど、完全にルートミス。
しかも、隣には――
俺が振り向いたのと、ほぼ同時にチハルも顔を上げて、目が合った。
「……まさか、お前も気づいてなかったのかよ」
「う、うん……普通に話して歩いてたら、いつのまにかここで……
えっ!? えっ!? ここ女子コーナー!?!?!?」
「ちょ、ちょっと待って……ふたりでここ突入してたってこと!?」
「やばい、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけどっ!?!?」
「俺だって……! これは完全に事故だからな……!!」
ふたりでパッと顔をそらす。
言葉にならない焦りが、しばらくその場に漂っていた。
顔を真っ赤にして口パクパクさせるチハルを横目に、
俺は冷静を装って肩をすくめる。
「……俺が間違えた」
「でもお前も、犬みたいに黙ってついてくるからだろ」
「なっ、なにそれっ! 子犬扱い!?!?」
「……目が、こう……まっすぐこっち見てきて。
なんか、“構ってほしそう”な感じ?」
「“構ってほしい目”って……っ、ち、ちがっ、そ、そんなつもりじゃ――~~~~~っっっっ!!!(真っ赤)」
そのリアクションがあまりにも分かりやすくて――
思わず、口元がゆるむ。
「ふっ……」
小さく息がもれたのを、本人は気づいていないだろうけど、
横でチハルは「もう〜〜〜っ!!」とぷいっと顔を背けた。
その耳まで、見事に真っ赤になっていて――
なんだかちょっと、本当の子犬みたいだった。
そのとき――
「ちー先輩~?越智先輩~? ふたりしてどこ行ってるんですか~っ?」
「ええぇぇぇぇっ!?!?!?」
「やっ、やだやだやだ! 美咲にバレたぁあああ!!」
「……戻るぞ」
「う、うんっ!! 早くっ、早く戻って~~っ!!」
俺は歩き出したチハルの手を軽く引いた。
ふと手が触れた瞬間――びくっと肩が跳ねるのがわかった。
「な、なに? 急に手……!」
「人混みだ。はぐれるなよ」
「……っ」
さっきまで真っ赤だったチハルの声が、小さくなった。
でも、手は、振り払われなかった。
(……あいつ、顔真っ赤すぎだろ)
俺の顔も、たぶん、同じくらい熱くなってた。
だけど、この手のぬくもりは――
しばらく、握っていてもいいかもしれないと思った。




