『白と黒の贈り物』1
前回までのあらすじ(第7話)〜語り手:犬神愛衣より〜
――七月。夏のにおいがゆっくりと広がる、日向町の空の下で――
犬神千陽ちゃんは、家族や仲間たちと、
穏やかであたたかな時間を過ごしていました。
収穫体験の土の感触。家族で囲んだランチのにぎやかさ。
そして、神社に揺れる七夕の短冊――
そのどれもが、ちいさな“絆”のかけらとして、
チハルちゃんの胸の奥に、そっと積み重なっていきます。
しっぽも、ふる……ふる……って揺れるような、幸せの連続でした。
そして――八月に入ったばかりのある日、
クラスメイトの亜沙美ちゃんに誘われて、
チハルちゃんたちは、常盤町にオープンしたばかりの
ショッピングモール「ディオン」へ出かけることに。
それは、もうすぐ始まる“臨海学習”と“夏合宿”の準備をかねた、
ちょっぴり特別なお出かけ。
制服じゃなくて、私服で歩く街。すこし背伸びした買い物。
小さなときめきと笑顔が、ふわっと咲いた日でした。
少女たちの夏は――まだ始まったばかり。
でも確かに、次のページが、そっと開かれようとしているのです。
朝の陽射しがやわらかく差し込む。
常盤町へ向かう電車の中で、ヒカリは静かに目を閉じていた。
意識がゆっくりと沈み――
その先には、霧に包まれた静謐な世界が広がっていた。
はるか遠い昔。
神域の社の前に、ふたりの巫女の少女が立っていた。
顔立ちのよく似た双子――白と黒、それぞれの装束を纏い、対をなすように並んでいる。
「……やはり、犬神様の加護は、すべての地には届かぬのですね」
白の装束の少女が、静かに空を仰ぎながらつぶやいた。
その声音は穏やかで、けれども芯の強さを宿していた。
「そらそうよ。あの方ぁて、なんでもかんでも出来るわけやないんやけん。
せいぜい守れるんは、この“日向の里”だけじゃ」
黒の装束の少女が、ぶっきらぼうに返す。
その言葉の端に、かすかな寂しさが滲んでいた。
「それでも、この町が救われるのなら……
わたくしは、この命……惜しゅうはありませぬ」
白の巫女は、ふわりと微笑んだ。
「また、それやけん……
アンタって子は、ほんま昔っから変わらんのよ。
自分のことなんて、まったく考えんのやけん」
「あなたが共に居てくださること、
それだけで、心強うございます」
「……かなんなぁ、ほんまに……」
黒の巫女がそっぽを向いたまま、かすかに呟く。
白の巫女は、そっと目を細めて言った。
「ありがとう、ツキノ。
……あなたと共に在れたこと、心より……嬉しゅうございます」
「……もう。最後の最後まで、それ言うんやね……」
その声が、風にさらわれた。
ふたりの姿が、ゆっくりと光に包まれていく。
――「次は〜常盤町、常盤町〜」
ヒカリは、電車の中で目を覚ました。
視界に映るのは、変わらぬ現実の風景。
「……夢、だったのかしら」
つぶやいた声は、窓ガラスに反射して、すぐに消えていった。
けれど、胸の奥には、まだぬくもりのような感触が残っている。
(……ふたりとも、あの頃と、なにも変わっていない)
不器用で、まっすぐで――
でも、それがふたりの、いちばん強いところ
ほんとうは、なにかを残しておきたかった
“もしも”のときのために。迷いそうになったときに、そっと思い出せるような――
そんな小さな道しるべを
でも、きっと――
ふたりには、もう届いているのよね。
たとえ気づかなくても、
それは、もう心に結ばれているから。
ヒカリはそっと目を閉じた。
胸の奥に、ずっと結び続けてきた祈りがある。
それがほどけてしまう前に、もう少しだけ――
願わくば、あとすこしだけ、そのそばにいられますように。
電車はまもなく、常盤町駅に到着する。
静かな運命の扉が、音もなく、ゆっくりと開かれようとしていた。
***
常盤町に、ついにオープンした大型ショッピングモール「ディオン」。
七月末に開店したばかりということもあって、
週末の館内は、まるでちょっとしたお祭りみたいな人だかりだった。
想像してたより、ずっと広くて、ずっとにぎやかで――
私は立ち止まったまま、思わず足元を見つめた。
「……うそ、迷ったかも」
さっきまで、みんなと一緒にショッピングモールの案内板見てたはずなのに……
気がついたら、人の波に流されて、いつの間にか一人にっ!
わふっ!? あああああ、だめだめだめっ、チハル冷静にっ……!
落ち着け、落ち着け……!犬は群れからはぐれてもパニックにならない!って動画で言ってたっ!
「わわっ……しっぽが、しっぽがっ……っ!ないけどっ……っ!」
耳がピンッとなる感覚、しっぽが丸まる気分――
完全に、犬化丸出しのパニック状態。
「くぅ〜ん……」
あっ…。自分でも驚くような、鼻にかかった小さな声が漏れた。
犬っぽい……というか、完全に犬の鳴き声じゃない!?
(わ、わたし今……鳴いた? 犬っぽく鳴いちゃった!?!?)
私は今――犬じゃない!!!健康オタクなだけの!ごくごく普通の!高校生ですっ!!!
……そうだ、シロ!
あの中二病混じりな白モフモフが、何かヒントをくれるかもしれない!
《ねぇシロ……っ!ちょっと今、すごくピンチっぽいんだけど!!》
すると、ふわっとあの声が脳内に響いた。
『ふっ、犬神千陽よ。“封印の加護”を得し者にして、なおこの程度の人波に惑わされるとは――まこと嘆かわしきこと……!』
(ちょ、待って!?言い方キツくない!?これ、ただの迷子事件なんですけど!?)
『されど心配するな。我は“森羅万象を見通す眼”を持つ犬神――
いまこそ封印解放第二段階――“感覚強化:嗅覚”を行使せよ!!』
(……ってつまり、鼻使えってことよね!?!?
詠唱いらないから!ほんとに、今いらないから!!)
まったくもうっ……って思いながらも、
心のどこかで「ふふっ」って笑っちゃう自分がいた。
シロの中二病ボイス、ほんとにクセ強いけど、
こんな状況でもブレないあたり、ある意味すごい。
……いや、感心してる場合じゃないし!よしっ!
私はピシッと背筋を伸ばして、胸の前でこぶしをきゅっと握る。
(犬神の継承者・千陽、鼻に全集中ッ!!)
――なにそれ、自分で言っててちょっと恥ずかしいんだけど!!
でも、ちょっとだけ気合い入った気がした。
今こそ、その力を――使う時っ!!!
「すぅぅー……すぅーーっ……」
鼻に全集中。わたしは犬神の継承者!鼻が……鼻が頼りなんだから……!
(……あ、甘い……この匂いは……クレープ?)
くん……くんくん……
(……って、香水!? 強っっ……!)
(なにこれ、焼き芋!? いや焼き肉!? え、石鹸系!?)
嗅覚に飛び込んでくる、あまりにも多すぎる情報の嵐。
甘いの、しょっぱいの、香水、シャンプー、柔軟剤……パンに、タコ焼きに、なんか謎のスパイスまで……!
……わ、わぁっ……!? く、くるっ……かも……っ!
鼻の奥がムズムズしてきて、くしゅくしゅ動き出す。
ちょっと待って、なんかもう……限界近いかも……!
「く、クシュンっ……!」
あっ、クシャミ出ちゃった……
だって……だって……!
わたしの鼻、“人間用”じゃないんだもん〜〜〜っ!!
犬神の力ってすごいけど……
すごすぎると、逆に大変だよ!?!?!?
「む、無理だよぉ……こんなの分かんないよぉ……」
鼻の奥がムズムズして、涙目になる。
情報が多すぎて、まるで鼻の中が交通渋滞状態。
嗅覚、大混乱。
チハル、犬っぽくて、完全にしっぽ巻いてる状態だった。
(……そ、そうだ。現代には もっとすごいアイテムがあったじゃん!)
私は慌ててスマホを取り出して、
グループチャットにメッセージを打ち込む。
《チハル:ちょっと……迷子です……(泣)》
《隆之:落ち着け。フードコートで待ってる》
《亜沙美:チハル……本当に大丈夫!?無理せず、フードコートに来れる?私たち、そっちに向かってもいいけど……!》
《美咲:ちー先輩……泣いてないですか?心細くないですか??フードコートで会いましょうねっ!》
うぅ……やっぱり、みんなやさしい……。
隆之は変わらないなぁ。亜沙美、めちゃくちゃ心配してくれてるし……
美咲ちゃん……想像以上にしんみりしてるし……!
私は、ちょっとだけ笑って――スマホの画面に、そっと文字を打ち込んだ。
《チハル:……うん、大丈夫。フードコート、行くから》
これでよしっ。……みんなに、これ以上迷惑かけたくないもん……
少し深呼吸してから、私は前を向いた。
フードコートへ向かって、静かに歩き出す。




