『夏空に煌めく祈り』10
「……じゃあ、行こっか」
犬神さんの声にうなずいて、私たちはカフェをあとにした。
常盤町の街並みは、昔から知っている風景だった。
ゆるやかな坂と並木道――歩き慣れた道のはずなのに、
今日はどこか、少しだけ違って見えた。
通り抜ける風に混じってくる、夏の草木と遠くの潮の香り。
それは子どもの頃から馴染み深いはずの匂いなのに、
まるで初めて感じるような、不思議な感覚があった。
(……変わらないはずの風景が、変わって見えるのは――
たぶん、隣を歩く人が違うから、なのかも)
並んで歩く彼女の姿を、横目でそっと見やった。
その背中が、不思議と遠くの記憶と重なって――
胸の奥に、静かに波紋が広がっていく気がした。
途中、彼女が「こっちの道、近道なんだよ」と言って笑った。
彼女の歩幅は小さくて、それでもしっかり前を向いていて。
私はその背中を、ほんの少しだけ後ろから見守るように歩いた。
(……不思議)
自分から「一緒に行きたい」と言ったのに、
この足取りの軽さが、自分でも意外に思えるほどだった。
どこかで会ったことがあるような名前。
見たことのないはずの、誰かの面影。
そんな曖昧な感覚だけが、胸の奥で小さく灯っている。
やがて、街の角をひとつ曲がった先に――
白い外壁の、静かな病院が見えてきた。
私はそっと息を吸い込んで、気づかれないようにゆっくり吐き出した。
この先に、何が待っているのかはわからない。
でも、今の私は……この先へ、踏み出してみたいと思っていた。
そして。
病室のドアが、静かに開いた。
まるで、そこに流れる空気が異なる世界かのように、室内の空気はひんやりと澄んでいた。
(……こんなに静かな場所が、あるんだ)
私と犬神さんの足音が、床にほんの少しだけ、優しく響いた。
ベッドの上には、眠る少女――
光希、と犬神さんが言っていた子が、安らかな呼吸を繰り返していた。
何本かのコードとモニターの電子音が、彼女が今もここに“生きている”ことを、淡々と伝えている。
犬神さんは、病室に入るとすぐに、迷わず彼女のそばへ向かった。
「……みっちゃん、来たよ」
その言葉には、強さと優しさが混じっていて。
どこか、懐かしい音色をしていた。
私はその背中を見つめながら、ベッドのそば――
小さなナイトテーブルの上に、薄紫のカスミソウが入った、小さな花瓶。
その隣には、赤い布地の小さなお守りが丁寧に飾られていた。
(……これは……)
目が、吸い寄せられた。
まるで、ずっと前にどこかで見たような――
あるいは、手のひらに包み込んだことがあるような、不思議な感触。
胸の奥が、かすかにざわめいた。
「中学生のときにね……」
犬神さんが、お守りをそっと整えながら言った。
「光希が倒れたとき、私、どうしていいかわからなくて……。
でもね、なにかしたくて、せめて、これだけでもって……渡したの」
その横顔には、今も変わらない想いが宿っていた。
だからこそ、きっと、彼女はこうして今もここにいる。
私はベッドのそばまで歩み寄り、光希の眠る顔をそっと見つめた。
やわらかい髪、すっと整ったまつ毛、そして……小さな手。
「……あなたが、光希」
言葉が自然と漏れたのが、自分でも不思議だった。
(本当は、知らないはずなのに)
でも、どうしてだろう。
その名前を口にした瞬間、心が少しだけ、疼いた。
それは、痛みというより……
まるで、忘れていた大切な約束が、そっと目を覚ましかけたような感覚だった。
「ヒカリ……?」
犬神さんが、私を見つめていた。
「……ごめん、ちょっと、言葉にうまくできなかっただけよ」
私はかすかに笑って、目を伏せた。
それでも――
この胸のざわめきが、ただの気のせいではないことだけは、確かだった。
ヒカリは、ゆっくりと小さなナイトテーブルに手を伸ばし、
そっと、お守りに指先を添える。
――やさしい布の手ざわり。
長い時間をかけて、そこに“想い”がしみこんでいったことが、
なぜか分かってしまうような、そんなぬくもりだった。
その瞬間――
(うん。いいよ。私もちーちゃんって呼ぶね!)
(ちーちゃん、お寿司なにが好き?)
(これで、いつでもユキと一緒にいる気分だね♪)
(ちーちゃんのテニスの試合、応援しに行くからね!)
――いつかさ……星の綺麗な場所に、一緒に見に行こうね。
……頭の中に、降り注ぐように流れ込んでくる声。
それは、私の声ではなく。けれど確かに“私の中”にある、誰かの大切な記憶。
思い出したくても、思い出せないはずの記憶が、
今この場所で、まるで走馬灯のように駆け巡っていく。
あれ……。
私は、気づいたときには……大粒の涙をこぼしていた。
ぽと、という雫が、お守りの上に落ちる。
(……どうして……)
(どうして……こんなにも、懐かしくて、切なくなるの……?)
「ひ、ヒカリ……!?」
突然のことに、隣にいた犬神さんが小さく叫ぶように声を上げた。
「あ、あれっ!? えっ、泣いてる!? えっ、私なんか変なこと言った!? ……あっ、違う!? ごめんっ、なにかした!? あわわ……!」
慌てふためく彼女が、手をばたばたさせながら私の顔をのぞきこんでくる。
「だ、大丈夫!? ティッシュいる!? ハンカチ!? それとも水!? それとも――ハグ!?」
思わず、私は くすっと笑ってしまいそうになった。
だけどその笑いは、たぶん――
心が少しだけ、ほどけたから。
私は、そっと首を振って、微笑んだ。
「……大丈夫。ごめんね、驚かせて。少しだけ、何かを思い出した気がしたの」
「思い出した……?」
犬神さんが、きょとんとしながらも、そっと手を差し出してきた。
その手が、あたたかかった。
(……犬神さん)
(あなたが傍にいてくれて、よかった)
赤いお守りを、そっと握りしめた。
この胸のざわめきが、ただの気のせいではないことだけは、確かだった。
……きっと、また、何かが動き始めている。
(あなたのこと……知らないはずなのに。どうして、こんなにも懐かしいの?)
――そう問いかける声だけが、静かに、胸の奥で響いていた。




