『夏空に煌めく祈り』8
日向駅から乗った電車は、ゆっくりと線路の上を進んでいた。
車窓の外には、夏の畑や山や、見慣れた風景が流れていく。
犬神さんが、向かいの席でちょこんと座っている。
バッグをぎゅっと膝に抱えたまま、ちょっとだけ緊張した顔をしていた。
視線が合ったとき、彼女がにっこり笑ったので――
私も、つられて笑ってしまった。
……こんなふうに、並んで誰かと電車に乗るのは、いつぶりだろう。
考えてみても、思い出せない。
思い出そうとすると、胸の奥がちくりとするような……そんな、遠い感覚だけが残る。
ガタン、ゴトン――
揺れるたび、昔の誰かの背中を思い出しそうになる。
だけど、今は――
私の目の前にいるのは、犬神千陽。
真っ直ぐで、元気で、やさしい――今の私を、まっすぐに見てくれる子。
次の駅で降りたら、彼女とどんな時間を過ごすんだろう。
どんな顔を見るんだろう。
――なんだか、少しだけ、楽しみだ。
常盤駅に到着します――
車内アナウンスが流れたとき、私はふっと立ち上がった。
そのときだった。
誰かの気配が、ふっと胸の奥を撫でた。
『ヒカリよ……お前が選ぶ道が、犬神千陽の運命を決めるだろう。
だが、選ぶ手は……お前の中にしかない』
どこか遠く、けれど確かに響くその声は、
深く、静かで、威厳に満ちていた。
私は、心の中でそっと目を閉じる。
(……そうね。わかってるわ、シロ)
声はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、確かに“伝わった”感覚だけが、胸の奥に残っていた。
その余韻が、ゆっくりと、波紋のように心に広がっていく。
“すべてを失っても、守りたいものを選べるか”。
それは、まるで試されているような問いだった。
答えを持っていないまま、私はただ、小さく息をのんだ。
「ヒカリ、もう降りるよ~っ!」
駅のホームから犬神さんの声がして、私はハッとして顔を上げた。
まぶしい夏の光。
そして、変わらない声。
私はその光のほうへ、ゆっくりと歩き出した。
***
午前十時すぎの常盤町は、休日のせいか、いつもより人通りが少なかった。
空はよく晴れていて、蝉の声がしっかりと街並みに溶け込んでいる。
私たちが目指していたのは、商店街の奥――
小さな十字路を曲がった先にある、古びた雑貨屋だった。
「あっ、あった! あった!ここ、ここだよヒカリっ!」
犬神さんが一歩先を歩いていた。
看板の犬のロゴを見つけた瞬間、嬉しそうにくるりと振り向いて、手を振る。
その笑顔は、太陽みたいに明るくて――
見ていると、つい目を細めてしまう。
私はうなずいて、少し歩を早めた。
「ふふ、テンション高いわね」
「えっへへー。だってさ、ずっと一緒に来たかったんだもん、ここ!」
彼女の言葉に、心のどこかが ほんの少しだけ温かくなった。
「一緒に来たかった」――その一言だけで、
どれだけ自分が救われるのか、彼女は知らない。
古い引き戸を開けると、チリン、と鈴の音が鳴った。
懐かしいような、少しだけ香ばしいような空気が店内に漂っていて、
木の棚には手作りの小物や、地域限定のグッズが並んでいる。
「わ~~~! かわいいの、いっぱい!!」
犬神さんはもう、あっという間に棚の奥へ吸い込まれていた。
リードや首輪、陶器のわんこマグに、肉球模様のハンドタオル――
「見て見てヒカリ! この柴犬の箸置き、めっちゃかわいい! あとこれ見て、わんこ靴下!!」
……ふふ。ほんとに、元気ね。
私も店内をゆっくり歩きながら、犬神さんの はしゃぐ声を背中越しに聞いていた。
彼女が笑うたびに、心がすこしずつ解けていくような、そんな感覚があった。
……ふと、とあるグッズが目に入った瞬間、
心臓が、一度だけ、変なリズムで跳ねた。
どうしてかは、わからない。
でも、指先が少しだけ震えていた。
それに気づいて、自分でちょっと驚く。
(……なに、これ)
そのグッズを見つめる視界が、ふっと揺れた気がして、
すぐに目をそらした。
「ヒカリ? どうしたの?」
チハルが覗き込んでくる。
その瞳は心配そうで――けれど優しい。
「……ううん、なんでもない。ちょっと、懐かしい気がしただけ」
「そっか~。あっ、じゃあさ! このワンちゃんマグ、ペアで買わない?
あとで一緒に飲み物入れて飲もっ!」
チハルの提案に、私は思わず笑ってしまった。
「……いいわね。そういうの、ちょっと憧れてたかも」
(チハルって……なんでこんなに、まっすぐなの)
(こんなふうに笑ってくれる子と、今、隣を歩いてる)
その事実が、静かに、だけど確かに――
私の胸の奥を、ほんのりあたたかくしてくれた。




