『夏空に煌めく祈り』1
前回までのあらすじ(第6話)〜語り手:犬神愛衣より〜
――日向高校の旧校舎。そこは、時が止まったような空気が流れる、不思議な場所。
チハルちゃんは、天野ヒカリさんとともに、
“第二の封印の試練”へと足を踏み入れました。
その中で、彼女は確かに感じたのです。
自分の中に眠っていた“犬神の力”が――ほんの少しずつ、目を覚まし始めていることを。
そして、チハルちゃんが見たのは――
ヒカリちゃんと、もうひとり……大切な人の記憶が交差する、切なくもあたたかな光景。
それは幻……のはずだったのに、心のどこかに、ふわっと残る“現実の匂い”がありました。
しっぽが、ほんの少しだけ……ふるっ、と震えたのを覚えています。
試練を終えたあと、チハルちゃんの中には、
まだうまく言葉にできない、小さな変化が芽生えていました。
仲間たちにはまだ内緒だけど……
彼女はもう、“特別な何か”へと、確かに歩き出しているのです。
――けれど。
その心の奥にある本当の願いは、とてもとてもシンプルで……
神様の力なんて、きっといらない。
ただ、みんなと笑いあえる今日が、明日もちゃんと続いていてほしい――
……それだけなんです。
そう思ったとき、しっぽがそっと、あたたかく揺れました。
じりじり……ミーン、ミーン……ミンミンミン……
蝉の声って、こんなに元気だったっけ……?
朝の空気は まだひんやりしているのに、ミンミンと全力で鳴き続けるその声に、
「ああ、夏が本気出してきたなぁ……」って思う。
私はというと、二階の自分の部屋で、ベッドの上にだらーんと寝そべっていた。
「う〜〜、ちょっと蒸し暑くなってきたかも……。朝なのに……じんわり汗かいてきた。
……扇風機の風だけが、命の恩人だよ〜。このままだと溶けちゃう……」
天井をぼんやり見つめながら、近くに置いた扇風機が、頬に風を送ってくるのを感じる。
ゲンキは相変わらず、床の上で“ぐで〜”っと気持ちよさそうにしていた。
私は少しだけ体を起こして、ベッドの上からそっと声をかけてみた。
「ねえ、ゲンキ。今日も暑いね」
ゲンキは返事をするでもなく、まぶたをゆっくり開けて、また閉じた。
「……私の言葉、ちゃんと伝わってるのかな?」
思わずつぶやいた声は、風にまぎれて扇風機の音に消えた。
「……もし、おしゃべりできたらさ。 ゲンキは、私のこと……どう思ってるのかな」
ちょっとだけ照れくさくなって、私は枕に顔をうずめる。ゲンキは変わらず、静かに ぐで〜っとしていた。でも――なんだか、気のせいじゃなく、ほんの少しだけしっぽが揺れた気がした。
……そのときだった。
一階のキッチンで、冷蔵庫の扉が開いた“気配”がした。音は聞こえなかったのに、ふわっと――甘い匂いだけが、私の鼻先をくすぐった。
「……プリン? しかも、昨日のやつだ……」
自分でもちょっと驚くくらい、確信めいていた。
もしかして、私……鼻が良くなってるのかも?
最近、前よりずっと、いろんな匂いがはっきりする気がする。風の中の香りも、人の服に残る匂いも……“わかる”というより、“届く”感じ。
シロにそれとなく聞いてみたら、『犬神の力が目覚めてきている証だ』って、あのいつもの無表情でサラッと答えられた。
「ふーん……すごいのかもしれないけど……」
私はベッドの上で一回転して、枕に顔をうずめる。
「私、そんなすごい鼻より……ゲンキとおしゃべりできる力のほうが欲しかったな〜……」
ゲンキは、私の足元で身体を長〜く伸ばしていた。ぺたりと床に溶け込むように寝そべって、時折しっぽがゆらりと動く。
まるで「今日はもう一歩も動きません」って言ってるみたいで、ちょっと笑ってしまう。
私はその背中を見つめながら、ふと、あの旧校舎での出来事を思い出す。
封印の揺れ。ヒカリと見た、記憶の断片。日向町に迫る“何か”が、確かに近づいているという感覚――
わかってる。全部、ちゃんと、わかってるつもり。
でも……だからこそ。
「今は、ちゃんと今日を生きたい。 この、何気ない朝を、大事にしたいって……思ってる」
そう、のんびり、穏やかに――
そんなふうにして、私の新しい一日が始まる――はずだった。
「千陽〜、ちょっとお願いがあるんだけど〜!」
……うん、現実はいつも唐突だ。
階下からママの声が聞こえた。
私は、のそのそと体を起こしながら、扇風機の風に背中をあずける。
「なに〜?」
「さっき、新居田さんから連絡があったの。
“今朝はトマトがたくさん採れそうだから、よかったら収穫体験してみるかい?”って」
「えっ、ほんとに!?」
思わず声が高くなった。新居田さんの畑でトマトの収穫体験なんて、聞いただけでテンション爆上がりだ。
「それでね、せっかくだから さとしも一緒にどう?って言ってくれてたの。
あの子、ちょうど自由研究どうしようって悩んでたでしょ?」
「うんっ!」と、廊下から現れたのは私の弟、さとし。
寝癖ボサボサ、パジャマ姿のままで元気だけは120%出ていた。
「ねえねえ、学校の先生が、“夏の自由研究、何にするか考えておきなさい”って言ってたからさ!ぼく、畑のことにしようかな〜って思ってたんだ!」
「……なるほどね。じゃあ今日は、“犬神きょうだいの
農業初挑戦”ってことで決まりだねっ!」
――と、そこへ、キッチンからママの声が飛んできた。
「千陽、それと もうひとつお願いがあるの。
これ、新居田さんに渡しておいてくれない?」
ママが差し出してきたのは、ふんわり包まれた小さなお菓子の詰め合わせ。
かわいい包装の中には、ママの手作りクッキーと、ちょっとした焼き菓子が詰まっていた。
「いつもお野菜いただいてるから、お礼にね。
“いつもありがとう”って伝えてくれたら嬉しいわ」
「うんっ、わかった! チハル便、責任を持ってお届けしまーす♪」
しっかりと受け取って、私はリュックにそっと詰める。
なんかもう、今日は朝から“使命感”が止まらないっ!




