『封(と)じられし視線の記憶』8
その幻影の彼女は、ゆっくりとこっちを振り向いて、微笑んだ。
まるで「ここでずっと待ってたよ」って言ってるみたいに、優しく――静かに。
私、駆け寄りたかった。思いっきり走って、ぎゅって抱きしめたかったのに――
なのに……足が動かない。
なんで? 身体が重くて、心がざわざわして、胸がきゅーって締めつけられる。
そのとき――
光希の足元に、じわじわと広がる黒い靄が見えた。
最初は薄い影だったのに、どんどん濃くなっていって……彼女の体を、静かに、ゆっくり包みこんでいく。
「や、やめて……っ! みっちゃんを……連れていかないで……!」
私、思わず叫んじゃった。でも……届かない。
光希は、何も言わずに、こっちに手を伸ばしてた。
その手が届きそうで、届かなくて――
私の前足が、その光をすり抜ける。
「どうして……!」
焦りと悔しさで、胸がぐるぐるして、熱くてたまらなかった。
そのとき、隣からヒカリの声がふわっと響いた。
「これは……“試練の核”よ。」
「試練……?」
「ええ。今までの記憶や感情を通して、核心に触れた時に現れる……もっとも深い領域。」
ヒカリの声が、少しだけ硬くなってる。
それが……なんだか、怖かった。
光希の姿は、もうほとんど黒い霧に覆われちゃって、見えなくなってた。
そして――
その霧の中から、聞こえてきた。
「グルルル……ッ……ガァァアアアァッ……!」
地を這うような、ゾクゾクするような、獣のうなり声。
空気が震えた。
「っ……今の、なに?」
私はとっさに身構える。
月が隠れて、星の光がぼやけて――
そこに……見えた。
影の奥から、異形の存在が姿を現した。
漆黒の毛並みに覆われたその体は、異様に膨れ上がり、目は血のように深紅に染まっていた。
口元から覗く牙は鋭く、剥き出しのままこちらを威嚇するように光を反射している。
四つ足で地を這うようにして近づいてくるが、その動きにはどこか不自然な歪みがあった。
獣としての本能や生気とは異なる、禍々しく重たい“呪い”そのものが形を成して動いている――
そうとしか思えない、不気味で圧迫感のある存在だった。
異形の気配に息をのんだ、そのときだった。
犬神の首輪がふっと熱を帯びて、
次の瞬間、シロの声が――心の中に、静かに、でも深く響いてきた。
『かつて我と同じく、森羅の加護を受けし神狼の一柱……だが、
己が力に溺れ、欲望と呪詛に心を染めた末、闇に堕ちた哀しき同胞よ。』
『今やその姿は、もはや理など通じぬ。
——獣の皮を纏った呪いそのもの。』
『……されど、避けては通れぬぞ。汝が進むべき道を閉ざす存在ならば、打ち破るほかあるまい。』
『ゆけ、犬神千陽。
そしてその瞳に刻め——
かの名を。“黒の影狼”と。』
「っ……!」
その姿を見た瞬間、背筋がゾゾゾってして、毛が逆立ちそうだった。
さっきまでの静けさが、全部ウソみたい。
影狼の咆哮が、満天の星空の下に響き渡る。
「犬神さん……来るわよ。」
ヒカリが、私の前にスッと出る。
その目がすっごく強くて、でもどこか優しくて――
私は、足元を見る。
――前足。
うん、そうだよ。今の私は柴犬姿!
でも、この姿こそ、犬神千陽の“力”がちゃんと宿ってる証拠なんだ。
「ヒカリ……わたし、絶対に……守るから。」
ぎゅって胸に力をこめて、小さく、でもはっきり言った。
そして、二人で一緒に――“試練の本番”へ!
私はヒカリと並んで、構える。
目の前には、黒い霧をまとった巨大な影狼!
「突っ込むよ、ヒカリ!」
「ええ。油断しないで。」
二人で、タイミングを合わせて、シュバッと左右から跳びかかる!
私はガブッといくつもりで、影狼の脇腹を狙った。
けど――
「……えっ!?」
手ごたえが……ない!?
当たったはずなのに、ふわっと霧みたいに抜けちゃった!?
「何これ!? 全然効いてない……!」
ヒカリの攻撃も、すり抜けてる!
まるで“実体”がない……!?
「くっ……!」
そのスキを狙われた――!
「うわっ!」
私は吹っ飛ばされて、地面にゴロン! 背中打って、息が……詰まる……!
「犬神さん、大丈夫!?」
ヒカリがすぐに駆け寄ってくる。
「ッ……この霧……ただの霧じゃない!」
「影霧の帳ね。」
『その通りだ。』
――聞き慣れた声が、胸の奥にすっと染み込んでくる。
『“影霧の帳”……それは、強き心の闇が生み出した結界。 いかなる物理的な力も、それを貫くことはできぬ。』
「シロ……!」
『だが、貴様にはある。 その霧を切り裂く、“月の咆哮”が――』
「月の……?」
私は立ち上がりながら、そっと犬神の首輪に触れる。
あたたかい ぬくもりが、ちゃんとそこにあった。
でも、どうやって使うの……?
「犬神さん、下がって!」
ヒカリの声が鋭く響く!
次の瞬間――影狼の爪が、ヒカリに振り下ろされる!
「ヒカリ!!」
私は叫んだ。
(だめ……間に合わない……!)
そのとき――
胸の奥に、ふわっと浮かんだ記憶。
光希が、笑ってた。
泣いてた。
「夢をあきらめたくない」って、言ってくれた。
――光希。
――ヒカリ。
二人とも、私にとって、大切な存在。
失いたくないんだ。
「わたし……守るって、決めたんだぁ……っ!!」
その想いが、全身を走り抜けた。
『それだ、犬神千陽……!』
首輪が、月の光を集めるようにキラキラと輝きはじめた!
「アオオオオオォォォォン!!!!」
私は夜空に向かって――魂の咆哮を放つ!!
その声は空を裂いて、影を砕いた。
夜空に、光が走る。
それは、魂ごと響くような――
ルナティックハウル。
“月夜の咆哮”が、封印された空間全体に響き渡った!




