序 クレハ 〜 トリスタン
あたしは3日の休みをもらった。でもボーっとしてるのは性に合わない。
ジーナにせがんでミットさんに会いにいくことにした。姉弟子だと言うけど、どんな人だろう?
「どれ、聞いてみようかの。ミットさんや、聞こえるかの?」
え?急にどうしたの?ジーナの視線が虚空を彷徨っている。
「ああ、割り込みですまんの。あんたに妹ができたぞ?おう、そうじゃ。クレハと言う。
あははは、それで今はどこにおるんじゃ?
おお、トリスタンかえ。高台にの。ほうほう。
そうかえ、では夕方にもう一度声をかけるとしよう。うん、元気じゃぞ。うんうん」
ジーナの目があたしを見たのが分かった。話が終わったと言うことか。
「ミットさんはトリスタンに家を建てたそうじゃ。高台らしいの。子供とやもめ暮らしだと言うておったの。ナックは10歳になったそうじゃ。夕方トリスタンに戻ると言うでの、その頃また聞いてみようぞ」
手をヒラヒラと振るので、あたしは村長屋敷を出てトリスタンの上空へ跳んだ。トリスタンで高いところといえば、くの字の山しかないが範囲が広い。中心部には地下に施設があって、工場と放送場、デパートと言うものに隣接してチューブ列車2路線の駅がある。あの近くであれば探しやすいと思うのだけど。
南西の緩い斜面に階段状に5段、土地が切り開かれ住宅地になっている。北側も山は急峻なためか建物は見えない。
あるとすればあの辺だろうか。近くへ跳んで見るとちょっとした広場に銀色頭の痩せた黒服が目についた。
あれ?変わった帽子?でも銀色っておかしくない?近くで子供が一人駆け回っている。
と、銀色頭が200メル上空のあたしを真っ直ぐに見た。
え、なんで分かったの?
両手を大きく振ったあとそのまま地面を差した。降りてこいって?もうバレちゃってるからいいか?
降りてみて驚いたのは銀色頭が帽子ではなく首まで全部銀色だったことだ。ひょろっと痩せた190セロ、黒い三角眉が二つ貼り付いていて服装は白い襟付きのシャツに黒い上着黒いズボンに黒い靴首元に黒い蝶結び。黒白のねじり模様の鉢巻をして、結び紐を後ろに流している。
黒ずくめだね。
「私はシルバと申します」
眉がひょこっと持ち上がった。表情は無いのに、あたしは「あんたは?」と聞かれたような気がした。
「あたしはクレハ」
「左様ですか。奥様から伺っております。ようこそいらっしゃいました。こちらはナック坊ちゃんでございます。奥様は夕方お帰りになりますのでよろしければ、お昼をご一緒しませんか?」
ナックと呼ばれた少年はちょい、と頭を下げた。10歳くらいかな?あたしより拳一つ背が低い。あたしも140セロそこそこだからそう威張れたものでもないけど。でもまだ午前も早い時間だと言うのに何して過ごそう?
「坊ちゃんはこれから日課の鍛錬がございます。一緒にやってみますか?」
鍛錬ねえ。
シルバの合図で走り始めた。町内一周というところかな。5周走と言ってたね、割とゆっくりのペースで進んで行く。右へ折れると登り坂になっている。上から見えた階段宅地の1段目か。
そのまま登って右に折れ、500メル走って下りたら1周だ。更にもう一周、登り坂は2段になった。ほうほう、頑張るじゃないの。
次の登りは3段だった。おいおい、大丈夫なのか?あたしでもちょっときついぞ?
あれれ、4段目も行くの?ひえぇー。ふうふう、はぁはぁ。やっとこ5周目、なんとナック坊ちゃんが全力疾走だ。どこにそんな体力があるんだー。
流石に坂は4段だったけど、めちゃ置いてかれたよ。坂を降ってやっとの思いで広場に辿り着くと二人は腰を下ろして待っていた。
「ご苦労様です。初めてですのによく付いて来ますね。休憩の後は剣の鍛錬です」
「はぁはぁ。え、めちゃ、置いてか、れたよ?」
「最後の1周は自由に走っていいのです。私が課すのは一定の速度で走る4周走ですので」
うん。分かったけど、年下に置いてかれて悔しいのは一緒だ。
剣の鍛錬と言うのは軽い木剣の素振りから始まった。ナックの振りはあたしよりもずっと速い。
「クレハさまもそうですが骨格や関節が成長途中ですから、過剰な負担は掛けられません。打ち込みの型を主にして軽い模擬刀での打ち合いをやっております」
軽く汗を掻くまで振り下ろし、振り上げ、薙に突きと素振りを繰り返した。剣の動きに合わせた足の位置がある様で、最初はうまく木剣が振れなかった。
ナックとシルバの打ち合いが始まった。シルバはほとんど足を動かさずに、飛び回る様に打ち込むナックの剣を受けている。3度に1度だけとんでも無いスピードの打ち込みがナックを襲うが、慣れた様子で躱し、或いは受けて打ち合いが続く。
とうとうナックが息切れを起こし、打ち合いが終わった。
「あたしもいいかな?」
「どうぞ」と短い返事にあたしの木剣が打ち込まれるが、軽く弾かれた。どう打ってもはじかれる。なんで打ち返さないのかと思った瞬間シルバの木剣があたしの首に貼り付いた。
「動かずに打ってるとだいたいその手でやられちゃうんだ」
あ、こいつ初めて喋ったね。ちゃんと喋れるじゃない。
「それであんなに周りを飛び回るの?」
「それでってわけでもないけど、動き回った方が打ち込みやすいだろ」
もう一回ずつ打ち込みをやってお昼になった。
すぐそばに目立たない階段があって、家はそこを登ってすぐだった。
家の作りは周りの家とよく似ていてそう大きな家でもない。中に入ると部屋が5つ、居間と台所に個室が3つ。一つは物置になっているらしい。
シルバが手早く料理をしてパンとスープのほかに、大皿に細長く切った肉と野菜を甘辛いトロッとしたソースで和えた炒め物を載せて出してくれた。
ふうん。ネギラの料理が一番だと思ってたけど、このシルバってのもなかなかやるね。
「ねえ、クレハって呼んでいいかい?」
「いいよ。あんたもナックでいい?」
「うん、仲良くしてね」
わ、ちょっと可愛いじゃない。
午後は眠い目を擦りながら座学だった。
「はい。こちらの計算問題から始めます」
ナックは2桁の足し算、引き算が書かれたボードを見て答えをブツブツと呟いて行く。
「100マス計算というやり方なんだって。こんなの3メニとかからないよ」
終わると最初に戻って検算を始めた。二つ間違ってたね。
シルバが手から大きな風船を膨らませて言った。
「よくできました。ナックさま。次はここトリスタンについてでございます。こちらの球儀をご覧下さい」
ナックの背丈と変わらないくらいの大きさになって床に置かれた風船には青と緑、茶色、それに白の模様が入っている。
これ知ってる。セーシキドーから見たこの世界だ。
「トリスタンを探して下さい」
ナックは目印を探してる。茶色に囲まれたまん丸の5セロほどの青『西の内海』を右下に見つけた。そこから腕一つ離れた白い丸が上になるように転がす。内海から左へ掌一つ、逆くの字の山の先っぽがトリスタンだ。
「よくできました。ここトリスタンはトリラインという輪になったチューブ列車の接続駅があるというところまで説明致しました。
トリラインの経路を描いて下さい」
「右の青が大きく食い込んで来てる少し下がハイエデンなのは分かるから、横幅はいいんだけど上下がよく分からないなー。
トリスタン、ライカース、タイタロス、ネドル、無人駅、ヤントロール、リシャイン、ケルヤーク、ハイエデン、レクサール、ケルス、ヤルクツール、ナーバス。トリスタンで一周だね」
「それだけわかれば十分です。ネドルとヤントロールの間には観光町を作る話が出ていますので無人駅にも名がつくことでしょう。
さてここトリスタンは、最初に作られた街であるらしいことが幾つかの資料から分かっています。なぜ最初の街に3を意味するトリが冠せられたかは不明ですが、トリラインから西のジーライン、東のテトラインと広げて行ったと言われています。
当初計画では北半球に6つ、南半球にも同じく6つの環状線を整備するはずでした。
現在確認できるのはジ、トリ、テトラの3路線でテトラインはレクサールで不通になっているところまで。ジーラインも探索が始まって7年です」
「母さんが毎日忙しいのは、ジーラインの駅を上空から探して駅を復旧するためだって言ってたね」
あれ?ナックのセリフってあたしに教えるため?
「さて、このように広範囲に及ぶチューブ交通網ですが、一駅の間隔が700から900ケラルと遠く、間にも多くの町や村があり互いの交易のため、トラク輸送路が整備されて来ました。これも10年ほどの歴史しかありませんが、100台を超える道路班が日々、道の延長をしています」
道路班仕様のトラクは見たことあるよ。今、西の海にイヴォンヌさんたちが乗って来て道を直してたし。1ハワーで150ケラルも走るってホントかな?
「道路は標準幅8メル。トラクが高速ですれ違うため広めに設定されています。ハイエデンから海沿いに北上後、西へ向かって内海経由でトリスタンからアルムール抜け、南西へ向かうルートが出来上がっている最長の道で、4000ケラルに及びます」
それでもまだひどい道がいくらもあるってイヴォンヌさんの歓迎会の時に聞かされた。
「トリスタンからは南北に交易路が延びており、すでにナーバスまでの交易路ができています。そのおかげで街は、ここ4年程で大変な発展を遂げました。いかに物資の流通が重要であるか、私も身に染みたものです」
「それに魅力ある商品もですよね?」
「ああ、その通りです。知っての通り、ガルツ商会の提供する商品はこの地域の貨幣経済を爆発させてしまいました。貨幣の鋳造が間に合わず物価の暴落があったのは記憶に新しいですが、それも今は落ち着きました」
「へえ。ガルツ商会って手広くやってるんだ。ジーナがお得意先にしてるくらいだもんね」
「その時には沢山の品をガルツ商会が現金で買取、産業の崩壊を一部なりとも救ったって僕は聞いたよ。
年上に聞いた話じゃ路地裏を女子供や武装もなしに歩くのはすごく危険だったらしい。母さんはよくそういう連中を姉さんたちと狩りに行ったらしいけど」
姉さんたち?
「この街には巨大な放送センターと地下デパート、それに車両工場がありますからね。この世界の牽引役として更なる発展が続くのは間違いありません。
特にサーバーフロアの再稼働に成功したのが大きいと言われています。衛星はまだ6個と年代記録の半分しか稼働していませんが、そう遠くない将来、旧代の技術レベルに達するでしょう」
ここで一息ついて庭へナックと出た。
そう広くない庭だけど、赤い美味しそうな実のなる大きな木の下にベンチがある。ナックが座って切り出した。
「クレハ、僕は冒険に出たいんだ。母さんには話してあるんだけど、まだ良いって言ってくれない。クレハのとこに遊びに行くって事で出かけようと思うんだ」
「なに、ナック、家出するの?」
「うーん、ちょっと違うかな?どうせシルバは付いてくるし。このボタンツーシンも持たされてるから連絡はどこに行っても付くしね。母さんは知ってる場所ならどこにだって跳んでくるし。家出なんてかっこいいものにはならないよ。でも僕は冒険に行くんだ」
あー、ナックの母さんってミットさんだった。ジーナにはすごい人としか聞かされてない。会うのが楽しみだ。
「ナックは跳べるの?」
「まだ教えてもらってない。体がある程度できてからだって」
「あー、そうなんだ。でも青い靄とか渦は見えるんだよね?」
「ぼんやりだけどね」
「えー?あたしだってぼんやりしか見えないよ?」
「ナックさま。そろそろ続きを始めますよ」
シルバの声が掛かった。眠たい座学の続きだね。
夕方、いろんなことを詰め込まれて頭がボーっとして来た頃、ミットさんが帰って来た。
「ヤッホー。ナックー、いい子にしてたかー?おー、クレハちゃんだねー。あたいはミットだよー。よろしくねー。いらっしゃいー」
茶色の髪をうんと短く切って彫りの深い浅黒い肌、青いチェニックに水色の丸襟シャツ、濃いめの青のキュロットスカート。白のぴっちりしたタイツに足首が隠れるゴツい編み上げ靴。背が高い、170セロはありそうな引き締まった体に大きな胸。ミットさんは扉を閉めて腰を捻ったポーズを取った。
「あ、おじゃましてます。クレハです」
「母さん、そう言うのはいいから」
「何言ってるかなー、挨拶は大事だよー。ジーナは元気してたー?村のみんなはどーかなー?」
その夜はサイナス村の話をしながら美味しい夕飯を食べた。
ナックがあたしとサイナス村に遊びに行っていいかと切り出して許可をもらっていた。