6 ネロデールス エイセル クレハ
デリクラッド親方からの課題は幾つもの細かな指摘はあったが、エイセルはなんとか及第点をもらった。
あの飛び蹴りの彫像は、本当に自分が彫ったのかと信じられない思いで見る角度がある一方、別の角度から見ると自分の拙さが見て取れ、妙な納得感がある。
数日前から親方の指示で量産品のナイハクチョウの彫りをやっている。ナイハクチョウはこの街のシンボルにもなっている渡り鳥で、今の季節はまだ近くにはいない。秋も遅い時期に北から飛来して、春になると帰っていく、そんな大型の鳥だ。
店頭に並ぶ彫像を見ながら、エイセルは実際の鳥が見られなくて残念だと思った。
優美な首から嘴の線と細く長い足が特徴で、足だけは金属の棒に布を巻いて形造り台座に固定するのだが、あとは全て木彫りで、彩色して仕上げる。
そのポーズは3種類で、エイセルに回って来たものは最も難易度の低いものだったが、デリクラッド親方は明らかに期待していない風だった。
今エイセルは、その木彫りに没頭していた。慣れた職人が1日で仕上げるものを今日で3日目、どうしても引け目は感じるが納得いかないものは仕方がない。
それに特に首の部分は削りすぎるのを恐れるあまり、全体のバランスが取れるまで仕上げていないせいもある。
夕方、やはり気に入らないところがいくつもある。が、エイセルにはもう直せないと分かった。いや、直しようがないと。
親方の評価は散々だった。どいつも5、6体はダメにするんだとグラドは言うけど、羽を畳む歩き姿でこの様だ。
飛び立つ滑走時のナイハクチョウや、着地直後の羽を畳む途中のナイハクチョウは更に難しい。
店頭に並ぶ彫像は飛翔前の緊張感、着地が成功した安堵感すら纏っているのだ。
そう言えばのんびりと見える歩き姿にも緊張感を感じられた。
あれはどこから来るものなんだろうか?
・ ・ ・
エイセルは更に3体の歩き姿のナイハクチョウを彫った。親方の注意は減ったが、彩色の許可は出ない。
気になるのはそこに漂う緊張感だった。ただ歩くのに何の危険があるんだろうか。
ナイハクチョウの目は頭の両側についていて、真後ろも見えるんだとどこかで聞いた。左右別々にものを見ているんだと。
僕らとはずいぶん違った景色を見ているんだなあ。目玉の向いている方向しか見えないんだから、全部が一度に見えるわけでもないんだろう。
でもそんなふうに、ぐるっと周囲を見なきゃいけないってことなのかなあ。
エイセルは立ち姿のナイハクチョウを店に観に行くことにした。
・ ・ ・
立ち姿の彩色が許されて、下準備にかかった次の日は久々のお休みだった。
職人でもひと月に1回か2回しかない貴重なお休みだ。見習いの僕には初めてのお休み。
僕は姉さんたちの顔を見ようとまずトモル姉さんの工房を訪ねた。
季節は秋に向かって、もうあれから2月半も経つんだと、高い空が、涼しく澄んだ風が言っている。
「トモル姉さん。居るかい?」
「あら珍しい。エイセルじゃないの。どう?デリクラッドさんのとこは」
「うん。彩色の許可を初めてもらったところ」
「あら。凄いじゃない。あの親方、厳しいでしょ?」
「うん。でも、店に出すような彫像はみんな何かしら人の眼を惹きつけて、強い雰囲気みたいなものを纏ってるように思うんだ。
僕も早くあんな作品を作りたいよ」
「へえ。頑張ってるんだね」
姉さんの工房は相変わらずだった。ウサギやキツネといった小動物を丸く象った木彫りは、ふわふわとした毛並みさえ錯覚させる。
小さい作品だとは言え、あれを1日5体も仕上げるトモル姉さんの腕は、今になって初めて、僕には到底無理だと分かるものだった。
作業台の後ろには大きな箱がある。その中には種類別に粗仕上げまで終わった木彫りが積み上げられている。
その数はそれぞれ20体ほどもあった。
姉さんが注文の途切れる冬から春先に作り溜めたもので、乾燥も兼ねておいてあるのだ。
今年は少し減り方が早いようだった。
ネルカ姉さんの食堂へ向かう途中だった。まだ朝方と言って良い時間なのに、3人の男が仕事へ向かう途中らしい女を囲んでいる。
男たちの口調が荒い。小突くようにして路地裏へ移動していた。
周囲には人影は見えない。僕は気になってそっと後に続いた。
物陰から覗くとそこには更に3人の男がいた。
男たちの強い口調が途切れ途切れに聞こえて来る。
と、女が突き飛ばされ路地に転がった。下卑た笑い声が響く。
僕はあいつらに対抗できるだけの力なんかない。でも、すくむ足とは裏腹に「ここに居るのは僕だけだ!」と熱いものが込み上げる。
「僕がここで動かなきゃ、あんな奴らに好き勝手させて良いのか!」
小声で言ってふらりと立ち上がる。ガクガクと震える膝を励まして踏み出した。
「おい!そこで何をしてる!」
ビクッと肩を跳ね一斉に振り向く6人。
僕は震えを押さえつけて更に前へ出た。
怪訝な顔で僕の後ろを6人が窺っている。更に近づくと、
「なんだ、英雄気取り。
おまえ一人か?」
途端にニヤニヤ笑いが6人に浮かぶ。その足元で少しずつ遠ざかろうと女が這い始めた。
注意を引かないと!
「お前たちそんな大勢で女一人!恥ずかしくないのか!」
その言葉で気が付いたのかと中の一人が背後を振り返り、
「何逃げようとしてんだよ」
その這う女の背を踏み付けた。裏目に出てしまった。
「時間稼ぎか?坊主」
「お楽しみが待ってるんだ。早いとこ畳んで、移動しようや」
くっ!こうなったら!でかい声で人を集める!
「うおー!」
僕の声は路地に虚しく漂って消えた。
普段から大きな声なんて出してない。
僕はこの程度か!
両肘を前に突き出し先頭の男に突進する。男は軽く身を躱し腹に膝。目の前がパッと光った。もう一人の顔を殴られたらしい。
視界がぐるっと回って背中にひどい衝撃がきた。必死で顔を上げると二人が目の前の《そび》えるように立っていた。
「おねんねはまだ早いんだぜ?」
頭を庇うが腹にばかり蹴りが飛んでくる。ひどく苦しい。丸くなって耐えていると。
ギャッ!
「あんたたち、面白そうなことしてるねえ」
なんだ?女の声?
朦朧とする眼を無理やり開けて、苦しいのも構わず顔を上げた。
ボウっと霞む中に男たちが立っている。首を回すと華奢なズボン姿。声はこの子か?片眼が腫れているのか霞んでよく見えない。震える腕をやっと持ち上げ痛みのない左目を拭う。
見覚えのある茶の髪、彫りの深い顔立ち……クレハだ!
痛みを忘れてガバッと上体を起こすと、途端に殴られた右の頬がズキンと脳天まで火花を飛ばした。
一瞬クラッとしたが、食い入るように見詰める左眼は瞬きすら忘れていた。
手前の男が捕まえようと両手を上げ突っ込んでいく。
クレハは動いたとも見えないのに手を逃れ左へ回る。そこへもう一人の拳が……空を切った。
タタンとクレハのステップが響いた時には、殴りかかる3人目に上段蹴りが決まっていた。
そのままフッと身を沈めもう一人の脛に強烈な蹴りが入る。蹲り足を押さえる男の足元には一人既に横たわっていた。
最初の悲鳴はあいつか?
目を戻すともうそこにはクレハの姿は無かった。
「このガキ、チョロチョロと!」
右手の声に顔を向けると拳を振る男。
やはり動いたとも見えないクレハが僅かに躱し右の上段蹴りを飛ばす。上背のある男の顎を見事に捉え、一瞬棒立ちになった後膝から崩れ落ちた。
今のはすごかった!はっきり見えたよ。
さっきのとは見える角度が違ったけど同じ上段蹴り、あの軸足の伸び、逆へ降った右腕、何より顎を捉えた後も、揺らぎもしない足刀。美しい!
クレハの蹴りの姿勢を頭の中で反芻しているうちに片付いたようで、頬をペチペチ叩かれた。
「おーい。あんた大丈夫かー?
もしもーし!」
目の前にクレハが居た。びっくりした!
「うわっ!」
「うわってねえ?大丈夫?」
「驚いただけです。大丈……てて」
忘れていた痛みが右頬と腹に戻っている。
遠くで重い足音がしている。
「あ。見回りの兵士さんたちが来たね。
あたしは退散するよ。折角の休みなんだ。じゃあね」
タタッという足音共にクレハは居なくなった。
その後は男どもが縛り上げ引きずっていかれた後、兵士たちに囲まれ事情を聞かれた。
調書は治療を受けながらだったが、昼までかかった。
終わると記憶が薄れないうちにと、クレハの上段蹴りを何枚も紙に描いた。何度も角度を変えて描くうちに、クレハの上段蹴りが彫れそうな気がしてきた。