ゆりの花咲く
さて。
これをはたして話していいものかどうか。
あの夜の相手に、いつかまたこの街のどこかで、あるいは全く知らない場所で出会ってしまったなら、今度こそ、私自身が戦うしかないだろうと覚悟はしているのですが。
でも、もし話すことによって、起こさなくてもいい悪夢を呼び起こし、私の大事な人々にあれが出くわすことになってしまったら。けれどまた、話すことによって、彼らにもそれへの対処を考えさせられるかもしれない。
とりあえず、記憶を手探りしながら、あの夜のことを話しましょうか。
「うーん、だめ、だなあ」
朝からずっと私はPCの中の物語と格闘していました。
素人作家。作品を見せてください。そう言われてから、何度失敗したでしょう。
「気分転換に買い物でも行くか?」
夫が、ゲームに熱中している息子達に声をかけました。
「買い物いくよ、一緒に行くか?」
「待ってるよ、ゲームしてるんだ」
生意気盛りの長男が小学校五年の突き放した声で応じれば、
「遊んでるー、ゲームしてるもん」
何事につけお兄ちゃん一番の次男が口をそろえました。
「じゃあ、留守番頼むな。ドアを開けるなよ」
「誰が来ても、開けないでね」
長男はうっとうしそうに私を見ました。
「ぶっそう、だからでしょ」
家を出たのは昼過ぎでしたが、買い物をすませると夕方の気配が漂っていました。通れるはずの道が工事で塞がれていたり、開いているはずの店が閉まっていたりしたのです。
「遅くなったわね」
買い物袋を後部座席にいれながら子どものことを考えていました。小学生2人で数時間の留守番。昼間とはいえ、子どもだけを家に残していくのは、やはり不安なものです。
「大通りが工事になるのは、明後日からじゃなかったのか?」
夫は車のエンジンをかけながら、眉をしかめていました。
「『さかえや』が休みってのも変よね、休みません、売りつくすまで、が売り文句なのに」
夫はバックミラーを確かめながら、スーパーマーケットの駐車場からゆっくりと車を出しました。
「ここも変だよな、何だか、店がしーんとしてさ」
いつもの店が閉まっていたので、うろうろしている間に見つけた店ですが、看板はシートがかけられていて読めなかったし、もらった白いビニール袋にも何の印刷もされていませんでした。
「何ていうお店なのかな」
「さあ。でも、次は来たくないな。品物、大丈夫だろうな」
「うん、それは大丈夫みたい」
必要なものだけを見繕って、そそくさとレジに持ち込んだ私に対応したのは、五十そこそこの男の人でした。俯いたままレジを通し、表示された金額を横目で見ただけ。品物を運んで行こうとすると、粘りつくような妙な視線で見つめていて、気持ち悪い人でした。
「まあ、いいや、買い物もすんだし、あいつらも待ってるし。さっさと帰ろう」
滑るように店の前を離れていく車にほっとしました。
夫には黙っていたけど、私はあの店で奇妙なものを見てしまったのです。
子どもの好きなおやつを探していて、ふいに視界の端で、ふる、と震えたもの。ゼリーよりは固そうで半透明で、でも弾力のある揺れ方をしているものです。それが、まるで地震か何かに揺さぶられてでもいるように、ふよふよ、ふよふよ、と妙に頼りない動きで、けれども止まることもなく揺れているのです。
どれぐらい見つめていたのか、気がつくとじっとり汗をかいていました。そろそろと離れるのが精一杯。あんまり急に動いては、前触れもなく、ふよん、と顔面に飛びかかってきそうな気がして、怖かったのです。
それが何かは、もうどうでもよくなっていました。
他の棚にもいるかも知れない。それどころか、今、背中を向けている後ろの棚にもいるかもしれない。
そう思うだけで、凍りつきそうな足を必死に動かして向きを変え、回りの棚を絶対見ないようにして、レジの近くで待っていた夫に駆け寄りました。
「何、どうしたの?」
「いいから、早く」
店全体がわけのわからぬ物で満ちている気がして、できるだけ急いで袋に品物を押し込み、夫を急き立てて出ました。店から車が離れていくに従って、ようやく気持ちも頭もまともに動き出した気がしました。
あれは一体何だったのだろう。何かおもちゃの一種だったのだろうか。
私は何となく、後部座席の荷物を見ました。
白い袋の塊。
中身は確かに普通の品物だったけど、もしかして、ひょっとしたら、そのどこかに、あれが入っていなかっただろうか。
ざわっと皮膚が粟立つ気がして、私は無理に発想を変えました。
違う、違う。
あれはきっとおもちゃだったのだ。子どもがいたずら心でおもちゃの棚から動かして、店員は気づかなかったのかもしれない。そう言えば、音で踊りだす花のおもちゃがあった。あれは、同じように音や人の動きなどで反応して動き出すおもちゃで、あの男は驚く客を見て楽しんでいるのかもしれない。だから、あんなに人の顔をじろじろと見ていたのだ。
思いついて、肩から力を抜いたときです。
ぐらん、といきなり世界が揺れた気がしました。続いて、胸を押さえつけられるような圧迫感とお腹の真ん中ぐらいがかきまぜられるような不快感が襲い、今にも吐きそうになって、激しいめまいを感じました。
何、これ? どうしたの、一体?
薄目を開けて、隣の夫を盗み見ましたが、相手は別にいつもと同じように機嫌よく運転を続けています。
そうだ、これは、あれに似ている。
吐き気に抵抗しようとしながら、私は同じような目に合ったことを思い出しました。
離れて暮らしている私の祖母が急変した時のことです。
その日、突然襲った吐き気に、私は夜中に跳ね起きました。トイレに行ったのに吐きたくても吐けない。足元から深い穴にずるずると吸い込まれていくような危うさ、このまま体が床を突き抜けて落ちてしまいそうな恐怖に突き落とされて、私は必死に夫を呼びました。
死ぬかもしれない、このまま。
呟いた私に夫もパニック寸前になったようです。けれど、脈はしっかりしていたし、顔色も戻ってきていたからと、そのままトイレの前で夫に抱えられて数十分、少しずつ気力が戻ってくれました。
翌朝、母から電話が入り、祖母が夜中に急変し、緊急入院したことを告げられました。すとんと、ああ、あの衝撃は祖母のものだったのかと納得しました。
あのときの感覚に似ている。
気づいたとたん、私は、その感覚が、あの時のように自分の内側からではなくて、どこか体の外、ある方向から流れてくるのを感じました。そこに空気の噴き出し口のようなものがあって、近くなったり遠くなったりしながら、まとわりつくようにずっと側にあるという感じ。
信号が赤になったのか車が止まって、途端に叩きつけるような激しさになった感覚に居てもたってもおられず、急いで閉じていた目を開けました。
斜め前にミニバンが止まっていました。
手描きなのでしょうか、側面に大小の白いユリが描かれてあり、紺色の地に見事な出来栄えです。窓ガラスは濃い色で、中の様子はうっすらとしか見えません。運転席に小柄な茶髪の女性が1人、助手席には黒い髪の同い年ぐらいの若い女性が乗っていて、楽しそうに笑い合っています。
その車を目で確認したとたん、吐き気と不快感は突き上げるようなひどさに変わりました。
だめだ、本当にもう、吐きそう。夫に頼んで車を道路の横に止めてもらおうか。
思った瞬間に、信号が赤から青に変わり、車の列が動き始めました。
白いユリの自動車もぐい、と前へ走りだします。
そのとたん、ふ、と重しが取れたように体が軽くなるのがわかりました。
間違いない、あの車だ。
確信したものの、なぜ、あの車と不快感に関係があるのかはわかりませんでした。
以前、友人が見せてくれたオカルト雑誌で、霊感の強い人が事故を起こした車に近づいて不快感を感じるという話を読んだことはありますが、私は今まで幽霊の類を見たことも、不思議な気配を感じたこともありません。それとも、そういう物語が私の意識の深いところに残っていて、体調が悪いのを勝手におかしな想像に結びつけているんだろうか、とも疑いました。
けれども、その後も、信号でその車に近づいて止まるたびに吐き気も不快感もひどくなり、離れると少し楽になる繰り返しです。できれば、その車と違う方へ進んでほしいと思うのに、夫はまるで追いかけてでもいるように、同じ道、同じ角を曲がっていきます。
だんだん体が苦しくなり、いつかのような、足元からゆっくりと引きずり込まれていくような恐怖に変わり始めました。思いついたことが、理屈では合わないことも、常識で考えれば妙なこともわかっています。けれど、事実、あの車に近づくと吐き気が強くなり、意識を失いそうになり、それはどんどんひどくなる一方なのです。
「おい、大丈夫か?」
妙な気配だったのに気づいてくれたのか、隣の席から夫の声が聞こえました。
私はようよう目を開けました。両手は、苦しさを逃れたいあまりでしょうか、膝の上で祈るように握りしめられていました。
何か、魔よけの呪文でも覚えておくんだった。
力を入れ過ぎて白くなった自分の手を見ながら、私は夫に訴えました。
「苦しいの」
「うん、どうしたんだ」
さすがにすぐには、目の前の車がおかしな感じだ、そのせいだとは言いかねました。
「…わかんないけど」
「昼食ったものがまずかったかな」
「じゃなくて……あのね、おかしな、ことだと思ってるけど……前の車ね」
「ああ、あのユリの奴な、すごいな、あれ」
夫も目にとめていたのでしょう、顔を歪めて頷きました。
「あの車から、離れてくれないかな」
「どうして」
夫が不審そうな顔を向けました。
「何かね、あの車」
私は強くなってきた吐き気をこらえました。口にしようとしたことばを邪魔された気がしました。それでも、我慢するには限界でした。
「だめなの」
信号が赤になりました。
ユリの車が、先に行ってくれればよかったのに、赤に変わる前にちょこんと横断歩道の前で止まります。後ろからの車に流れに押されるように、私達の車がゆるゆるとそちらへ近づいていきます。それとともに、ぐう、と胃の中のものがせりあがり始めて、私は目を閉じました。
「吐き、そう」
「え?」
夫が車を止めました。ユリの車の真後ろです。
前の車から荒々しいものが吹きつけてくるような感じさえしました。目も開けられない、そう感じながらも無理やり瞼をあげてみると、白いユリがざわめくように、何かを招くように揺れているように見えました。
それでも、見えている限りは普通の車です。心霊番組であるように、おどろおどろしい女の影や黒い霧のようなものは見えません。
「ああ、やっぱり」
夫がぽつりと呟きました。
「やっぱり?」
振り向くと、夫はハンドルを握りながら、じっとユリの車を見据えています。
「あの車、何かおかしいなと思ってたんだ。さっきから抜こうとしても妙に抜けないし、こっちの行く方向ばっかりに曲がるし」
夫は妙な笑みを浮かべました。
「落ち着かないんで、何度か振り切ろうとして、いつも通らない道を選んだんだけど、やっぱり前に来るんだよな、いつの間にか」
私はほっとしました。自分だけが妙なものを感じていたわけじゃないんだ。夫も何かを感じていたんだ。
「そう、なんだ」
「それに」
夫は今度はきつい目で前の車を睨みつけました。
「あんな店のおっさんが運転してるだけでも、気分悪いよな」
「え?」
今度は私があっけにとられました。吐き気を我慢しながら、もう一度、前の車の運転席を見つめましたが、そこにはやはり、茶色の髪の女性しか見えません。
「女の人だしょ?」
「違うだろ」
夫は訝しそうに私を振り向きました。
「さっきの店のレジにいたおっさんじゃないか。無愛想でありがとうございました、も言わなかった奴だ」
ゆら、と脳裏に粘り着くような男の視線が甦りました。
「さっきの店の人が? どうして?」
「知らないよ、気がついたら前にあんな派手な車で走ってやがるから」
夫は不快そうに顔を歪めました。
「違うよ。女の人でしょ? 茶色の髪の人と、黒い髪の人でしょ?」
夫は眉を上げました。凍りついたような寒々とした顔で、用心するようにそっとことばを継ぎました。
「…1人しか乗ってないよ」
「だって」
信号が赤から青に変わりました。車が流れだし、夫もアクセルを踏みました。
楽になった体を再び絞り上げてくるような不安が、胸の中に広がってきました。
「だって、そんなこと、2人いるよ、2人でしょ?」
「1人だって」
「女の人でしょ」
「おっさんだろ」
私と夫はお互いの顔をちらちらとうかがいました。
あの店のようなしんとした沈黙が車の中に広がって、それが何かをゆっくりと壊していくような、冷え冷えとしたものに変わりつつありました。
「わかった」
夫がハンドルをしっかりと握り直しました。
「実はさっきから、もう1時間以上走ってるんだ」
「え」
私達が走っていたのは、多く見ても家から30分もかからない場所だったはずです。
「とにかく、あの車に誰が乗っててもいいから、もう無視して帰ろう。あいつらはずっと2人っきりだし、ご飯待ってる」
「うん」
私も子どものことを思いました。
そうだ、あの子達が待っている。
夫はまた一つ強く頷いて、
「次の角で右に曲がって、横道を通って、で、大通りの工事の向こうに戻るから。それまで我慢しろ」
「わかった」
私は座席の下を探って、ゴミ袋を取り出しました。
いざとなったらこれに吐いて、吐きながらでも帰ってもらおう。
子どものことを思い出すと気力が戻った気がして、私はしっかりとゴミ袋とシートベルトを握りしめました。
ユリの車は、私の目にはやはり談笑する2人の女性を乗せて前を走っています。もう少しで曲がり角、前の車はウィンカーを出していないし、私達が角を曲がればそれで離れられるはずでした。
けれども。
「え、ちょっと」
私はぎょっとして夫を振り返りました。
「どうして曲がらないの?」
夫は答えず、なぜか目を大きく見開いて、前を凝視しています。
「…どうしたの」
私は不安になって声を強めました。
「ハンドルが動かないの?」
いやだ、そんなの。
体の表面がざわめくような震えに声を重ねると、
「動く」
呻くような夫の声が聞こえました。
「じゃあ、どうして、曲がらないのよ」
吐き気が増すより、逃げられたのに逃げようとしない夫への苛立たしさが募って、私は声を荒げました。
「帰ろう、っていったじゃない。あの角を曲がるって」
「わかってる」
「わかってないわよ、このままじゃ」
私はぞっとしました。
「家から離れていく一方なのよ…」
「わかってるんだ!」
夫はいきなり叫びました。見開いた目が血走り、呼吸が荒くなっています。
「どうしたの…?」
「おまえ、見えてないのか?」
夫が掠れた声で尋ねました。
「何が?」
「ほんとに、見えてないのか?」
「だから、何がよ」
「あれが、見えてないのかよ!」
夫が真っ白になった顔で、指さしたのは、前を走るユリの車でした。
「見えてるわよ、でも、おっさんじゃなくて」
「違う、違うんだ、もっと違うものだ」
「違うもの?」
ユリの車は通りをするすると走っていきます。暮れかけていた日は落ち切ってしまい、ぽつぽつと街灯が照らすあまり見覚えのない街並の間を、奇妙に黒々と沈んでいるアスファルトの道を、どこか弾むように楽しげに、どこかを目指して突き進んでいくようです。
「何が、見えるの?」
「見えないのか?」
夫は唸るように呟きました。
「見えてたら、そうだよな、曲がれなんて言わないよな」
「見えてたら、曲がれなんて言わない?」
「おれにはできないよ、とても曲がれない」
「曲がれない? だって」
私は混乱してきました。吐き気は既に消えているけれど、そうなったらそうなったで、今度は夫がおかしなことを口走り始めたのです。
「さっきも曲がったじゃない、あの車と同じ方向へ。ほら、今も」
「そうだ、そうなんだ、あの車の行くところには行けるんだ、けど、あの車から離れたら、轢いちゃうよ」
「轢いちゃう?」
「そうだ、轢いちゃうんだぞ!」
夫は脅えた声で怒鳴りました。
夫のハンドルに操られて、私達の乗った車は右に左に危うく揺れました。何だか、少しずつスピードが上がっているようで、角を曲がるたびにタイヤが鳴る音がし始めていました。
「やめてよ、スピードを落としてよ」
「落とせないだろ!」
夫は噛みつくように言いました。
「止まったりしたら…囲まれる、そんなこと、耐えられないだろ!」
「どうしたのよ、一体!」
私が尋ねましたが、夫はひたすらハンドルにしがみつき、食い入るように前を見ているだけで、もう返事もしてくれません。体を激しく揺さぶられて、別の不快感に耐えながら、私もまた、夫の見つめているものを見ようとしてユリの車を凝視しました。
ユリの車は飛ぶように夜の道を走っています。暗闇に車体に描かれていたくすんだユリの花が、妙に白々と生き生きと光り、動きにつられて揺れているように見えます。
いや、違う。
実際に、車体のユリの花がわさわさと揺れ動いているようです。ちか、ちかと一瞬だけ当たる街灯の光のせいではなくて、それ自体が白く激しい光を放ちながら、車体の闇で風に煽られるように動いています。
と、あまりの風に激しさについに花びらの一枚が無理やりに花からもぎ取られたように、ふわりと車体を離れて空間に舞い上がりました。ぽとりと道路に零れ落ちた、その不思議なほどの量感に目を吸いつけられたとたん、私の喉に意味を為さない声が突き上げました。
動いている。
落ちた後も、もぞもぞと、それだけでも生きているように蠢く何か。
それはあっというまに流れる視界の背後に飛び去りました。
けれど、気づいた観客の存在が何かを刺激してしまったように、目の前を走る車のユリは、次々と花びらを乱れ飛ばし始めました。そしてその一枚一枚が、ユリの車の両側に、そしてまた真後ろを走る私達の車の両側に、ばら撒かれ始めました。
夜闇の中、逃れる道を全て遮るように、左右に散らばり転がっていく白い花びら。けれど、それは道路に落ちたとたんに、ふよふよと蠢く何かに変わるのです。
ばらばら。
ばらばら。
ばらばらばらら。
あれは何かの生き物でしょうか。轢いてしまったら悲鳴をあげたり襲ってきたりするのでしょうか。
「どうしたらいいんだ」
ハンドルにしがみついている夫の顔は真っ青でした。
「轢かなきゃ戻れない」
ふ、と私の脳裏に、あの店で見た、白いふよふよとした塊が浮かびました。
「あの店で、変なものを見たの。おやつの棚にあったの、スライムみたいで、白くてぶよぶよした塊で、何だか揺れてたのよ。気持ち悪かったし、ひょっとしたら新しいおもちゃかもしれないと思ったし、ひょっとしたら私の目がおかしいのかと思って…」
それでも。
夫の声に出さないことばが響いた気がしました。
たとえ、おもちゃで、スライムで、作り物だと思えたとしても。
「轢けないだろう…?」
「うん…」
帰れない……?
私は頬に零れた涙をこすりました。
「あいつら、待ってるよ」
「待ってるね」
私は、子どもの顔を思い出しました。
おかあさん達、遅いね。おなか空いたな。
気に入りのテレビを見ていても、きっと心配しているに違いありません。
暗闇を機嫌よさそうに走るユリの車は、花びらを落としても落としても、次々新しい花びらをまきながら、どこへとも知らぬ場所へ私達を誘い込んでいくようです。
きっとこのまま限りなく、あの車はユリの花をまきながら、私達を遠くへ、もう子どものところへ帰れないほど遠くへ連れ去っていくつもりなのでしょう。
おかあさん、遅いな。
もう一度、胸の奥に子どもの声が響きました。
「車、止めてよ」
私はぐい、と奥歯に力を入れて噛みしめました。
「やだよ、あんなのが転がってる中に止まるのなんて」
「いいから止めてよ。怖いなら、目を閉じてて。で」
シートベルトを外しながら、私は夫に言いました。
「場所、変わって」
「どうする気だ、おまえ、運転できないだろ」
「でも、教えてくれたら、少しはできるよ」
夫は凍りついた顔で私を見ました。
「このまま、どこへ連れてかれるのかわかんないでしょ。でも、そうしたら、あの子達、ずっと家で待ってるんだもん」
私は零れる涙を放ったままで、夫のシートベルトを外しにかかりました。
「そんなの、いやだからね。だから、あなたができないなら、私が轢く。女の方が思い込みは強いんだよ。あれは、生き物じゃないの。あれは、花びらか、まあいいとこ、スライムか、宇宙人なの」
ぽかんと夫は口を開きました。アクセルを踏んでいた足からも力が抜けたようで、がくんとスピードが落ちました。
「私は、宇宙人より、あの子達を優先するの」
本当のところは、私にもできたかどうかはわかりません。けれど、そのときは、何が何でも家に帰るつもりでしたし、それを遮るものは何であろうと押しのける覚悟でした。
「女は、強いな」
夫がふいに疲れたような苦笑いを浮かべました。ゆっくり前に目を戻し、私達がスピードを落としたのを警戒するように一層花びらを散らしながら、けれどわずかに速度を落として走るユリの車を見ました。
「わかった。おれがやる」
厳しい声で言って、夫は私を横目で見、また苦笑いをしました。
「おれだって、宇宙人よりあいつらを優先する。だめなら、あいつにぶつけてやる」
私は慌てて夫のシートベルトと自分のシートベルトを締め直しました。
「行くぞ」
少し先に広い交差点がありました。まるで勝利を確信しているように、ユリの車は、再び速度をあげてまっすぐその先の暗がりへ突っ込んでいきます。
あの暗闇はどこに続いているのでしょう。道があるはずなのに、先には街灯の明かりがなく、塗りつぶされたように重苦しい黒が空間をべったりと覆う先には。
私は目を見開いて、まっすぐ前を見つめました。
「おれは帰るぞーっ!」
夫が大声を上げて、アクセルを目一杯踏み込もうとした、その矢先でした。
キイイイイイイイイーッ。
世界を斜めに引き裂くような音をたて、1台の車が左から吹っ飛んできました。白のセダン、交差点の真ん中を通り過ぎようとするユリの車を狙ったように、真横から一直線に突っ込み、ユリの車を跳ね飛ばします。
「うあっ!」
夫が床を踏み抜きそうな勢いでブレーキを踏み、私はシートベルトに体を分断されたように感じました。がっくんと激しく前に振られた頭にきん、と痛みが貫いて、一瞬何が起こったのかわかりません。
ごほっ、ごほごほんっ。
せき込む声が遠くで聞こえました。
体がちぎれそう。今きっと、一瞬心臓が止まったよね。
そんなことをぼんやりと思いました。
ふいに、あたりに音が溢れました。
今の今まで、町中を走っているのは死体の花びらを撒いているユリの車と私達の車しかなかったような静けさに覆われていたのに、いきなり周囲が明々とした光に満たされ、蜂が唸るような騒音に囲まれて、私も夫も茫然としました。
「おい、大丈夫か!」
気がつくと、夫の側の窓ガラスを叩いて叫んでいる警察官の姿がありました。
「あ、ああ、はい、あの」
夫がのろのろした動作で窓を開けると、初老の警官は眉をしかめ、車の中をのぞき込みました。
「無事らしいな。とりあえず、免許証」
いつもなら文句を言い返す夫が呆けた顔で胸元を探りました。差し出された警官の手に無言で免許証を乗せて、二度三度瞬きをしました。
ああ、生きている。
ぼんやりとそう思いました。
「まったく、とんでもない奴がいたもんだよ」
警官は夫の免許証を見ながら、苛立たしげな疲れ切った顔で交差点を見やりました。
「こんな夜中に何を考えてんだか。交差点にあんなスピードで突っ込んでくるなんてな。あんたはよく止まれたもんだ」
夫と私はそろそろと前方を見ました。
ユリの車の横腹で、白のセダンは巨大な蛇に突き立った刃物のように見えました。あれほど咲き誇っていたユリの花はどこにもなくて、紺色の地に掠れ萎れたような緑の筋が描き殴られているだけの車になっていました。
集まったパトカーや救急車の間で、よろよろと車から離されていくのはセダンに乗っていた男のようで、ユリの車の運転手らしい姿は見えません。
「あの…」
夫が不安そうに警官を見ました。
「うん? ああ、もう帰っていいよ、後でまた、話を聞くかもしれないが。あっちの」
警官はユリの車の方を顎で示しました。
「運転をしてた奴を見てないか? いないんだ」
私は夫と顔を見合わせました。
ああ、やっぱりいないんだ、誰も。
そんな気が、しました。
夫が黙って首を振り、警官が溜息をつきました。
「そうか。突っ込んだ奴も何だかわからないみたいだしな」
呟く警官の後ろで、両脇を警官に支えられてパトカーに乗り込む男が、泣きながら首を振っていました。ばさばさに乱れた髪の毛、血の気を失って虚ろな表情、何かの芝居のセリフのように、繰り返し訴えているのが切れ切れに聞こえてきました。
「本当、ほんとうですよ、何か、妙なのが走ってたんだ、ずっと俺の前を、ずっと走ってたんだ、どこ行ってもいやがるんだ、だから、やるしかないって。ねえ、やるしかないでしょ、ねえ、あんただって、やるよ、きっと」
「錯乱してるんだな」
警官が忌々しそうに吐き捨てました。
けれど、私と夫には。
やるしかない、きっとあんただって、やるよ。
そう、そのとおりだったのです。
「子どもが待ってるんで」
夫が振り切るように言いました。
「うん? こんな夜中に子ども放ってるのか、ったく、最近の若い奴は」
不愉快そうにぼやく警官に夫は容赦なく窓を閉めました。エンジンをかけながら、そのエンジン音に紛れるように低く、
「やるしかない、きっとあんただって、やるよ」
そう、呟きました。
家に戻ったときは、もう真夜中でした。
子ども2人はソファの隅で泣き寝入りに眠っていました。おなかが空いたのでしょう。おやつの箱があけてあって、ポテトチップスとゼリー、冷蔵庫のパンとハムがなくなっていました。
丸くなって眠っている2人が、かわいそうやら愛しいやら、夫とそれぞれに抱き上げて、ベッドの中へ入れてやりました。
それから、車から降ろしたあの店の商品を全部、中身も見ずに袋の口を堅く縛って、それからもう一度別の袋に押し込み、やはりきつく口を締めて、外のゴミ箱に捨てました。
「明日もう一度買い直しか」
「もったいないと思う?」
「絶対に思わない」
夫は疲れた顔で首を振りました。
「それに、二度と、あの辺には行きたくない」
私は壊れかけた店名と、異様に静まり返った店を思い出しました。
「あの店、あるかな」
「確かめるのも嫌だ」
2人でその後、台所のテーブルに座り、ビールを開けました。
「結局、何だったんだろうな」
「あのままだったら、どこに行ったのか、よね」
「あいつも前にあの車があった、って言ってたよな。何台もあるってことか?」
「さあ」
紺色に白いユリの咲き乱れた、ミニバン。
「あの交差点、越えてたら」
私が呟いて、夫は首を竦めました。
今、こうして、あの夜の事を思い出して、改めて私は思います。
あのユリの車が何もので、あの散り落とされた花びらが何であるにしても、もし、もう一度あの車に会ったとしても、私はもう怯むことはないでしょう。
あの交差点に突っ込む直前の気持ち、この先何が起こるにしても、私は子ども達の元へ戻るんだという気持ちを思い出せば、怯むことなんてできないとわかったからです。
やるしかない、きっとあんただって、やるよ。
夫が呟いたあのことばは、私の決心そのものです。
そうして思い返したとき、あのユリの車は、人に最後の決意を迫るものなのかもしれないと思えます。
交差点の先に待っていたものに、全ての終わりのときまで、引きずられていくだけなのか、それとも自分で道を開いていくのかと問われた気がするのです。
あのユリの車は、あるいはひょっとして、何かが足りないだけだ、いつかはすばらしいことが起こって窮地から逃れられるのだと自分をごまかしていた私自身が呼び出したものなのかもしれません。
そう、あの果てしない暗闇の彼方から。