4,死のうとした日に君と出会った
優しく綺麗な月明かりが暴力的なまでに暗い夜空を照らしている。
絶望の中でこそ世界は美しく輝き出すとは良く言ったものだ。
まあ、どうでもいいか。
先程まであった喉の渇きは、水も飲んでいないのに無くなった。
撃たれた筈の体は何処からも血を流していない。
そもそもが痛みすら感じていないのだ。
俺はもう人ではない何かなのだと嫌でも実感させられる。
俺は一体何者になったのだろうか。
いや、もう考えるのはやめよう。
どうせ考えても、何かが解る訳でも、現状が解決するわけでも無いんだから。
全て、どうでもいいのだから。
意味もなく立ち上がって橋の中央に向かって歩き出す。
死のう。
思えば悪くない人生だった。
満足したと言えば嘘であるが、後悔することも何もないのだから。
それに、元々俺はあの時に事故に遭って死んだ命だ。
たまたま運良く……いや運悪く生き延びただけで、本来は終わってしまったこの命だ。
自然に戻すのが通りだろう。
橋の中央、一番高い所に着いた。
川に月が映り、光の道が出来ている。風がそっと身体を吹き抜け、心地のいい静寂が辺りを包んでいる。
本当、厭になるくらい美しい世界だ。
水没死は苦しいと聞くが、嫌なことがあったこの世界に溺れながら死ぬのは皮肉が効いてて悪くない。
さあ、死ぬか。
欄干に足を掛けて身を乗り出そうとする。
その時、対岸から人影が近づいてくるのに気がついた。
俺は乗り出した身を引っ込める。
ここで川に飛び込んだら、あの人に迷惑がかかるかもしれない。
もしからしたら、川に飛び込んだ俺を助けるためにあの人も飛び込むかもしれない。
それは駄目だ。いくら嫌なことに会ったとは言え、他人を巻き込んでいい理由にはならない。
仕方ない。あの人が渡ってから再度飛び込むことにしよう。
そう思った俺を知ってか知らずか、その人ーー女性は俺の傍、つまりは橋の中央まで来ると立ち止まってしまった。
……気まずい。
なんで立ち止まるんだこの人。てか、俺の事気付いてるよね。
こっち見てるもんね。何で俺の姿を見て驚かないんだこの人。
彼女は虚ろな目をして俺の事を見ている。なんなんだこの人。
あっ、何言ってるか聞こえないけど何か言ってる。何だって。
気になっていると彼女はいきなりお辞儀をした。日本人故の癖で、つられて俺もお辞儀を返した。
彼女はそのまま靴を脱いでその下に手紙を置き、欄干に足を掛けて身を乗り出し、
「って、ちょっと待てぇぇ!!」
「ヒャァァイィィ!!」
彼女は悲鳴をあげた。
構うものかと、俺は彼女を欄干から降ろす。
すぐさま彼女の肩を掴んで頭に思い付いた言葉を端からそのまま声に出した。
「何で危ないことするの、死にたいの。そんな事しないでよ。君はまだまだ若いんだからさ。可能性一杯だよ。この世界も綺麗だよ。嫌なこと合っても立ち直れるんだよ。何でも出来るんだよ。頑張れ頑張れ出来る出来る絶対出来る。信じてやればきっと叶うんだって。キモチの問題だって。世間は冷たいかもしれないけどだからこそ諦めちゃ駄目なんだよ」
死んで欲しくないのだ。生きていて欲しいんだ。
彼女が今、すごく困惑しているのが分かる。てか抵抗されてる。
白い人の形をした塊から、急にこんなことを言われているのだから。
だからなんだ。死んで欲しくないのだ、俺は!
彼女のように、絶望した顔をしている人には。
「ッツ、はなしてっ!」
彼女は俺を突き飛ばす。渾身の力だったので耐えきれずに吹き飛ばされて俺は反対側の欄干に背を着けた。
彼女の息が乱れている。
その目は溢れんばかりの敵意に満ちていて恐い。
それでも俺は彼女から目を逸らさない。逸らしてはいけないのだ。
「なんで、なんで私を助けたの?」
剣呑な眼差し。
まるで、世界中全てのものから否定されたのだと、そう口にしているかの様に思えるほど、重い言葉。
「……君みたいな、君みたいな絶望しきった顔の人が死ぬ所をもう見たくないから」
だから俺は正直に答えた。
「ッ、なによそれ。そんな自己満足に私は助けられたの!」
彼女の心が伝わってくる。
それはとても苦しくて、悲しくて、今にも壊れてしまいそうな程細く、脆い怒り。
折れてしまったら終わってしまうその怒りを彼女は必死に繋いだ。
「そんな偽善に私は付き合わされたの! もういいんだよ、ほっとけよ。助けてくれるならもっと早くに助けてよ。私にはもうなにも無いんだ。毎日必死に頑張ったのに、耐えたのに、その全てが全部失くなった! 返してよ、住む家も今日のご飯もお金も服も衣装も、私の夢を!」
彼女の言葉は更に紡がれる。その怒りを、苦しみを、悲しみを途切れさせないようにと。
「それが出来ないんだったら、このまま死なせーー」
「それは出来ない!」
俺は彼女の言葉に食い気味に強く言葉を被せた。
彼女の気持ちは分からないでもない。
彼女の言葉に籠った思いの訳をついさっき、俺は身を持って知った。
「辛いよな。全てが自分の敵になったみたいなそんな感覚。まるで全てが自分を否定しているんだって、解るよ」
立ち上がって二、三歩進み、彼女との距離を縮める。
「だったらーー」
「だとしてもそれは出来ない!」
それでも俺には彼女の行動を許す事は出来ない。
深い理由はない。単純に嫌なだけだ。
子供がお菓子を買って貰えずに泣き出す。それと同じくらいには嫌なだけの、だだの我が儘だ。
偽善だろうと何だろうと関係ない。俺が嫌なのだから。
だってもう……、もう二度と。
「二度と見たく無いんだ。目の前で君みたいな顔をした人が死ぬところを」
俺は彼女の肩をもう一度掴んだ。
俺は今どんな顔をしているだろう。きっと情けない顔に違いない。だってこれは俺の胸に刻まれたトラウマなのだから。
彼女の瞳を真っ直ぐ見る。綺麗な瞳だった。夜空の瞬きも、そこに浮かぶ月明かりさえも及ばないほどに綺麗な瞳。
そこに映った俺はやっぱり白い塊で、よかった。
元の俺の顔だったら、ほんとに説得しようとしてる人間かと言われるほど、情けなく泣き出している筈だったから。
「だからねぇ、自殺なんて止めようよ。命は一つなんだからさ。入水自殺なんて苦しいだけだよ。それにあれ、酷いんだよ。お腹に水が流れ込んで、色々垂れ流したまま死んじゃうんだよ。女の子なんだからさ。そんな死にかた嫌でしょ」
だから捲し立てて彼女に言った。敢えて明るく、快活に。
だって嫌じゃないか、辛気臭いのなんて。
それに、彼女に死んでほしくないのは本心だ。
間違う事なき本心だ
「ね、だから止めようよ。お願い!」
渾身の願いだ、届け!
「……プッ。アハハハハ。何で死神が」
良かった、届いてくれたみたいだ。
そうだ、そうなのだ。笑うのだ。笑っていれば、死にたくも無くなる。辛い時こそ笑うのだ。笑う門には福が来るのだ。
在りし日の辻柳さん(バイト先の独身女性のお姉さん(三十路))がそうであった様に彼女はもう大丈夫だろう。
「ところで、死神というのは?」
「え、ちがうの?」
二人して固まってしまった。気不味い空気が流れる。
「あっ、俺の事? 違うよ違う違う。俺はこれでも人間だよ」
おどけた様に繕って言った。
見た目は完全に真理の人で完全な人外なのだがね。
「いやいや、もっと信じられないわ」
ご丁寧に首と一緒に手まで横に降って否定してくれた。
うん、ありがとう。俺もそう思うよ。
でもやっぱり、分かっていたことだけどちょっと悲しいな。
俺、人外になっちゃったよー。
やっぱりさぁ、こういうのってどうなのよ。どうすんの。転移者がのっぺらぼうの特徴無夫、なんてねぇ。
欄干に寄り掛かって、少しの間そうやって悶々と落ち込んでいると、彼女が隣に来て同じく欄干に寄り掛かった。
月明かりに照らされた彼女は本当に綺麗で、儚げなその表情は正しく美女と呼べるものだと思う。
仕事モードの店長と同じくらいか?
「私ね、歌手なの。……見習い、だけどね」
彼女はそう口にすると、ポツリポツリとこれまでにあった事を話してくれた。
「母さんが有名な歌手でね、いつもあの目映い世界で、何よりも眩しい光と拍手を全身に浴びて、誰よりも輝いていたわ」
「当然その娘である私は母の姿に憧れたわ。いつか私も母さんの様にってね」
「必死に努力したわ。何度も声が枯れて、体が自分の物じゃないくらい動かなくなっても、私は諦めなかった」
「……いえ、諦め切れなかった。目を閉じればいつも浮かび上がってきたの。静寂の中でスポットライトを浴び、お客さんの喝采を一身に受けて、夜空の一等星よりも輝いている自分を」
「毎日を貧相な食事で過ごしても、オーディションに何度落ちても、下手くそって言われても、まだやれる、頑張れるんだって自分に言い聞かせて稽古に励んだ」
「やっとだった。初めての公演が決まったの。それも……母さんの最後の公演になった劇場で」
「緊張もあったし怖かったけど、なによりも嬉しかった。これから私も母さんみたいにって」
「でも、所属していた劇団の新しいオーナーが借金を作って逃げちゃってね、借金のカタにと劇場や道具は差し押さえられたわ」
「結局公演も中止になって私は見習いのまま。行くあてなんて何処にもなかった」
「なんとかその日を暮らす為に色んな事をした。あっ、体は売ってないわよ。病気とか怖いんだから。……それでも一日にパンを一つ買えるかどうかの僅かな稼ぎだった」
「まだ大丈夫だ、まだチャンスはあるって何度も思い込んだ。次のチャンスを逃さない為にって、寝むる時間を削って一人で毎日練習した」
「そんな生活を一年くらい続けてから、運良く次の劇団にも入れたの。ま、それも今度は火事で全焼。それも私の公演日のその日に」
壊れた蛇口みたいにポツリ、ポツリと語られたその言葉は止まること無く。そして彼女の口は。
「どう、笑えるでしょ?」
その一言を最後に吐き出す事を止めた。
とても笑えるような内容ではなかった。
どんな理不尽だ。どんな仕打ちだ。誰が彼女をそこまで追い詰める。
誰に向けても意味がない、向けようがない憤りが胸に渦巻く。
それが彼女の運命だと、そういう定めだと誰もがそう言うだろう。
そういう物だと理解できるし、分かってもいる。
けど、だとしても割り切れない、許せないんだ。
何故なら彼女は無理に笑っているのだから。
まだ涙の痕が消えていないその頬を新たな雫が伝っている。
そんな彼女の姿があまりに美しいほど、痛々しくて……。
俺は彼女の問いにこたえられなかった。
そんな俺を見て、彼女の強がりは続く。
「ここ、いい場所でしょ? この時間は誰も来ないし、河に映る月がこの辺で一番きれいに見えるんだ。まるであの世に繋がる道みたいに。だからかな、ここって魂が帰ってくる河って呼ばれてるの。あの世に旅立った魂がこの道を通って再びこの世へ、ってね」
確かにいい場所だ。俺もここで死んでしまおうと思ったのだから。誰にも見つからずにひっそりと、美しい景色の中で死んでいく。それくらいに、ここはいい場所だと思う。
しかし、あの世から死者が帰ってる筈の場所があの世に向かう為の場所になっているというのは。
「それはまた皮肉な事で」
「でしょ。そんな場所にあなたみたいな人が居たのよ」
おどけたように言うその様は、本心からだったのだろう。
幾分か、彼女の痛々しい笑顔が自然な物に見えた。
「ああ、それでか。俺のことを死神だと思ったのは」
「そう言う事。お辞儀も返してくれるんだからきっといい死神さんだって安心したのに」
「生憎と黄泉への渡り方は心得て無いんでね。知っているのは横断歩道の渡り方さ」
「おうだん、ほどう?」
……やってしまった。
この世界には横断歩道なんて物は存在しないんだった。
くっそぉ、悪い癖が出てしまった。それもこれも西田のせいだ。あいつがことある事にアメリカンジョークを言って来るからつい気取ってしまったじゃねぇか。
うわー恥ずかしい。あまりの恥ずかしさに身が悶えてしまうぜ。
そうして考え込んでしまったので、夜の静寂が再び辺りを包んだ。
それは時に、ある種の恥ずかしさを浮かび上がらせて来るものでもあって。
『『 ギュルルルル』』
そんな静寂を切り裂いて空腹を告げる鐘の音が響いた。
誰の物か。当然二人の物だ。
顔を上げると顔を赤くした彼女と目があった。
沈黙。
僅かに時を置いて、俺達は二人して笑った。