1,憧れの世界へ
頭上高く広がる青色に、大きな玉が世界を照らし、白く大きい物が悠々とその青を泳いでいる。
目前にはいっぱいの緑が広がり、所々に茶色や黄土色と言った様々な色が広がっている。
まるで、作り物のように。
作り物のような景色は、今まで観てきた物と何処か違っている。しかしそれは、俺にとってよく知っているものであった。
それが何であるのかは、目前のこの景色を呆然と眺めている俺は知っていた。
青く広がっている物が空という物で、遠く頭上に浮かぶ赤い玉が太陽、泳ぐ白い物体が雲であること。
目前に広がる緑と茶色は、生い茂っているのは木と草であり、ここは深い森であること。
自身の足元にあり、現在踏み締め立っているのは土であり、どういうわけかここだけぽっかりと草木がないということ。
目の前に写るその全てが何でどういった物であるのかはわかっていた。
わからないとしたらそれが、今まで見てきたそのどれともと違っていたからだ。
空は誇張されたように青く、太陽は暴力的なまでにその日射しを放ち、空に浮いてる雲は貼り付けられたようで一見本物ぽくあるが、それが平面であることは見てとれた。
草木はどれも一律で、こんなに深い森であるならもっと様々な種類の植物があっても良い筈であると不自然に思う。
不自然というなら俺の立つこの場所もそうである。これだけ木々が生い茂っているのに、俺を中心にして半径五メートルの感覚で円状に草木が生えておらず、地面が剥き出しであった。
突然変わった世界。
ただそう感じる。
俺は並び立つ木々に歩み寄って、じっくりとその木の葉を観察する。
そうして、一つの俺が慣れ親しんだある記憶に行き着いた。
まるで、アニメの様な葉っぱだと。
俺はもう一度、辺り一面を見直した。
光指す太陽、広がる空、白い雲、生い茂る草木、剥き出しの土。
そのどれもが、今まで観てきた物と重なって見える。
そして、この状況。最近流行り始めたある事象に非常に似ていた。
自身の目前に広がるこの景色、自身の置かれた状況、そして、こうなる前に何をしていたか。
俺は、一通り慌てふためいて混乱し、全てをふまえて熟考して、そしてある一つの結論に達したのだった。
「これ、異世界転移ってやつじゃない?」
ーーー少し前ーーー
二次元の世界に憧れる。
それは誰しもが思い描く心情だ。
誰だって一度は思うだろう。
あんな漫画の世界に行きたい。
あんなアニメの世界で生活したい。
あんなゲームの世界で冒険したい。
全人類、老若男女の誰しもが一度は思い描く理想が、そこにはあるのだ。
しかし、世の中は無情だ。
どれほど強く願ったって、どれほど思い焦がれたって、俺達はこの世界でしか生きていけないし、生きていかなければならない。
それが現実であり、日常なのだ。
俺こと西田昌矢は、そんな事を思いながら生きる大学二年生だ。
始めて二次元の世界に触れたのは幼稚園時代だった。
TVに映るアンパンの頭をしたヒーローに憧れて、何度もその真似をしていた。
親父の影響からかロボットも好きだった。お陰で小学生の頃にはプラモデルを買って組み立てては遊んでいた。
母が漫画が好きで中学の頃には立派な漫画読みであり、その延長で絵も描いていた。お世辞にも上手とは言えなかったがな。
高校の時には気が合う友達が増え、映画にミリタリー、ゲームに小説にと、様々なジャンルにも手を出していた。
大学に進学する頃には一流とは呼べなくても、マルチに手を出してきたそれなりのオタクであった。
「いらっしゃいませー」
そんな俺は今、勉学の合間をぬってバイトに勤しんでいる。
この世は金だ。生きる為にも、趣味の為にも、金は必要なのだ。
今月も新発売のゲームにプラモ、漫画にアニメの円盤にと、様々な楽しみが目白押しだ。
しかし最近思う事がある。
「合計で1,698円です」
俺は、このまま一生を終えるのでは無いかと。
不満とかではない。
確かにこの趣味は楽しい。その事に間違いない。
もし俺の趣味全てを放り出して死ねと言うのであれば、断固としてNOの意思を表示するだろう。
それぐらい楽しいもので、俺にとっては無くてはならないものであり、一生を費やしても良いとさせいえるものなのだ。
だが、そうではないのだ。
俺は大学を卒業した後、勿論働くだろう。
いずれは結婚し、家庭を築いて、爺となって死んでいくと思う。
働いて、金を稼いで、家族を養って、趣味に金を使って、満足してこの世を去る。
いわゆる、普通の生き方だ。そこには不満なんて物はない。
ただ、何故だろうか。
最近俺は、その生き方に言葉では言い表せない何かを感じている。
道はあり、ゴールも視えている。
順調にその道を辿っていっている筈で、それが間違いではない筈だと自負しているのに、ある日突然何もかもがわからなくなる時があるのだ。
さっき買い物をして行った中年のオヤジ。仕事の疲労を顔に浮かべ、それでも踏ん張って働いてるようだった。
隣でレジを打つ店長も、世間一般からすれば大した給料でもない、働き甲斐の無いこの仕事だと思うが、それでも笑顔を途絶えることなく仕事に勤しんでいる。
はたして俺には、そんな事が出来るのだろうか。
この理不尽な世界で仕事をして、皆のように踏ん張ってやっていけるのだろうか。
解らない。解らないから不安なのだ。
だから俺は趣味に走っているのかもしれない。
押し潰されそうで言葉にならない不安の塊。
息が詰まるような感覚を覚えるそれを、俺のオタク趣味は忘れさせてくれる。
「西田君、今日残れる?」
不意に店長が聞いてきた。
つまるところ社畜の彼女は、バイトの筈の俺にも良くこうやって残業を強いてくる。
確かに金が入ることは嬉しいが、今日は無理だ。
「無理です。今日はどうしても外せない用事がありますので」
俺は即座にそう返す。
今日は、今日だけは無理なのだ。なぜなら今日は日曜日。もうすぐニチアサが始まってしまう。
オタクとして、リアルタイム視聴を逃すのは戦士の背中の傷並みに恥だ。
「そうか、それなら仕方ないよね。なら石岡君が来る6時までよろしくね」
そう言った店長の顔は明らかに疲れていて、それでも無理に笑顔を取り繕ったその顔は、明らかに限界を向かえていそうだった。
まあ、彼女も疲れているのだろう。この前なんか7日間連続勤務の18時間労働だったからな。
あれはまさしく火の7日間だった。客と言う名の王○の群れを次々に捌いていく彼女の姿はさながら巨○兵のような迫力だったので、俺達バイトの間では巨神○があだ名だった。
まあ、彼女の体の一部は○神兵と言うよりはウォール・マ○アでナイアガラなのだが、このことを言うと強制的に心臓を捧げよ状態になってしまうからバイトの達の間の禁句であった。
そのせいか、この店にはグラマラスな女性が乗っている雑誌を見掛けることが少ない。それが気になった純粋な新人であった石岡は、その事を店長に伺いたてまつったところ、焼き払われて調査兵となって壁外調査という名の1週間連勤となり、心臓を立派に捧げた姿となってしまった事で、皆全てを察した。
石岡も今や立派なスレンダー派になっている。
全く、腐ってやがる。早すぎたんだ。
「わかりました。で、店長はもう休んで下さい。てか帰って下さい。後は俺と石岡でどうにかしますから」
でもまあ、そんな彼女も人間だ。火の7日間の他にも、彼女の社畜伝説は山ほどある。おそらくは俺のシフトが終わった後でもまた働くつもりだったんだろう。仕事熱心な人だ。
加えて美人だ。そんな彼女を支えるのは悪くない。
まあ、俺は趣味の方を優先させるんだがな。
「そ、そんな訳にはいかないよ。私、店長だから」
この人は、一体どうしてここまで頑張るのだろうか。せっかく人が気遣って、たまには早く帰れと言っているのに、ぐぬぬ。
これだから洗脳された社畜は。
「いいんですよ。てか店長、今日も定時過ぎますよ。働き過ぎなんです。それで倒れたりでもしたら、皆慌てて仕事どころじゃなくなるんですから」
まあ結局のところ俺達は、彼女の事が好きなのだ。
なんの因果か、この店には個性の強すぎる奴らが多すぎる。
それこそ、物語なんかの主人公よりも強烈過ぎて、逆に主役を奪うような奴ら、そんな奴らばっかりである。
そんな奴らは大抵、自分の居場所を探していたりする。
周りからの理解を得られない、ハブられる、イジメ、引きこもりetc……。
そんな暗い話も、何故かこの店では珍しくない。俺みたいに充実した普通のオタクライフを送ってきたやつの方が珍しいくらいだ。
まあつまり、世間一般で言うところの付き合いづらい人間に分類される者達ばかりなのだ。
人と見なされず、社会に拒まれ、心を折り、自分自身を嫌って、世界から引きこもった。
あるいは、誰にも理解されず、共感されず、それでも強くあろうとして世界から離れた。
そんな奴らでも、店長は分け隔てなく、厳しく、優しく指導し、一人の人間として俺達に接してくれた。
人格もあり、仕事ぶりも一流。
ここまで完璧だと、年齢、性別関係なく、皆羨望を抱き、彼女の力になろうとしている。
そんな皆の信頼を一身に受ける彼女が、長期間店を抜けるとなると、全員がバラバラになってしまうのは容易に想像できる。
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな」
観念したのか、諦めたように笑いながら店長は事務室に向かった。
数分後、制服を着替えてラフな服装に身を包んだ店長が出てきた。
やっぱ、美人なんだよなぁ。この人。
何度みてもそう思う。整った顔立ちには疲労の顔が見える。仕事の時は一纏めにしていた綺麗な麻亜色の髪も、ほどいたせいか端々が跳ねてボサボサとしている。バランスの取れたスレンダーな体型とそれを引き立たせる凛とした立ち姿は、猫背になって、手をダラ~ンと降ろしている。
仕事中はコンタクトだが、終わると長年使い込んだことがわかる大きな額縁眼鏡は、片方ずれていてちゃんとかけられていない。
一目で疲れていると言うことがわかる。だが、それでもこの人が美人と言うことに変わりはない。
それは間違いないのだ。
おまけに優しく面倒見が良く、それでいて大切な所はしっかり教えてくれ、叱ってくれる、と内面まで良く出来た美人だ。
「じゃあ、お先に。あっ、そうだ、今週の土曜日って空いてる?」
疲労にまみれた顔に笑みを浮かべて、手を降って帰ろうとしていた店長は、思い出したかのように口を開く。
「えっ、今週ですか? すみません。その日はちょっと……」
突然なお誘いに少し焦りと嬉しさが出たが、直ぐに思い直す。
その日は確か、ミリタリーな仲間達とのサバイバルゲームの約束が入っていた筈だ。
俺は約束を守る男だ。もしダブった場合は、先に約束した方を優先するのが俺だ。後から来た人が誰であってもそれは変わらない。
しょうがない、丁重にお断りをしよう。
「断ってばかりですみません。その日も用事が入ってまして」
申し訳ないと伝えると、店長は困ったような、もしくは残念といった笑顔で言った。ひどく落胆しているようにも見えた。
「ううん。こっちこそ急にごめんね」
一体、どうしたんだろう。彼女がわざわざ人を誘うなんてあまり聞いた事がない。土曜日は確か店長も俺も休日だった筈だ。
まさかデートの……、いや、そんな事はないだろう。
オタク特有の妄想だ、エロゲーじゃあるまいし。
おそらくはまたシフトチェンジか、休日出勤の頼みなのだろうと思う。
しかし、結局俺は事実を確認する事が出来ぬまま、彼女は店を出ていってしまった。
妙な気だるさと静かな店内。
一瞬だけ目に写った、彼女の悲しそうな笑顔。
何かが心に刺さった気がした。
ーーーーーーー
店長が帰ってから数時間がたった。
空がゆっくりと明るくなり、様々な人間が来店し始める。
深夜の仕事が終わったすごい衣装のおばさんとその後ろにいるやたら背伸びしたお姉さん。
金髪にスーツの兄さんも居れば、かっちりとワックスを決めてしっかりと背広を着こなした兄さんもいる。
酒を飲み過ぎて顔が真っ赤でウ○ンを買っていく者。
毎朝この時間に、煙草を2つ買っていく厳ついおっさん。
今日という夜が終わり、今日という朝が始まる。
1日の終わりと始まりが入り交じるこの時間が、俺は何となくだが好きだった。理由はない。ただ何となくなのだ。
しかし、いかんせん客足が多くなってきた。そろそろ一人で回せなくなってきたぞ、石岡はまだか!
その後、石岡が来たのはラッシュの落ち着いたのは9時頃で、残りの仕事が片付け終わる頃には10時を回っていた
お陰で無事、ニチアサは見逃してしまった。
石岡はどうやら、3日連続の徹夜麻雀をしていたらしく、今日は寝坊をしたらしい。
石岡! 貴様は絶対にゆ゛る゛さ゛ん゛!!
理由があんまりだったので、石岡には残りの仕事を全てを頼んだ。もとい、押し付けたとも言う。
問題があるかもしれないが、本人がやると言っているのだからまあ良いだろう。そもそもの原因は向こうにあるのだから。
それに、ニチアサは録画しているからそこまで怒ることではない。リアルタイムは逃したが、もともと恥の多い人生だ。今さら一つ増えたところでなんて事はない。
真のオタクとは二重三重に手を絡ませ、自身の恥を忍んでも目的を達成する者である。
という訳で後は家に寝る為に帰る訳なんだが、今週は連休で毎週月曜日発売の週刊誌が入荷していたのを思い出したので、ついでに買って帰るとしよう。
週刊誌は立ち読みすべきではない。マナーとしても、オタクとしても。
そんなわけでレジに運んだら石岡が。
「あっ。いいっすよ。お詫びってことで」
と、ジャ○プを奢ってくれた。
こんなところがあるから、こいつは憎めないやつなのだ。どうしようもない阿呆であるが。
まあ、既に仕事を押し付けてる訳だし、別段俺も気にしてはいないのだが、ここは遠慮せずに貰っておくとしよう。
店を出ると、薄暗かった空には日が完全に昇りきっていて、清々とした晴天が広がっていた。
良い天気だ、加えて労働の後の疲労感が達成感へと代わり、気分も良い。
所謂、スゲー爽やかな気分だぜ。まるで、新しいパンツをはいた正月元旦の朝のよーによォ~~ッ。
こんな日はアニメ○トにでもふらっと寄って見たいものだが、いかんせん深夜勤務明けの夜明けだ。
凄く眠い。
今俺の横にブービエ・デ・フランダースがいたら「僕はもう疲れたよ」と言えるくらいだ。
いかん、眠すぎて色んな死亡フラグが頭の中をぐーるぐーるしてる。急いで帰らないと。
左手に○ャンプの入ったレジ袋を持って、俺は帰路についた。
帰り道は何時もと変わらない。下宿先のアパートからバイト先のコンビニまで徒歩10分から15分。距離にして1km弱と言ったところ。
昨日のお客さんの置き土産を片付ける繁華街を抜け、やたら長い踏切を渡り、やたら吠える犬とそれをやたら煽る猫がいる住宅街を抜け、大きな道の横断歩道を渡るという、何時もの道のり。
もう一年も通ったこの道だ。今さら特別な事など何もない。
つまりは通い慣れた道だ。
だから油断していたと言うわけではない。そもそもあれはどうしようもなかった。
バイト先と下宿の間にある大通りの交差点。
歩行者信号が赤のまま、俺は青に変わるのをなんとなく開いたインターネット掲示板を眺めながら待っていた。
スレタイは最近流行りの異世界転移・転生についてだった。
内容は、どうやったら異世界に行けるのかという、下らない事を議論しているもので、やれエレベーターでどうするだの、前前前世の記憶だの、異世界の神だの、お決まりのトラックだのといった意見が飛び交っていて、眺めてる分には面白い。
そんな中に《マジレス、これな≫とURLを貼られているのを見つけそのサイトを覗く。
サイトのタイトルには『2次元の世界への行き方』と、ネタとしてなら面白い、しかし実際にはかなりイタいような見出しである。
まったく、誰がこんなサイトを作ったのか。Tep Nyarlatho?
聞いたことないな。
まあ、俺にはこういうのに詳しい奴や、こういったスレに敏感な知り合いが結構いる。
今度のサバゲで会うからその時のネタにでもするかと、そんな変わったサイトの中段までさっと目を通した所で、車道の信号が黄色に変わったのを視界の端に捕らえる。
ネットを閉じて携帯をポケットにしまうと、車道の信号が赤に変わり、歩行者信号が青に変わってとおりゃんせが流れ始める。
「おーい、西田くーん」
反対側の横断歩道から聞きなれた女性の声が聞こえ顔をあげる。
今朝方仕事を終えて帰った店長の姿がそこにあった。右手を振って左手には手提げ鞄を持っていた。
珍しい、こんな所で会うなんて。俺はラッキーだ。男なら誰だって綺麗な女性から声を掛けられるのは嬉しいのものである。
俺は早足に彼女の元へ向かおうとする。
その時、俺の目はまた、視界の端にあるものを捕らえてしまいそっちに目を移した。
赤い信号。2トントラック。そして、運転席でぐだっとして口から泡を吹いている運転手。
俺は視線を店長に戻すと彼女もその事に気づいているようだ。
だが、動けていない。
トラックは右に曲がり、店長の方へと突っ込んでいる。
地面を蹴った。
二歩、三歩。まだ彼女には届かない。
トラックはすぐそこの距離にいる。止まる気配もなく、スピードも上がっている様である。
四歩、五歩。ダメだ、間に合わない。いや、この距離なら。
俺は右手を伸ばし、彼女の腕を掴むと、彼女と位置を入れ替えるように彼女の手を引いた。
彼女は呆気にとられたように口を開けており、左手に持っていた鞄は彼女の手から離れ、俺の真横を落ちている。
トラックはすぐそこにまで迫ってきている。心なしかスピードが遅くなったようだ。
彼女はギリギリでコースから外れたようで、直感的にそうお思えた。
サバゲで鍛えた反射神経と直感が役に立った。
よかっーー。
トラックは速度をそのままにして左手に持ったジャン○諸とも俺を引き飛ばし、俺はそのまま奥の建物まで撥ね飛ばされ背中を強く打った。目の前には俺を撥ね飛ばしたトラックが目前に迫ってきていた。
あっ、これあれだわ。異世界転ーー。
最後に見た気色は清々しい迄に晴れ渡った空と空中に舞う店長の荷物の中に入っていたと思われる紙の束、そして、暗闇だった。