86.向日葵の手紙
「おめでとうございます、アスラ様。これでやっと当初の目的を果たせますね」
先ほどまで、意識のない少女の様子を心配していたヴェロニカは、事情を聞いて、手のひらを返したように、さらりと告げた。
向日葵の体を寝室に移して、アスラは自らの部屋へヴェロニカとアリオを呼び寄せた。
机上には彼女の魂が浮遊しているが、二人の目には見えていないだろう。
ヴェロニカの言葉を受けて、アリオの眼光が鋭さを増す。けれど、まるで主人の意見を待つように、彼女は黙していた。
アスラは腕を組み、深く息を吐きながら、彼女の魂を見やる。
いつまでも変わらない、その美しい色をじっと見据えていると、徐々に疑問が浮上してきた。
「何故、向日葵はソレイユのふりをした?」
「契約を意識させるためでしょう。悪魔の契約というのは、物理的な条件でない場合、互いに契約を果たしたという認識が一致することで果たされるものだから、日常の中でただ言葉を伝えるだけじゃ不十分……アスラ様に契約内容を意識させるなら、ソレイユ様のふりをした方が確実性が高いです。今更ながら、この計画のためにソレイユ様の話を聞いて回ってたのかと、僕も感心しましたよ」
淡々と憶測を語る魔法使いの話は、ある種筋が通っているけれど、アスラは納得しきれないでいる。最も強い違和感は、誰にも告げていないソレイユとの思い出を、彼女が知っていたことだ。
向日葵自身の言葉を聞けない以上、考え続けても詮無いこと。一旦、切り替えて別の疑問を投げることにする。
「では何故、向日葵は契約を果たそうとしたと思う?」
「うーん、これから先の生まれ変わりを気遣って……? そんな殊勝な考えをする方ではないと思ってたけど……実際の所、見当がつきませんね」
男性陣の会話に苛立ちを募らせたアリオが、耐えきれずに声を上げた。
「アスラ様はどう思ってるんですか?」
視線がアリオへ集まる。
アスラは頬杖をついて「どうとは?」と威圧的に問い返す。
「向日葵が何を思って、どうして姉様のフリをして、契約を果たしたのか。アスラ様の考えを聞いてるんです」
「わからないからお前たちに意見を聞いている」
「ははっ! 考えてないの間違いでしょ?」
アリオは物怖じせずに自らの主人を笑い飛ばした。アスラの眉間に皺が寄る。
挑発的なアリオの態度に、ヴェロニカは首をかしげるばかりだ。なぜなら、アスラに次いで、ソレイユのことを深く想い、一番あの頃の聖女に会いたがっていたのはアリオで、彼はそれをよく知っていたから。
早く会いたいとせがむでもなく、浮き足立つわけでもない。苛立ちを募らせて食ってかかるアリオの態度は、まさに予想外である。
それはヴェロニカだけでなく、アスラも微かに抱いた疑念だったので、彼女の下僕としての失態に目を瞑り、ただ問いかける。
「お前のその態度も解せないな。生まれ変わりではない、ソレイユ本人と会いたいと懇願しなくていいのか?」
「…………しない。あの子に言ったの、私も私の好きにさせてもらうって。だから私は、ソレイユ姉様を蘇らせることは望まない」
「あんなに会いたがってたのに?」
ヴェロニカが驚きを隠せずに尋ねると、アリオは俯く。両手を強く握り戦慄かせ、身を切るように、痛切な声音で、ゆっくりと吐露した。
「会いたいわよ……会いたい、姉様に会いたい……!! でも、こんな方法じゃダメなの……誰かの犠牲の上に命を得ることを、姉様が喜ぶわけがないじゃない! もう、本当はわかってるんでしょう? 私たちの願いは、とっくに終わってる……姉様が戻ってきたとしても、もう、あの頃のままではいられないの。これ以上、過ちを重ねたくない……」
ソレイユが喜ぶはずがない、というアリオの言葉に、ヴェロニカの顔に影が刺した。反論の余地がなく、彼もまた迷いが生じたから。
アスラの胸の内はわからない。否応に押しつけられる感情は、やはり空虚なようでもあり、繊細なようでもある。あるいは彼は悪魔だから、ソレイユが悲しむと分かっていても、それをさほど悪いことだとは思わないのかもしれない。
けれど、聖女を最も慕っていたこの下僕の、本心の訴えが、響いたと言えるだろうか。アスラは自らの考えを精査してみる。アリオの言った通り、考えてなどいなかった。正確には考えることを先送りにして……否、放棄したかったのだと思う。
アスラは向き合った自身の思いを、辿々しくこぼした。
「私もソレイユに会いたいさ。それが悲願だった。この瞬間のために、永い時間を凌いできたのだからな……」
「姉様はきっと望んでない」
「それでも構わない。私は悪魔だ、憎まれ役だって買ってやるさ」
自嘲気味に告げるアスラ。
ソレイユを思いながらも、それでも意を決していない悪魔の様子に、ヴェロニカは気がつき、問う。
「そこまで決断しているならば、一体どうして、まだこうして悩んでるのさ?」
同意を示すようにアリオも頷いてみせる。煮え切らない態度のアスラが、腹立たしかったらしい。
アスラは悩ましく目を閉じて、両手で顔を覆う。深い息を吐いた。
「ソレイユへの想いに、偽りはない。だが、どうしても、向日葵のことが気になってしまうんだよ」
「気になる?」
ヴェロニカが目を細めおうむ返しをする。
アスラは顔を伏せたままに続けた。
「彼女は何故、ソレイユのふりをしてまで契約を果たしたのか? 魂を盗られるとわかっていてだぞ? まるで見当がつかない。このまま彼女を犠牲にしたら、真相は誰にもわからず仕舞いだ。気味が悪いだろう?」
「……悪魔らしいような、らしくないような悩みですね」
目ざとく警戒心があるのは悪魔らしくも思うが、この自分に都合が良い状況でそんな些細なことを気にしている所は、いささか悪魔らしくないとも言える。
だが言われた通り、わからないのままなのは気持ちが悪いのは確かだ。ヴェロニカも一応は納得した。
そんな中で、アリオだけが冷笑する。
アスラは刹那的に敵意を向けた。
コンコン、と、ノックの音が響き、辛うじて暴力沙汰を回避する。
緊張で思わず息を呑んでいたヴェロニカが、溜め込んでいたそれを吐き出した。
返事を待たず、扉が開かれる。
意に沿わない行動に、アスラが殺気を向けるけれど、乱入者はどこ吹く風で、部屋へと無断で立ち入った。
「辛気臭くやっちゅうのう」
「部外者は引っ込んでい給え」
邪魔をしたのは梅宮だった。
彼は「まあ、そう言わんで」と気のたった悪魔を宥めながら、杖をついて彼の前まで恐れず進む。
立ち止まり、懐へ手を入れながら、梅宮は含みを持った笑みで言った。
「旦那らが悩みゆうき、預かりもんを届けにきちゅうだけじゃ」
取り出したのは、一通の手紙。
それは以前、向日葵から預かっていたもの。
もしアスラが迷うようであるならば、渡すようにと託けられていた。
「向日葵ちゃんから旦那へのラブレターじゃ」
茶化しながら渡されたが、アスラは到底笑える気分ではないし、かえって腹立たしさを増すばかりだ。
それでも、こうなることを想定していた向日葵の手紙には興味がある。一旦は気持ちを鎮めて、アスラは無言で封を切った。
***
(前略)
この手紙を読んでいる、ということは、まだソレイユさんを蘇らせずに迷っているのでしょうね。
今、何故、ソレイユさんを蘇らせる事を知っているのか、疑問に思われましたか?
それとも、鏡の地下室を知っていることから、予想がついたのでしょうか。
鏡の奥に、隠されるように安置されたソレイユさんの身体を一目見て、あなた方の本来の目的はそれなのだと、すぐにわかりました。そして、弔われずに在るのは、諦めきれていないのだということも。
今度は、何故、私がソレイユさんの見た目を、一目で確信できるほどに知っているのか、と不思議に思いますか?
端的に言えば、長い劇場の夢の中で、私はソレイユさんと会い、声を聴きました。
そこで、アスラさんしか知り得ない、ソレイユさんの思い出を知り、彼女から直接、契約の答えを託されました。
ソレイユさんは、私へ声を届けるように願うのではなく、私の意志を尊重してくれました。
だからあの目醒めの日から、私はずっと、どうするべきか悩み、あなた方、そして自らの胸の内と向き合ってきたつもりです。
その結果、私は誰のためでもなく、私のエゴで、この繰り返される営みを終わらせることに決めました。
何故かわかりますか?
正直、私も正当な理由を探してみたけれど、納得できるだけの根拠や理屈を、私自身も見つけることはできませんでした。
でも、確かにわかるのは、私はこの館のみんなが、第二の家族のように大切であるということ。
もし皆さんも私のことをそう思ってくれているとしたら、家族との離別がどれほど寂しいものか、私はよく知っているから、あなた方にそんな想いを、これ以上繰り返し感じて欲しくなどない。
勘違いしないで欲しいのは、これは私自身が、後悔のない選択をした結果です。
あなた方は理由の一端では在るけれど、あなた方にためにこうしたのだとは思わないでくださいね。
これは、私が決めたことです。
以前、劇場から戻ってすぐに、アスラさんへ聴きましたね。
ソレイユさんと私、どちらを選ぶかって。
あの時ははぐらかされてしまったけれど、今、もう一度よく考えてください。
私が私のために決断したように、今度はあなたの番です。
あなたにとって、後悔のない選択をしてください。
私はその選択を尊重します。
それでは、さようなら。
***
無意識にこもった力は、手紙に微かな皺を寄せた。
いろんなところに投げておいた伏線とかの回収が大変です。




