79.緩やかな帰結
「と、まあ、永く生きてきた私でさえ、驚愕の連続だったよ」
「生きて帰れたことが奇跡みたいな冒険ですね」
翌日。まるで何事もなかったかのように、アスラと向日葵はいつも通りの朝食を終えて、約束していた共に過ごす日を満喫している。
向日葵の部屋で、珈琲を煽りながら、アスラは不在にしていた間の奇想天外な武勇伝を語った。
というのも、梅宮の存在をこちら側に引き込むため、向日葵にもあの情報屋が館内を闊歩する旨を伝えた方がよかったから。
「嗚呼、いいや、キミが待っているから最悪の場合は適当なところで手を引いたさ。とはいえ、爆発で地下崩落が起きた時は、梅宮を庇いつつ抜け出すのに肝が冷えたよ」
「苦難を超えて仲良くなったんですね」
「あれはある意味でわかりやすい男だからな。悪魔としての契約は御免被るが、対等なビジネスパートナーとしては悪くない。それなりに話のわかるやつだった」
「過去形にすると亡くなったみたいに聞こえますよ。…………無事なんですよね?」
「足は折れたが、まあ治るだろう。私の魔力で覆ってなければもっと悲惨だっただろうから、完治の折にはそれをダシにこき使ってやるさ」
曰く、梅宮は館の一室で療養中らしい。結構な手厚さに感心する。
向日葵も後日お見舞いへ行こうと思っていると、アスラが続ける。
「ああいう手合いは、野放しにはできないからな。それに、売れるうちに恩を売っておかねば」
「打算まみれじゃないですか」
「一応敬意もあるさ、奴が受けた灯火の加護がなければ、これほどうまく事態は収まらなかっただろう」
「その、さっきも話に出てきた、灯火の王様というのはなんなんですか?」
「あらゆる心持つ実在に寄り添う概念、と梅宮は言っていたな。潜在的に、私やキミの中にも“在る”のだろう」
しみじみ語るアスラだが、向日葵には全く想像もつかない未知の領域の話で、ぼんやりと「へえ」などの感嘆を漏らすばかりだ。
なので、向日葵は珈琲を一口飲んでから、「ところで」と。
「ヴェロニカさんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫か否かで言えば、否、だろうが……あれは持病みたいなものだからな」
今頃犠牲になっているであろうアリオの姿を思い浮かべて、向日葵は苦笑した。
ヴェロニカは、アスラや梅宮が嬉々とする混沌とした状況で、唯一ごく平凡な感性……むしろやや繊細で傷つきやすいメンタルなのに、引き摺り回されてしまったのだ。如何に万能の魔法使いといえど、精神疲労には敵わない。向こうしばらくは館に引きこもって、充電の必要があるだろう。
とはいえ、また緩やかにいつもの日々へ帰結していくのだろう。
穏やかすぎる空気を感じて、向日葵はどこか遠くを眺めながら、ふっと息を吐いた。それはため息にも似ていて、アスラは困ったように笑む。
「話は退屈だったかな?」
「いえ、とても面白かったですよ」
「なら、自分も経験したいと思ったとか」
「え、嫌ですよそんな怖い冒険」
「遠くを見ていたから、てっきり冒険に憧れたのだと思ったが、違ったかい?」
「いえ……ただ、」
ここはなんて“平和”なのだろう。
向日葵は口を噤んだ。
アスラが目を細め、興味深げに「ただ?」と続きを促す。
出かかった言葉を飲み込んで、少女は無邪気なふりをして笑って見せた。
「写真、家族に送ってもいいですか?」
「写真?」
「手紙の件、梅宮さんから聞いたんですよね。何も言わないってことは、家族への手紙は続けても良いのかなって。だったら、私は元気にやってるよって写真を送りたいなあと」
「ううむ、写真か……」
「ダメですか?」
「成長して綺麗になったキミの写真を見た不埒な輩が出ないか……」
「流石にそれは考えすぎですよ」
呆れてみるも、アスラは真剣にぶつぶつと悩ましげに突飛な可能性を列挙していく。
過保護な悪魔の様子に、少女は仕方がないというように微笑した。
「アスラさんも写れば良いんですよ」
「なんだって?」
「この人のところでお世話になってますって、顔が見えた方が家族も安心でしょうし」
「いや、しかし」
「何か問題でも?」
「……その、写真に写ると大事なものを失うというだろう…………?」
「ふふっ、なんですかその迷信、初めて聞きましたよ」
深刻そうなアスラに、何事かと思ったけれど、何か「寿命が縮む」じみた話に思わず吹き出してしまった。
アスラは至って真剣に「悪魔の間では有名な話だったんだぞ!」と。
「それにだ、しばらくの数回はいいだろうが、何年も変わらない姿を送るわけにはいかないだろう? 初めから写らない方が得策だ!」
「なるほど……どこで不審に思われるかわかりませんからね」
「そうだろうとも」
「では、自分用の記念に一枚撮るのは構いませんか?」
「っ」
茶化すように提案してみるも、よほど嫌なのか、一瞬ゾッと青褪めてから、しかし、すぐに照れたように手で口元を覆った。
彼はソワソワと「それはつまり」とこぼす。
「向日葵が私の絵姿を持っていてくれると?」
「そうですね。寝室の机が本だらけで寂しいので、みんなの写真を撮って飾ってもいいかも」
「みんな、か……」
集合写真をイメージした向日葵の言葉に、アスラは少しだけ落胆する。
向日葵は囀るようにくすくすと笑った。
「どうしても写りたくないなら、無理にとは言いません。でも、アスラさんだけいないのは、なんだか寂しいじゃないですか」
「い、いいや、愛しいキミからの頼みだ。無理だなんてことはない。……だがまあ、少し心の準備をさせてくれ」
「みんなの時間も合わせないといけないから、今すぐには無理ですよ」
既に緊張しているのか、アスラはクイッと、ぬるくなった珈琲を飲み干した。
そして、気を紛らわすためか、あるいは向日葵から揶揄われないためにか、アスラは強引に話題を切り替える。
「それはそうと、向日葵の方は変わりなかったか?」
「うーん、そうですね。いつも通りといえばいつも通りで……あ、アリオさんとたくさんお話ししましたよ」
「嗚呼……私が向日葵の側にいるように指示したからな」
「お陰様で仲良くなれました」
「あの意固地な女と?」
驚きで目を丸めるアスラへ、向日葵は頷いてみせる。
そして、ソレイユとの思い出についてを話したことを告げた。それ以外の話もしたが、それは彼女たちだけの秘密である。
「アリオがキミに昔のことを話すとはな……」
「ソレイユさんのひととなりが少しでも深く解れば、契約の詳細についてもわかるんじゃないかと思いまして」
「相変わらず勤勉だな。それにしたって、その意欲にあのアリオが応えたというのは意外だが」
「アリオさんは結構素直な方ですよ」
「まさか! 意固地で堅物な融通の利かない我儘娘だろう?」
「それは多分アスラさんに対してだけですよ」
「全く、尚の事悪い。主人への態度がなっていないな」
お互いにあまり好印象とは言えない主従だが、側から見れば存外、似たもの同士故の衝突なのではないかと、向日葵は内心苦笑した。
夢の劇を思い返せば、ソレイユの取り合いをしていたのだから、好みも似ていて、ある意味こっちの方が兄妹のようにさえ感じられる。或いは、長く共に行動しているからこそ、自然に似てきたところもあるのだろうか。
ともあれ、話を広げて、他にどんなことを話したのかと深堀されたくはない向日葵は、話を切り上げて、今度はこちらから話題を変得ることにする。
アリオから聞いたソレイユの話に相違ないかを確認する名目で、ごく自然に話を切り替えることができた。
そうしてそのまま、今日もソレイユの話を聞く。
話を聞くほどに、その思い出がどれだけ大切なものなのかが伝わり、そして、彼の口ぶりから、そう、彼の中では未だ、何も終わっていないのだとよくわかる。当たり前だ、この館へ生まれ変わりを攫ってくることも、全て、あの頃からの延長なのだから。
アリオから話を聞いた時とは異なる、そんな違和を向日葵ははっきりと感じて、それでも今は、悪魔の語る過去へ、ただ静かに耳を傾けた。
まともな文章が書けなくなってるなと感じます。
ずっと泣いていたところから、少し趣味をできるように戻ってきましたが、今もやっぱり、不意に涙が出てきます。悲しみは消えません。孤独です。




