78.午前三時の凱旋
翌日は料理の授業をした。
とは言え、この館に来る前の向日葵は家事をこなしていたので、手際はそれなりに良い。
教わって楽しいことといえば、見たことのない調味料や食材に触れられることだろうか。ささやかながら、異世界を感じられてわくわくする。
普段と変わったことといえば、「外す」と言っていた通り、食事時にもアスラと顔を合わせることがなかった。
普段は少し鬱陶しいと思ったり、最近ではやや意識していたこともあって、いつものルーティーンにあったものが見る影もないと、やはり落ち着かない。
だが、主人の代わりというようにアリオがそばにいてくれたので、せっかくの二人だけの時間に託けて、彼女たちは多くの言葉を交わした。
向日葵の秘密を打ち明けてから、それに関してアリオが直接口を挟むことはなかったが、とはいえ心境の変化になったのは違いなく、ポツリ、ポツリと、ソレイユの話を聞かせてくれる。
同性ならではか、アスラの話とは違った印象も感じられて、向日葵は彼女の思い出話に聞き入った。
アスラの話とは最も異なる点といえば、ソレイユが彼をどう見ていたか、ということだろうか。
向けられていた感情に、当人は無自覚であったという話は往々にしてあるだろうが、なんと言っても、第三者からの客観的な視点というのは、それだけで信憑性がある。アスラと同じくらい、彼女を想って見詰めていたアリオの話ならば尚更だ。
アスラとアリオ、二人の視点から語られた異なるソレイユの像に、向日葵はなんとなく、最近読んだ哲学書の神を思い出す。
神というのは、信仰者がそれぞれ異なる面を見ている正六面体の形をしている。というのが、哲学における神の像。
それは実際のところ、人間も同様ではないだろうか。目に見えぬ印象というものは、見るものにより色が異なり、向きを変えなければ立方体の裏側を認識することはできない。
存在というものは、そのどれもが立体的で、表と裏があるけれど、一つの視点しか持ち得ない以上、一人の人間には、どうあがいても平面的にしか捉えることができない。異なる視点を持つ他者の言葉を受けて、初めてその存在が立体であったのだと知り得るのだ。
だからこそ、ソレイユをより深く知るためには、アスラの話だけでは不充分だ。
アリオが話してくれる気持ちになってくれてよかった、と向日葵は強く思う。
ヴェロニカが戻ったら、是非彼からも、聖女の話を聞きたいところだ。
アリオの語るソレイユは、優しくて頼りになって、善き姉だったと話だけで伝わってくる。
アスラの口ぶりでは、他人の気も知らないで無茶ばかりするお子様、という扱いが多かったから、少し新鮮だ。
同時に、少しずつ聖女の話を集めるほどに、あの劇場で観たソレイユにピッタリとハマっていくのがわかる。
向日葵は正解の形を知っていながら、それでも、彼らの印象と違いはないのかを、どうしても確認する必要があった。
もっといえば、彼らがソレイユをどのように見ていて、どう想っていたか。
彼女へ何を望んでいたか。
こうして、結局その日はアスラは帰ってこず、もちろん引き摺られていったヴェロニカも居ない。食事時にアリオの僅かな思い出話を聞いて、それ以外は他の館の住人と、ぼんやり時間を過ごした。
さらに翌日、なんの予定もない日。
この日もアスラとヴェロニカは不在で、珍しいなと目を丸めた。
アスラが自分を放置してまで優先する用事に、単純な好奇心を抱いたものだが、直ぐに、自分の思考が無性に恥ずかしくなって、顔が熱くなる。両頬を手で覆い、熱が冷めることを祈った。
向日葵はアスラから愛されることを、無意識のうちに当然だと想っていたことを自覚したのだ。だいぶ、あの悪魔の向ける情愛に毒されている。
以前も似たようなことを思ったことはあったけれど、あの時はさほど気にならなかったのに、今は妙に意識してしまっている。
ゾッとするでもなく、熱を帯びる自らの反応がまた、満更でもないことを物語っているようで、少し悔しくなった。
だから、向日葵はささやかな抵抗の代わりに、アスラたちの要件なんて、微塵も興味がないふりをした。
考えないようにして、課題に打ち込んでみたり、図書室でちょっと難しい論文を読み漁ってみたり、庭で新しく育てたい野菜を考えてみたりして、時間を潰す。
器用なもので、そうしているうちに、本当に関心が薄まっていくのだ。
昼食を摂っていると、アリオから声をかけられた。
またソレイユの話をしてくれるのかと視線を投げると、浮かない表情がそこにある。
「今更なんだけど……」
「なんでしょう?」
「私が、アスラ様に告げ口するとか、思わないのの?」
今まで触れてこなかった、向日葵の秘密についてを言っているのだと、直ぐにわかった。
「アリオさんが自分から言うとは思いませんね」
「どうして?」
「ソレイユさんを心から慕っているからですかね」
「…………」
アリオが動揺して目を泳がせる。向日葵は小さく笑った。
「それに、アリオさんはアスラさんのこと嫌いでしょう? 敢えて伝えたりしないんじゃないかなって」
「でも、私とアスラ様は主従関係……アスラ様から問いただされれば、隠すことはできない」
「それこそ、無用な心配ですよ。こんな不可測をピッタリ言い当てて問うなんて、いくらアスラさんでも出来ないでしょう」
想像もできないことを、探ることはできない。
アリオは釈然としなかったが、向日葵の言葉を受け止めて、それ以上食い下がることはなかった。
ただ、小さく「そろそろ戻ってくる」と。
「わかるんですか?」
「なんとなくね。距離が遠いから、感情の機微を感じなくて快適だったんだけど……。用が済んだかは知らないけど、多分、明日あなたと過ごすために戻ってくるんでしょ」
「ああ、そういえば明日ですね」
向日葵のぼやきに、アリオは小馬鹿にするように失笑した。それはここにいない主人へ向けたものだ。
「あなたのその、アスラ様に対して淡白なところ、結構好き」
「ええと、ありがとうございます?」
特別冷たく接しているつもりはないのだが、アリオが愉快そうなので、向日葵は変に口を挟まなかった。
何はともあれ、この数日でアリオとの距離がグッと近づいただろうことは、向日葵も実感する。
「それにしても、アリオさんはどうしてそんな、アスラさんが嫌いなんですか?」
「考え方が合わないから」
スパッと言い切ったものの、アリオは「それと」と。
「これは誰にも内緒なんだけど、あなたは秘密を教えてくれたから、私も特別に教えてあげる」
こっそりと、辺りを見渡して誰もいないことを確認してから、アリオはテーブルへ身を乗り出す。向日葵も聞きやすいように身を乗り出した。
声をひそめて、囁かれる秘密。
向日葵は僅かに驚いて、けれど、丸切り予想できなかったわけではない。向日葵自身にも思い当たる節があったから。ただそのことを、アリオがわかっていたことが意外だった。
アリオは言い終えると、照れたようにはにかんだ。長い時を生きても尚、幼稚な自分が恥ずかしいらしい。
向日葵はただ小さく微笑を返した。
その後、アスラが帰ってくるらしいと言うから、向日葵はそれとなく気にしながら、いつも通り時間を過ごした。
しかし、直接の電報があったわけでもなく、アリオの感覚での話だったのもあるからだろうか、今日中に帰ってくるような気配はない。
夕食の時間にはなんとなく手をつけずに待ってみたけれど、時計の長針が一周したのを確認して、諦めて冷めた食事を胃に収めた。
今帰ってきたら、先に食べていたことに苦言を呈されるのではないかと、内心落ち着かない気持ちもある。
ふと、彼の帰りを意識していることに気づいて、向日葵はまたも自らに呆れた。
だからもう一度、努めていつも通りに振る舞おうと、珈琲を飲んだり、本を読んだりして過ごした。
程よい眠気がやってくる頃には、すっかり館の主人の事など思考の外で、少女は眠る支度をしてベッドに潜り込む。
少しふわふわと何か取り止めのないことを考えながら、目を瞑って、しかして流れるように滑らかに、向日葵は就寝する。
とても美しい入眠で、このまま朝日がさすまではぐっすりと眠れるに違いない。
だが、ふと少女の意識が覚醒する。
唐突にはっきりと浮上して、気配を感じで薄く目を開けた。その感覚には覚えがあった。
「起こしてしまったかな」
辺りは暗く、まだ夜の闇の中。
それでも彼の月色の瞳は、この暗がりでも僅かな光を反射して、よく見える。
「おかえりなさい」
「ただいま、向日葵」
「俗に言う夜這いですか?」
茶化してみると、不意に彼の手が彼女の頬に触れた。
驚きで反射的にびくりと体をはねてしまうと、失笑される。
恥ずかしく思いながら見上げれば、アスラの少し疲れたような様子が目に映る。よくよく見れば、袖や襟が少し破れていた。
「ヴィーの気持ちがよくわかる。わずかでもキミと離れるのは耐え難いな」
「抱きしめにきたんですか?」
「抱きしめていいのか?」
「嫌です」
「ふふっ、だろうな。少し顔を見るだけのつもりだったさ」
向日葵の即答に思わず笑むアスラの様子に、目を丸くした。いつもなら残念そうに笑うところだが、今の彼は、向日葵のいつも通りのカンジにご満悦のようだ。
これはよほど大変だったに違いないと思った向日葵は、上体を起こして、アスラに近くへ寄るように小さく手招きをしてみせた。
彼は手で軽く服の埃を払うと、寝台へ腰掛ける。
「お疲れ様でした」
「……抱きしめるのは嫌なんじゃなかったのかい?」
「アスラさんから抱きしめられるのが嫌ってだけです」
「それは、なんというか……度し難いな」
いつものように残念そうなアスラの声音に、向日葵はホッとしながら、彼の背に回した腕を労うように、ぽんぽんと撫でた。
大人になりきれなくて自分勝手で、とても上手に生きることができない自分に失望して、先日、死に場所を探して知らない道を放浪しました。歩道橋の前を通った時、落ちたら死ねるかもと本気で思い、それだけを理由に歩道橋に登り、乗り出し防止の板を飛び越えて落ちる想像をしました。いける、そう思って下を見て全く怖くなくて、飛び込もうとした時に、致死率の低さとか、死んでも死ななくても、色んな人に迷惑になると思ったら結局その場で大泣きして何もできませんでした。あれから毎日泣いていて、泣きながら作業をしてます。満足に死ぬこともできない自分にただ悲しくてずっと泣いてしまいます。
そんな中でも、描きかけのこのお話を投稿できました。
生きてる間は、広げた物語を閉じることを目標に、なんとかやっていきたいです。
でも、全てを投げ捨ててでも、もうどこかに消えてしまいたい気持ちがずっと胸にあります。
悲しいですね。
お話の中は、せめて優しく幸せであってほしいです。




