71.勤勉
夕食は極力四人揃ってから、というルールはあるけれど、時折一人空席ができる。
買い出しやら何やらと、外へ出る用事の全てを一人で担っているのだからご苦労なことだ。
空いた席をぼんやり眺めながら思うと、ただでさえ多忙な魔法使いに、勉強を見てほしいと頼むのは軽率だったかもしれない。
そこでチラリと、アリオを見る。
ヴェロニカの心労は、そのまま彼女へ当てられる。時折充電するように二人がくっついている様は、そう珍しい光景でもないが、ひょっとすると向日葵の影響でその頻度は増しているかもしれない。だとしたら申し訳ない。
伝わるはずも無いが、向日葵は心の中でそっとアリオに謝罪して食事を続けた。
一度彼女のその不憫さに想いを馳せたら、続けてもう一つの不憫も思い出す。
魔法使いに追い回されることは(最終的にはいつも捕まってしまうのだが)逃げるという行為が許されているけれど、主人であるアスラの感情が伝わってしまうというのは、どうあっても防ぎようが無いストレスだろう。
そしてそれについても、やっぱり向日葵の存在が関わっている。
アスラの感情がジェットコースターみたいに上がったり下がったりするのだとしたら、概ね向日葵が理由なのだ。
二度目になるが、伝わるはずも無い謝罪を心の中で告げる。
そんな風にまじまじと意識を向けていたことに、アスラもアリオも気づいたようで、二人して不思議そうに疑問を呈する。
「いいえ、大したことでは」
向日葵はにっこり笑っていつのまにか止まっていた食事の手を動かした。
皿の上の食べ残しを口に放り込んで見せれば、アスラは「そうか」とそれ以上を尋ねず、彼女から特別変わった様子もないことから、気に留めないことにした。
しかし、向かいのアリオは釈然としない。
向日葵がぼんやりと視線を向けていた張本人なので、何故、何を、そんなに気にかけていたのか、モヤモヤとした淀みがアリオの内に残った。
ともすれば、今度はアリオが食事の手を止めて向日葵を観察する。
視線に気づきながらも、向日葵は気にしないようにして一先ず食事を終わらせた。
「ごちそうさまでした」
「この後は部屋で過ごすのか?」
先に食べ終えていたらしいアスラが、立ち上がった向日葵を見上げて聞く。
向日葵は「そのつもりです」と。
「寝る前に本の続きを読んでおこうかなと」
「熱心なことだ」
彼が感心の呟きをこぼしたすぐ後。
ガチッ、と銀のフォークが陶器の皿へとぶつかる音が響く。
音の方を見れば、茹で野菜を刺す力が強かったのか、それを貫いたフォークの先端がアリオの皿に接触しているのが分かる。幸い割れてはいないらしい。
音の発生源から、今度はその原因を辿るように、カトラリーを手にした彼女の顔へ視線を向ける。
そこには、少女へ何か物申したげな表情がある。
向日葵は無言で首を傾げて見せた。
「言いたいことがあるならはっきり言って」
少女へと向けられた睨むような眼光をアスラは気に入らない様子で見つめたが、向けられている張本人は特段気にした風もなくポカンと立ち尽くす。
「本当に大したことではないんですが……」
「だったらじろじろこっちの様子を伺うのはやめて」
「そんなに気になる程でしたか?」
「嗚呼、正直ちょっと羨ましいほどにね」
横に立ったアスラが失笑気味に告げた。
向日葵はそれに呆れ、アリオは苛立ちを含んだ息をつく。
吐息に促され、向日葵は前で手を組んで指いじりをしながら「ええと」と。
言葉を選ぶような間を置いて言う。
「アリオさんには申し訳ないことばかりしているんじゃないかなと思いまして」
「なにそれ?」
不審そうに問われ、逃げるように視線を逸らした先は空席。
それだけで言わんとしていることが彼女へ伝わったらしく、アリオは「ふん」と息をついて残りの食事を口に入れた。
短い咀嚼、大胆な嚥下。
最後に水を流し込んだアリオはようやくまとまった一言を発する。
「前にも言ったけど、私の事にあなたが気を遣わなくていい」
そうして最後の一口放り込んだ彼女は、今度はゆっくりと咀嚼する。
それはこれ以上話すことはないという意思の現れでもあるだろう。
「アリオの言う通り、向日葵が気にすることはないさ」
アリオの言葉にアスラが乗る。
しかし、他者から言われるのは釈然としないのか、彼女は横目で自らの主人を睨め付けた。
射られた本人は、しかしまるで気にも掛けておらず。含みを孕んだ失笑を零して、そのまま少女の背へ腕を回す。
「さて、部屋まで送ろう、向日葵」
「ええと、はい。どうも。でも、肩を抱くのはやめてください」
肩を抱かれたまま部屋の扉まで歩かされた向日葵は、その腕をなんとか引き剥がし、一歩分距離を置く。
アスラは微笑のまま残念そうに息を吐き、手の寂しさを埋めるかのようにドアを開けて、彼女が通る道を開けた。
向日葵は短くお礼を告げてから、その扉を潜る前に振り返る。
「では、私はお先に。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
小さな返事。それを聞き届けた向日葵はにっこりと笑みを返してから、ダイニングを後にした。
二人で並んで廊下を歩く。
間には一歩分の空きがある。
その距離を詰めてしまうことも、捕まえてしまうことも、悪魔には簡単にできることだったが、敢えてそうしなかった。
本心で言えば、食事中あの下僕の何を考えていたのか、問いただしたくて仕方がない。
だがそれを吐露してしまったら、今以上に向こうから離れていってしまうように思えて、この距離に甘んじているのだ。
代わりに「それで」と、アスラは前置き、向日葵の視線が向けられたことを確認してから続ける。
「三日後には初授業だが、教わりたいことは決まったかな?」
含みを孕んだ彼の笑みの裏には、よからぬ企みが窺えるようである。
その全貌は知る由もないが、この悪魔に主導権を握らせてはいけないことを十分に理解していた少女は、対抗するように笑みを浮かべてみせた。
「お陰様で。アスラさんにしか答えられないだろう疑問がいくつか」
「へえ、それは一体?」
「まだ秘密です」
「何故?」
「今うっかり答えられてしまったら、当日聞くことがなくなってしまいます」
「向日葵のその抜け目のなさは魅力的だが、もし私がその解を持ち合わせていなかったらどうするつもりだい?」
「その時は答えを一緒に考えてみましょう」
「それはなかなか、面白い提案だ」
そうして他愛もない話をしながら歩けば、少女の寝室前へと到着する。
向日葵は扉の前で振り返りアスラに向き直ると、ここまで送ってくれたお礼と、お休みの言葉を伝えた。
それまで廊下を歩く道のりで向日葵へ指一本触れなかったアスラだったが、少し名残惜しいのか、とうとう彼女の片手を掬い上げ、お休みへの返事とともにその指先へキスをした。
あわよくば、彼女がそれになにかを言えば、もう一言二言会話を弾ませ、ここに留まることができるだろう。
しかし当の向日葵の表情は呆れたように見える。
何を思っているのか、少しだけ目を伏せて口を噤む少女。
僅かに柔い唇が開かれ、何かを言いかけた呼気が漏れるも、すぐに閉じる。
アスラはその一部始終をただじっと、一つも見落とさないように、無言で見つめていた。
さっ、と緩やかに、向日葵が取られたままの手を引っ込めれば、彼の手はそれを追いかけることなく下げられる。
「では、おやすみなさい」と、二度目の夜の挨拶を告げて、向日葵は部屋の戸を開けた。
アスラも「ああ」と。
そうして彼も同じように、二度目の「おやすみ」を残して、その場から立ち去った。
部屋の明かりをつけた向日葵は本を積み上げたままの机へ向かう。
椅子を引き、腰をかけたら、机の上に上体をペタリと倒し項垂れた。
彼の策にまんまとハマって、新しい約束を取り付けてからと言うもの、じわりじわりと、こちらを試すように彼からのスキンシップが増えている。
気にしなければ良いのだが、困ったことに、そう、彼女の内面でもまた、じわりと染み込み広がるように、淡い何かが疼くのだ。
まだなんとか、その複雑な感情が言語化されていないことを理由に、無垢なふりをできているが、これが続いたらいつか暴かれてしまうような気がして落ち着かない。
いつの日か自分でも言ったように、きっとこれは愛着というもので、いつの間にかそこそこに気を許してしまっていたのだろう。
そしてその無防備な内側へと入り込んだ彼の手が、触れられ慣れていない部分をそっと撫でてくる。
外側からであれば抵抗して、距離をおけば済むのだけれど、自らの心の領土へ既に居座ってしまっているその存在を追い払うことは、そうした経験の乏しい彼女にとって少し難しいことだった。
なんといっても、どうしたってここでの生活は続くので、下手を打って関係を悪化させたくはない。
こう言う時に、経験の浅さが悔やまれた。
アスラから直接、駆け引きの仕方を教わる気など毛頭ないが、その能力をどうにか身につけなければ、簡単に絡め取られてしまうのではないかと危惧する。
ふと、そんなことを脳内で煮詰めるかのように考えて、思考を支配されてしまっていることに気づいた向日葵は、体を起こして、雑念を振り払うように頭を振った。
少し勢いが強かったようで、クラクラする頭を押さえ、深呼吸を一つ。
活字を追っていれば落ち着くだろうと考えて、まだ少し集中力に欠けるものの、積み上がった一番上の本に手を伸ばす。
栞を挟んだページを開けば、「あら不思議」と言いたくなるほどに、あんなに煩わしく内側を駆け回っていた煩悩はすっと引いていき、思考は鮮明に文字列をたどりながら、そのページより前の内容に思い馳せる。
今目を通している箇所と、記憶の中に蓄積された前のページの概要が繋がれば、もう先程までの悩みはすっかり消えてなくなって、ただ蛇のように伸びる文章の尾を追う事だけに意識が向かうのだ。
とぐろを巻いた連なりを目で追って、一番下の端まで理解が及んだなら、はらりと捲る。そこには次の蛇がいる。
蛇の群れをもうどれほど見送ったのか、重なる紙の厚みか、或いは数字を見れば明快だ。
黙々と目を通しては、片側の擦り減りに対してもう一方は盛り上がっていく。
それは、穴を掘るほどに周囲に土が積み上げられるように。
掘り進めた先に探窟家は何を得る?
気がつけば地の底。
その最後の字の羅列を流し見て、分厚い外殻をパタリと閉じたら、自然と穴は塞がって、そんなもの最初からなかったような顔をする。
しかし、椅子に座った採掘者が目にしたものは、その記憶の中に確かに堆積していて、彼女の頭の中では今それを、丁寧に磨いて、土埃を落とし、綺麗に並べている所なのだ。
余韻に浸っているとも言えるだろうか。
動かざる探求者はペンを取り、紙の切れ端に文字を記す。
魔物とは、魔力とは、その生まれ方とは、その生み出し方とは。
原石を並べるように箇条書き。
新たに取り出した綺麗な用紙の頭に本のタイトルを写しとると、先程の原石を磨き宝石へ変えていくように、整った文章を綴っていく。
加えて、美しい装飾をあしらうように、読み手の解釈がそっと寄せられる。
二、三枚に内容を収めれば十分だろう。
なぜならまだ挑むべき知の洞窟は残っているのだ。
向日葵は背伸びをしてから溶けるように脱力する。
満ち足りた気持ちに浸りながら、不意に時計に目を向けた。
「一時五分かぁ……」
文字盤の数字を何気なしに呟いて数秒の間。
「え?」
とうに日付を超えている時間に、見間違いかと瞬きをしてもう一度確認する。
しかし、事実が変わりようはずがない。
時計の針は読み上げた数字を示していて、それは刻一刻と進んでいるのだ。
慌てて向日葵が飛び起きると、ベッドの上から寝息が聞こえてくるのに気づいた。
目を向ければフェロメナが気持ちよさそうに布団の海に溺れていて、おそらく着替えの手伝いに来たのだろうが、向日葵の集中する姿に声をかけられず、待っている間に眠ってしまったのだろう。
あんまりに気持ち良さそうに眠っている彼女を起こすのは忍びなく。向日葵はそっと洗面台で顔を洗い急いで歯を磨き、服を脱ぎ捨て寝間着に腕を通した。
ヘアーセットを解くのが一人では大変だったら困っていただろうが、幸い今日の髪型はほとんど自然に垂れ流していたようなもので、少しブラッシングをすれば十分だ。
部屋の明かりは消して、ランプをつける。
一応布団へ潜る前に、フェロメナの肩をさするように撫でながら声をかけてみるも、ぐっすり寝落ちているようで、ふにゃふにゃの笑みと「ううーん」という気の抜けた唸りが返ってくるだけだった。
彼女のあどけなさに、向日葵は微笑ましく思いさらに脱力する。
ほんの少しだけフェロメナの位置をずらして、空いた場所へと横たわる。
本当はフェロメナへも布団をかけてやりたいけれど、下敷きになったそれを引っ張り上げるだけの気力は、向日葵になかった。
せめてもの気持ちばかりに、ブランケットをそっと掛けて、ランプの明かりを消す。
「おやすみ、フェロメナ」
もうすっかり馴染んでしまった家族の名前を呟いて、少女はゆっくり瞼を閉じた。
最近、予てから心待ちにしていた作品をついに手にすることができたのですが、いざそれを拝めるとなった時にさまざまな心境の変化や個人的な都合から、その中を覗き見てしまうことが恐ろしくて震えておりました。
結局寝不足で正常な判断力を失ったタイミングで触れてみたら、なんてことなく純粋に楽しむことができて、内容は大したことありまくりなとんでもなく素晴らしいもので、今は思考がずっとそれに支配されてしまった気がします。
もっと早くに出会っていたら、ひょっとすると創作の形ももっと違うものだったんじゃないかなと思ったりなど。そう思えたので個人的にはとても安堵の気持ちです。場合によっては創作意欲を失ってしまうのではととても不安でした。よかったです。
何を言ってるのかわからないでしょうか?そうですね。伝わる人にだけ伝わればいいかなと思います。
何はともあれ、純粋に作品を楽しんだら元気が出てきました!やったね!




