66.新しい学びのはじまり
季節は巡り、時は過ぎ去る。
日々を終える毎に暦へバツを付けて行くと、気がつけば少女は齢十九を迎え、その刻みの速さに感嘆した。
ところで、屋根裏の秘密は尚も暴かれることはなく、密かな文通は今も続いている。
そのやりとりは向日葵にとってかけがえのない時間で、そう、唯一の肉親を感じられる大切なものなのだが、誰にも気づかれないというのは少々不気味だ。
郵便屋とやらは、どんな手を使ってこの場所へ、誰にも気づかれることなく忍び込んでいるというのだろうか?
興味はあったが、向日葵がそれを暴くことはしないだろう。
家族との細いつながりを絶ってしまいたくなどないのだから。
しかしながら、こんな人脈を持っていた梅宮にはほとほと恐れ入る。少なくとも向日葵へ対して友好的でよかったと言えるだろう。
さて、向日葵の一日といえば、早朝目覚めて畑の手入れをして、着替えた後に朝食を摂る。その後は散歩をしたり本を読んだり、相変わらずだ。
もう一つ相変わらずなのは、アスラと過ごす日はやはり未だに週に一度だった。頑なに増やさないわけではないのだが、特別増やしたい理由もない。
アスラは彼女のその相変わらずの靡かなさへやきもきしたものだが、それもまた向日葵らしいある種の魅力である。
とはいえ、このままぼんやりと日々を過ごして良いものか?
向日葵は漠然と思い悩んでいた。
「勉強がしたいって?」
向日葵が打ち明けた相談に、ヴェロニカは目を丸くして口をついた。
わざわざ部屋まで足を運んで何事だろうか。そう思いながら、彼は話を促す。
「どんなことを学びたいの?」
「具体的には何も。ただ、何もしないよりは幾らか身になるかなと」
「はあ、うん。なるほど。ええと、どうして僕?」
他に適任……或いはその役割を望む者もいることだろう。と、ヴェロニカはそっとこの館の主人を思い浮かべるのだが、向日葵はそれを察して苦笑した。
「漠然と、知らないことを知りたいと言って、果たして何事もなく済むでしょうか?」
釣られてヴェロニカも苦笑する。
教えを乞う相手としては、あの悪魔はいささか不適切だろう。
「うーん、僕としても複雑だね」
「何か不都合でも?」
彼は答えず肩を竦めて見せた。
そうして歯切れの悪そうに「不都合というより、そのまま複雑なのさ」と。
「複雑ですか」
疑問を含んだおうむ返しに、彼は頷き悩むようなポーズとる。
「貴方が貴方らしさを損なわずに学ぶことを喜ばしいと思う反面、聡明な貴方が学ぶことで何かよからぬことを企てないか不安もある」
「ヴェロニカさん、私のこと全く信用してないんですね」
「信用はしてるけど、時々貴方は予想外の行動をするから、心労が絶えないよ」
そうはいうものの、ヴェロニカはどこか楽しげにも見える。
向日葵の行動が予測不能だとしても、彼女がこの館の平穏に対して、自発的な害意を持っているわけではないことは、すっかりわかっていたから、その点に関しての安堵があった。
帰ることができたのに、自らの意思でここに留まった向日葵の選択は、そうした信用にも繋がっているのだ。
茶化すような魔法使いの言葉に、向日葵は「心外ですね」と笑った。
その返事を聞いてから、ヴェロニカはチラリと自身の部屋を見て頭を掻く。相変わらずの散らかりようで、雑然としている。
「ここじゃ難だし、勉強は別の部屋でやろうか。向日葵さんの部屋でも?」
「そうですね、お茶も淹れられますし」
この頃には、「向日葵の部屋」と言えば、あの趣味に使っている広い方の部屋を指すようになっていた。
身支度に使う部屋は、今では「向日葵の寝室」と呼ばれている。
「ひとまず今日のところは、カリキュラムの話し合いと言うことで。なにか興味のあることは?」
廊下を歩きながらヴェロニカが問いかける。
向日葵はううんと唸り、ふと思いつく。
「魔法に興味があります!」
「そういえば、向日葵さんの故郷にはなかったね」
少女のキラキラとした純粋な興味を含む視線が青年へと向けられ、彼はその圧にやや気圧された。
咳払いをして、ヴェロニカは「改めて言っておきますが」と前置く。
「僕の使うような魔法はほかの誰にも真似できるものじゃないからね?」
「つまり、私にも真似できる種類の魔法があると言うことですね」
「ああもう……やっぱり向日葵さんに魔法の話をするのは不安だ……」
あざとく話を先回りをする様子に呆れながら、たどり着いた彼女の部屋の戸を開ける。
向日葵は「先にお茶を用意しますね」と声をかけ、ヴェロニカをソファーへと促し、紅茶の準備をした。ここには珈琲だけでなく紅茶も多少置いているのだ。それはヴェロニカはもちろん、フェロメナも珈琲が苦手だったからである。
この部屋の勝手をよく知る向日葵へお茶汲みを任せたヴェロニカは「では僕はその間に準備をしておきます」とどこからともなく本を数冊取り出して、その内容に目を通した。
ざっと目を通した中で、向日葵に合う本はテーブルへ積み上げてゆき、そうでないものはまたどこへなりと消えてしまう。
本当に、ヴェロニカの扱う魔法が特別なものであるのだろうことは、側から見ていてもよくわかった。
お盆の上にティーセットを乗せて卓へと移れば、ヴェロニカはお茶の淹れられたカップを受け取り短くお礼を言った。
向日葵は彼の向かい側へと腰掛けて、自身のカップとティーポットをテーブルの端へと下ろしたら、空いたお盆を自らの席の隣へと退去させる。卓上を広く使えるようにだ。
「魔法の話の前に、カリキュラムを決めようか。他に何か教わりたいものはある?」
向日葵が腕を組んで悩む素振りを見せると、ヴェロニカは思い出したように付け足す。
「物によっては、適した人材に講師を任せるから、気にせずなんでも挙げてみるといいよ」
「でしたら、料理も少し」
「作ってみたいの?」
「多少は経験がありますが、やらないでいると忘れてしまいそうで……」
「なら、それは厨房の三人に後で相談してみるということで」
ヴェロニカが宙に指先を滑らせて文字を描くと、それは可視化され部屋を漂った。空気そのものをメモ帳の代わりにしているのだ。
まじまじと、浮遊する文字を向日葵が目で追うと、彼は「後でちゃんと紙に移すから」と苦笑する。
二人は同じタイミングで紅茶へ口をつけ、一拍の間を置いてから向日葵が口を開く。
「……どう言えばいいのかわからないのですが、世界の構造について……とでも言うのでしょうか? この館に限らず、異世界に関しての知識もできるなら学びたいと思っています」
馴染みのないさまざまな知識。
これまでに多くの不思議体験をしてきた向日葵は、改めてそれを、きちんと学び、理解したいと思った。
勉強をしたいと考えた一番の理由がこれであると言えるほどに、言葉にしてみてはじめて、彼女自身もストンと腑に落ちる。
自分で納得している少女をよそに、ヴェロニカはそれもまた空気へと記した。
「一先ずはこのくらいにしておきましょうか。あまり詰め込みすぎも良くないからね」
「よろしくお願いします」
「さて、あとは時間割りかな」
「毎日少しずつよりは、日毎教科を変えた方がお互い気楽かなと思うのですが、どうでしょう?」
「向日葵さんがそれでよければ、そう計らいましょう」
ヴェロニカは紅茶を飲み込んでからそれもまた中空へと漂わせて、「時間帯の希望は?」と。
「特には。でも、料理は厨房の都合もあると思うので午後の方が良いでしょうかね」
「そこも含めて話を通しておきましょう。決まったら改めて伝えるから、それまではこっちを優先していこうか」
そう言って軽くウィンクをしながら、指先でトントンと積み上がった本を示した。
「他の科目も午後、昼食後がいいかな? 向日葵さん、毎朝庭の手入れもしてるし、午前は少しゆっくりしたいでしょう?」
「ありがとうございます、それで構いません」
そうして一通り話が終わると、彼は白紙を取り出して、指で表面を弾いた。それを合図に、浮遊する文字が吸い込まれるように、紙面に着地してありきたりなメモ書きへと収まった。
その様子をあまりにも食い入るようにみていたからか、ヴェロニカは咳払いをする。
「以前も説明した通り、僕の魔法は生まれつきの物で、イメージがそのまま形になる物だから、これから向日葵さんに教える魔法とは本質的に別物だよ」
「私も流石に、それを真似できるとは思いませんよ」
向日葵は苦笑した。
肩を竦めて、ヴェロニカは「魔法にも色々ある」と。
「世界によって法則はさまざまだし、物によっては化学的なアプローチで扱えるものもあるけれど、差し当たって向日葵さんの身近にあるものから説明していこうか」
「私の身近にあるものですか?」
ヴェロニカは先生然として、人差し指を立てると、その指先をくるりと後ろへ向ける。それはこの部屋の外を示しているのだろう。
そうしてにこやかに告げる。
「アスラ様を始め、この館についてだね」
こうして、向日葵の新しい日課が始まった。
パソコン買い替えのデータ移行で死屍累々になって時間を過ごしていました……。あまりにも死……。
今後の展開のまとめ箇条書きを自分用に書いてみたりしたので展開には悩みませんが、まだまだ他にやることが山積みで書く時間が!ない!そんな感じです。
のんびり進めていきますね。




