62.根雪の下
部屋へ戻ったはずの向日葵がいなかったことで、館内では小さな騒ぎが起きていた。
慌てたフェロメナがアスラにそのことを伝えると、アスラは「目を離したらすぐこれだ」と呆れと不安を抱いたのだが、彼女の居場所を探れば、なんてことはない、館の中にいるじゃないか。
ちょうどその頃には地下室を出ていた向日葵は、ダイニングを目指して廊下を歩いていた。
彼女が地下室に居たことなど知る由もない彼は、フェロメナを鬱陶しがりながら「行き違いになっただけだろう」と追い払った。
向日葵は廊下でアヤメに捕まると、手を引かれ踵を返す。
道中フェロメナと合流した二人は、一旦部屋へと戻ればせめてヘアメイクだけでも! と彼女の髪を綺麗に整えた。
その最中に「昨晩はどうでして?」と話を広げられるのは、幼い頃に足を運んだ散髪屋さんを思い出させる。
とはいえ、すっかりスッキリ気分転換を済ませた向日葵はもう、変に意識することはなく、いつも通りのあっさりとした様子で「特に何も」と返すのだ。
アヤメはどこかつまらなそうに相槌を打ち、フェロメナはまるで靡かない様子に感心した。
「向日葵ちゃんは色恋沙汰にご興味がないんですね〜」
それはどこか誤解がある気がして「そんなことは……」と。
「あまりにもいろんな事がありすぎて、それどころじゃないと言うか。今のところはピンと来ないかなあ」
「ご主人様も苦労しそうですわ」
ふぅ、とアヤメが息をつく。
「アヤメさんは本当に恋のお話がお好きですね〜。ルーちゃんにもぐいぐい聴いてましたぁ」
「うふふ、故郷の仲間内ではもうそれが一番盛り上がるお話なのですよ。花の妖精にとって、生き物たちの花開く瞬間を見て語るのが最大の娯楽なのでございます」
アヤメ以外の花の妖精がどんなものか分からず、脳内では分裂した沢山のアヤメが盛り上がって話している様子を思い浮かべる。ややシュールだが楽しそうだ。
自分で考えておきながら可笑しくなった向日葵は思わず吹き出してしまう。
ヘアオイルを塗り終えたアヤメは言う。
「ご主人様にご興味がないようでしたら、向日葵様はどんなお方がお好みなのでしょう?」
「あ〜! 私も気になります!」
「えー? 唐突ですね……」
友人たちとこうした話の輪に混じることはあったが、自分にこの質問が向けられる事があろうとは思わなかった。
向日葵は色恋に積極的ではなかったから、友人たちは特別話題を掘り下げようとしなかったのだ。
だが今、改めて問われることで、向日葵は一度は追い払った強い意識を思い出す。
無理もない。彼女を“そういうふう“に扱ってきたのは彼だけなのだから。どうしたって想起して、基準にしてしまうだろう。
思い浮かんだあの人を連想するような言葉を飲み込んで、しかし、真逆な言葉を吐くのも意識していることを如実に表しているように思えて、憚られる。
唸り声をあげて熟考した向日葵は、結局。
「あまり、よくわかりません」
その返事が絞り出される頃には、髪は左右で結ばれて、可愛らしいツインテールに仕上がっていた。もちろんリボン飾りもつけられている。
姿見に映る彼女は幼い童女のようにあどけなく、色恋沙汰など似合わない。
アヤメはクスリと笑みをこぼして「向日葵様はまだお若くいらっしゃるわ」と子供をあやすように向日葵の頬を撫でつついた。
少し恥ずかしくなってアヤメから顔を逸らすと、フェロメナとぱっちり目が合う。
彼女は純粋な瞳で向日葵を見てニッコリ笑い、アヤメの真似をして「えい」と少女の頬を突いた。
弄ばれている気になって羞恥心を募らせた向日葵は、ガバリと時計を目にしてから「ああ、そろそろ時間ですね!」と叫ぶ。
逃げるように立ち上がり部屋から飛びでた向日葵。
今朝はこんなことばかりだ。
侍女たちに見送られ、ダイニングへと向かう道中、足を止めて深呼吸をした。深呼吸というよりも、とても大きなため息だったかもしれない。
丁度通り掛かったダヤンにそれを聞かれてしまう。
「あ、おはようございます、ダヤンさん」
対して、ダヤンはペコリとお辞儀をした。
そして眉を下げて不思議そうに首を傾げる。大きなため息に、心配してくれているのだろう。
「なんでもないんです」
向日葵は苦笑した。
慣れない感覚の残滓がそんなぎこちなさを孕んだが、しばらくすれば収まるだろう。
しかし赤毛の青年はそのぎこちない笑みをどう受け取ったのか、神妙な面持ちでポケットから取り出したメモに何かを記して少女の手に握らせたい。
そのままダヤンは、すんと澄ました顔で別れの挨拶に片手を挙げてそそくさと退却したのだった。
手の中に残された紙切れには、時間と場所だけが示されており、向日葵は首を傾げる。
まあ、足を運んでみれば彼の意図がわかるだろう。
そう思い、メモをポケットへと仕舞えば、ダイニングへ向けて再び歩き出した。
朝からずっと落ち着かなくてへとへとだ。とてもお腹が減っている。
空腹に気を取られれば、これから顔を合わせる相手への気まずさは綺麗さっぱりなくなったように思う。
ダイニングルームにはすでにアスラがいて、鼻歌が聞こえてきそうなほど機嫌が良い。
起きた時にも挨拶をしたが、改めて「おはようございます」と声を掛ければ、同じように彼も返した。
アスラは向日葵の肩を抱くように腕を回し、けれど体には触れずに垂れ下がる髪へ指を絡めた。
少しでも視線を合わせようとしてか、前屈みになって向日葵の顔を覗き込むとニッと含みを持った笑みを向けるのだ。
「向日葵はかくれんぼが好きなのかい?」
「はい? 特別好きでも嫌いでもないですが。どうしてそんなことを?」
「さっきフェロメナが、向日葵が居なくなったと騒いでいた。キミは目を離すとすぐ忽然と消えてしまうものだから、もしや私たちと遊びたいのかと思ってな」
「消えようだなんてしてませんよ。アスラさんたちが勝手に騒ぎ立てているだけじゃないですか」
向日葵はぺちんと軽くアスラの手を払うと、先に席へ掛けて食事を摂り始める。もう空腹が限界なのだ。目の前にごはんが用意されてるのに、いつまでもたらたらと話を続けたくない。
アスラは困り笑いをして肩を竦めた。
追うように彼が腰掛けると、いつもより距離が近い。椅子をやや向日葵へ寄せているのだ。
途端に図々しさが増した様子をチラリと見ながら、向日葵は特別反応を示さなかった。敢えて口を出してしまったら気にしてるように思えたから。
それを良いことに、アスラは彼女から受け入れられているのだと都合よく解釈して機嫌を良くした。
そうしていつも通り二人で食事を摂っていると、突如、バタン! と力強く扉が開かれる。驚いて肩を跳ねる向日葵を見て、アスラは原因を鬱陶しげに睨め付けた。
駆け込むように入ってきた彼女は、目についたらしい卓上に置かれていた向日葵のグラスを奪い、水を飲み干すと空になったそれをテーブルへ乱暴に下ろす。
勿論、再び大きな音が鳴り、向日葵はどきりとする。
アリオは不機嫌そうにアスラを睨み返して「情緒不安定なの?」と忌々しげに口をついた。
「なんのことだ?」
「昨日から機嫌が悪くなったかと思えば腹立たしいほど快調になったり、感情ジェットコースターすぎて付き合わされるこっちが吐きそうで溜まったものじゃないんですけど!」
「好き好んで不機嫌になっているわけではない。私の気も知らず奔放すぎる向日葵に言ってくれないか」
「えぇ……? それって私の責任なんですか?」
突然ボールを投げられた向日葵は、しかし感情のコントロールなんてそう易々とできることではない。ともすれば、彼の平静を崩しているのは確かに向日葵の一挙一動な訳で、ほんの少し悪い気がしてくる。
アスラに対しては、それを悪びれてやるつもりは毛頭ないが、無関係であるアリオへは申し訳なく思い、向日葵はそのことを加えて小さく謝罪した。
アリオは彼女から謝辞を受けると思わず勢いを削がれ、いつもの定位置である席へ腰掛ける。
どうやらこのままここで朝食をいただくつもりらしい。
アスラも向日葵もそれを無言で受け入れた。
アスラのそれは懐旧の情であったが、向日葵は二人きりを脱したことに少し気が楽になったのもある。
少しすると、レフとオリガが彼女の食事を運んできて、アリオはぶっきらぼうにお礼を言ってから食事に手をつけた。
彼女は刺々しく見えるが、こういうところは律儀で良い人なのだ。
それにはきっと、ソレイユの教えが少なからず影響しているのだろう。教えを守り続けるアリオは敬虔な信徒のようにも思える。
そうして、会話もないままに食べ進めれば、先に手をつけていた向日葵の皿が空になる。
「では、お先に失礼します」
そう言って、一足お先に少女は退室した。
アスラは逃げるように去る少女を見て、緩む顔を隠すために手で口元を覆ったのだが、アリオの冷ややかな視線が突き刺さる。
「一体何?」と瞳だけで掛けられた問いに、アスラは緩んだ頬のまま返した。
「避けられるのは惜しいが、それはそれで、見ていていじらしくて良いものだな」
「気色悪い」
一刀両断されるも、彼は気にせず片肘をついて空いた皿の縁を撫でる。
特に意味のない手遊びだが、そうしながら彼女へと想いを馳せて、不意に思い出し笑いを零したりして。
実に幸せそうな悪魔の姿を、下僕の女は不快に思った。
そうして彼女もまたこの能天気な主人を無視して流し込むように食事を飲み込めば、残ったパンを片手に掴み、アスラを残して挨拶もしないままに退却するのだった。
一人置き去りにされたことで、ようやくアスラも残りの食事へと手を伸ばす。
それはもうすこぶる機嫌が良くて、アスラにとって夜を共にし、朝一番に愛しい姿を目にできたと言うことがどれほど幸福なことなのか如実に表れている。
さて、食事を終えて少しすると、ヴェロニカが戻ってくるのだが、その頃もまだ嬉々とした様子であることは、言うまでもないだろう。
春の訪れはまだ遠く。
反応を貰えたり、励ましのお言葉が日々励みになっています。元気がない時読み返したりして。




