55.異邦者は只人で非
さて、アスラと共に過ごす誘いを断った向日葵だったが、それにはもう一つの理由があった。
目醒めてから彼女は、家族のもとへ帰ることを、決して諦めてはいないのだ。
一人での行動を控えなければいけないのは、些か困るが、身の安全は第一だろう。この事態が収束すれば、また一人でその方法を探して活動することができる。今はきっと耐え忍ぶ時なのだ。
しかし、アスラたちが探し回っても、侵入者の痕跡はどこにも見当たらない。身を隠すのが上手いのか、もうすでにこの館を去ったのか。
わからないままに、ひと月が過ぎようとしていた。
向日葵も気が気ではない。このまま解決しなければ、ひょっとするともう二度と一人の時間を得られないかもしれない。
憂いの息を零し、今となっては唯一一人で居られる夜、ぼんやりと考えていた。
部屋の外には見張りでダヤンが付いている。夜出歩くことも叶わない。
以前、空気を入れ替えようと窓を開けたら、どうやら彼女が抜け出さないように、窓には鈴がつけられていて、音が鳴ればすぐにダヤンが飛び込んできた。あの時は本当に外の空気を吸いたかっただけなので悪いことをしたと思ったものだ。
しかし、そのせいで彼女は迂闊に窓を開けられない。鈴はご丁寧に外側に付いているため、開けなければ取り除けないが、開ければ気付かれてしまうのだから。
こうした日々が続いて、向日葵は窮屈さを感じていた。
なんとかリフレッシュしたいと思い、以前ふと思った計画を進める。それは、キッチンとは別のところで珈琲を作れるようにしたい! というもの。
アスラにそのことを相談すれば、特に悩むこともなく受け入れられた。
「実を言うと、キミのため用意した部屋はもう一室ある」
アスラがいうには、彼女のために広い部屋と、狭い部屋を用意しているのだと。生まれ変わり達の生活環境はさまざまで、広い部屋が落ち着く場合があれば、狭いところでないと眠れないという場合もある。基本的に、突然環境が変わってはストレスだろうと、元々過ごしていた場所に近い大きさの部屋を充てがうのだと。
要するに、今は広い方の部屋が空いているのだ。
案内されて部屋を見れば、どこぞのお姫様の部屋なのではと思う広さだ。今、向日葵が使っている部屋の倍以上ある。
部屋自体に水や火が通っていて、珈琲を作るには丁度いい。部屋の模様替えをすれば、向日葵専用のミニ喫茶ができそうだった。
早速、皆に手伝ってもらいながら、棚を用意して、珈琲の器具やカップを並べる。
珈琲豆も新しいものを用意してもらった。(残念ながら、あれ以来祖父の店のものはどれだけせがんでも用意してくれなくなってしまったが、仕方がないだろう)
あとは図書室から、お茶をしながら楽しめる本を数冊用意して、それを置いておくために棚と、いつでも食べれるちょっとしたお菓子を持ってくれば、完璧ではないだろうか!
手伝いをしてくれた人たちにお礼を言って「いつでも珈琲を飲みに来てくださいね」などと言えば、本当に店主になった気分だ。
アヤメは「お部屋に彩りがあった方が良いでしょう」と、花瓶と花を用意しに外へ出て、残されたのはフェロメナだけ。
準備を終えた向日葵は、ひとまず趣味の部屋を整えたことで一服しようと、珈琲を淹れることにする。
「フェロメナも飲む?」
「うぅ〜……私はいいですぅ。珈琲ってとっても苦いんですもの〜」
「うーん、そっか。あ、そうだ! フェロメナ、厨房からミルクと、何かお菓子を持ってきてくれない?」
向日葵に頼まれごとをされたことが嬉しかったのか、フェロメナはパッと表情を明るくして「わかりましたぁ!」と言い部屋を出た。
彼女がいなくなり静まり返った部屋を一望して、向日葵はようやく「しまった」と思う。
流れでついお遣いを頼んでしまったが、非常にまずい。今、無防備な少女は一人きりだ。
しかし、一か月間何もなかったのだ。
向日葵は楽観的に考えるようにして、首を振り珈琲の器具へ手を伸ばした。
ネルではなく、サイフォンを手に取る。
夢の中で、祖父から使い方を教わった。あの時はうまくできなかったし、もっと祖父から教わりたいと思い、サイフォンを持ち帰って自分で練習することはしなかったけれど、ここに祖父はいない。もう、自分一人で練習するしかない。
それが少し寂しいけれど、こうして教えてもらったことを真似ているだけで、祖父を思い出せるし、存在を近くに感じられて、楽しかった。
何がいけないのかはわからないが、相変わらずうまく淹れられない。サイフォンで落とした雑味のある珈琲を一口飲んで、向日葵は苦笑した。
フェロメナがミルクを持ってきてくれたら、混ぜて誤魔化そう。そう思うと、二人の帰りが遅いことが気になった。
ソファーに腰掛け、音のない扉へ目を向けて、ぼんやりとそれが開くのを待っていると、突如、後ろから伸ばされた手が、彼女の持つカップを奪い取る。
誰かが後ろにいることに今更気づいた向日葵は、硬直し、振り返ることもできずに息を詰まらせた。
恐怖でその場に縫いとめられた少女に構わず、後ろに立つ何者かは奪い取った珈琲を口にしたらしい、啜る音が響き、一拍の間。
「なんじゃあこりゃ。不味いのう。嬢ちゃん、あんジジイから何教わったが?」
馴染みのある声。気が抜けた向日葵は息を吐くと共に、目を開けたままかけていたソファーへゆらりと倒れた。
仰向けになると、後ろにいる人物の姿が見える。
「梅宮さん……? ですよね?」
「他の誰かに見えるがか?」
「ええと、はい」
体を起こし、まじまじと見つめる先。覚えのある奇抜な紫のグラデーションの髪に、帽子と和装、片目だけを開けて喋る姿。その独特な特徴は確かに梅宮なのだが、背はぴんとまっすぐで、顔は壮年というくらいに若返っている。
「うん? ああ。嬢ちゃんと初めておうた時はもう皺くちゃにしちょったが、無理もないか」
梅宮は顎に手を置きしみじみと言う。
奪ったカップをテーブルへ置き、ソファーの肘掛けに腰掛けた。
「本当はお若かった?」
「何年経っても歳取らんままは気味が悪かろう」
梅宮は「特殊メイクじゃ」と付け足して、懐から取り出した煙管に煙草を詰めた。
「あ、梅宮さん、ここには灰皿がないので、禁煙でお願いします」
「嬢ちゃん、相も変わらずとぼけちゅうが。他に思うことは無いき?」
「何から聞けば良いものか……」
梅宮は渋々と言うように煙管を仕舞い、口寂しいのか不味いと言っていた珈琲を再び口して眉間に皺を寄せた。
「梅宮さんは、人間では無い?」
「只人とは言い難いがよ。じゃが、区分で言やあ人間じゃ」
「何故、此処に?」
「お前さんのジジイに頼まれちゅうが。嬢ちゃん探してくれーってな」
「っ! お爺ちゃん、元気なんですか!?」
向日葵は外のことを知る梅宮へ、ずいと近寄り尋ねた。その勢いを「まあまあ」と諫めるように、梅宮は片手を前に出す。
「此処の連中はなんもいっちょらんが?」
「家族のことは何も。……あまり、外のことに目を向けて欲しく無いみたいなので」
「ふん」と梅宮は息をつく。
「心配せんでも、ちょこーっと風邪をこじらせただけじゃき。フミゑちゃんが看病して、今頃ぴんぴんしちゅうよ」
フミゑ、と言うのは祖母の名前だ。以前は店の手伝いをしていたが、今では立ち仕事が厳しくなり家で過ごしている。祖父母、両名とも存命であることに、向日葵はホッと胸を撫で下ろした。
改めて向日葵は尋ねる。
「梅宮さんはどうして……どうやって此処に?」
彼はこう言う時に一服したいのか、無意識に懐の煙管に手を伸ばしたが、すぐに頭をかいて、不味い不味いと珈琲を飲み干した。
「かー、不味い。じゃがまあ、勝手に飲んだ駄賃じゃ。特別に教えちゃる」
一度両目を閉じてから、先ほどとは反対の片目を開けて、梅宮は語り始めた。
「儂は、異邦者の情報屋なんぜお」
梅宮再登場!体調がすこぶる悪いので以上!
 




