54.駆け引きモーニング
アスラに抱えられて戻ってきた向日葵は、その様子から皆の生暖かい視線を受けて、途端に恥ずかしくなる。
気遣って誰一人、どこに行っていたのか聞こうとしないので、余計に居た堪れない。
椅子へ下ろしてもらい靴を脱ぎ、赤くなった箇所に薬と包帯を巻いてもらった。フェロメナは新しい靴を用意しに行き、彼女が戻るまで椅子に掛けたまま向日葵はパーティーを楽しんだ。
アスラはといえば、向日葵から離れヴェロニカとアリオへ何事か話している様子だ。真剣な様子であるが、パーティーの空気を壊さないようにか声は潜められ、向日葵の視線に気づけば安心させるように笑顔を返した。
彼らの話が気になるものの、せっかく楽しめるように気を遣ってくれているので、今日の所は一旦憂いを忘れて、満喫することにしよう。
動きやすいようにサンダルを持ってきたフェロメナにお礼を言い、向日葵は皆の輪に戻った。
以降はアスラも抜け出すことはなく、その様子を柔らかく見つめては、時折彼女へと声をかけて住人たちの輪へと加わった。
充実した時間は矢の如く過ぎ去り、晩餐を終えればお開きだ。余った食事は仕舞い、後片付けは明日へ持ち越し、皆部屋へと戻っていった。
着替えもあるため、フェロメナとアヤメが向日葵を部屋まで送ってくれるのだが、アスラもそれに付き添い彼女を部屋まで送り届けた。
そのため道中、彼は向日葵の手を引き歩き、侍女の二人はその後ろをついていくことになる。フェロメナは不満を垂れ、アヤメがそれを宥めた。
「今日は楽しめたかな?」
「はい、おかげさまで」
「なら良かった」
そんな他愛もない会話をしながら歩けば、すぐ部屋に着く。
短く別れを告げ、彼は向日葵の頬へキスをするとその場を後にした。
突然のことに呆然とした向日葵だったが、国によっては親しいものへの挨拶のようなものだろう。慣れない感覚にやや羞恥はあるのだが、気にしないようにして、残る二人とともに部屋へと戻った。
そのまま就寝の準備を始めた向日葵は、楽しかった一日を思い返しながら、抜け出した後のアスラの様子もまた気になっていた。
こういうことは早いほうが聴きやすいだろう。明日にでも、結局気がかりとは何だったのかを尋ねてみよう。
そんなことを考えながら、少女は眠りについた。
翌朝、スッキリと目覚めた向日葵はいつも通りフェロメナとアヤメに手伝われながら身支度をして、朝食へと向かう。
靴擦れのことを反省してか、フェロメナが用意した靴は、動きやすく、締め付けを感じないものだった。彼女はそのデザインが些か質素すぎることを悩んでいたけれど、向日葵は気にしていないし、動きやすくてむしろ気に入った。
ダイニングに入ればアスラがいる。
朝の挨拶をして、もうすっかり馴染んでしまった彼の隣へと掛ける。既に用意されている食事を前にして「いただきます」と告げてからカトラリーに手を伸ばすと、アスラが聞く。
「足はもう平気そうだな」
「そうですね、靴擦れといっても少しだけですし、今日の靴は履き心地も良いので」
「そうか」
ふっ、と笑みをこぼして、アスラが代わりにカトラリーを取り向日葵へと差し出した。
お礼を言って受け取って「ところで」と、向日葵が口をつく。
「結局、昨日の気がかりってなんだったんですか?」
アスラは無言でスープを口にして、返事を考えているのか、はたまた聞こえていないふりでもしているのか、なんとも微妙な様子である。
答える気があるのかないのかも分からず、とりあえず向日葵も食事へ目を向けてサラダを口にした。黙々と生野菜を頬張り、器が空になれば、向日葵はもう一度アスラへ向く。
「気がかりって、なんだったんです?」
「余程気になるようだな、向日葵」
「そりゃあ、アスラさんは何を置いても私との時間を優先するって言っていたのに、それをほっぽり出すほどですから」
「妬いてるのか?」
ニヤリと笑み、アスラは頬杖をついて向日葵を見つめた。自分へ興味を向けてくれていることが嬉しいのだろう。
しかし向日葵は、さっぱりと無表情で「全然」と返す。それに彼は不満げに口を尖らせ、向日葵から顔を逸らして腕組んだ。
「どうすれば向日葵は私に興味を持つ?」
「さあ?」
とぼけた返事に、アスラは息を吐いて徐ろに掴んだパンを齧った。
向日葵は子供っぽいアスラの行動に失笑し、機嫌を直してもらおうと訂正する。
「まるきり興味がないわけじゃないですよ。本当に興味がなければ、あなたがパーティーを抜け出したことに関心を持ちませんから」
向日葵もパンを手に取り、一口千切って口にした。それをチラリと横目で見て、彼はなおも不機嫌そうに言う。
「向日葵は狡いな。私へたいして関心を持っていないと言うのに、そうやって期待させるような事を言う」
「私が何も言わなくても、アスラさんはいつも期待してるんじゃないですか?」
「嗚呼! 本当にキミは狡賢い!」
アスラは項垂れた。
大袈裟な言動に、向日葵はクスクスと笑いながら「それで」と。
「気がかりの話をしてください。そうやって話を逸らしても誤魔化されませんよ」
肩をぽんぽんと叩いてやると、彼はゆらりと顔を上げる。その顔は苦笑で彩られていて、肩をすくめて「参ったな」とこぼした。
「なんでもお見通しか」
「最初の質問に応えてないですからね。有耶無耶にしたいんだろうなぁと思いました」
「してくれないんだな、有耶無耶に」
「気になりますので」
少女は微笑してスープを一口掬う。悪魔は可笑しそうに「ははは!」と笑った。
「いいだろう。キミがそう来るならば私もキミへの対応を見直すとしよう!」
悪魔らしい含みを持った笑みで、アスラは向日葵を見据えた。その視線に射られた向日葵は一体どうするつもりなのか、不安で微かに肩を強張らせた。
アスラは手に持った食べかけのパンを差し出し、向日葵の手に握らせると「話を聞きたいなら、その分奉仕してもらおう」と言う。
「奉仕?」
「食べさせてくれ給え」
「えっ」
「恋人のように……いや、私たちは魂の恋人。ように、ではないな! ごく自然な行為だろう!」
「えぇ……?」
あまりにも低俗な要求に、向日葵は引き気味に呆れた。それに、魂の恋人と言うがそれはアスラが勝手にのたまっているだけで、ソレイユとはそういう関係ではなかっただろうに。
向日葵はため息混じりにつぶやいた。
「まあ、別にいいんですけど……」
アスラのパンを千切って「どうぞ」と彼の口元へ運ぶ。そういえば以前もこうして彼女の手からクッキーを食べたことがあった。けれど今回は強引に手を引いたあの時とは違い、彼女の意思で差し出されている。アスラは愉悦を浮かべながら向日葵からの施しを受け入れるために大きく口を開けた。
「あ……」
向日葵が気がついた時にはもう遅く、手を引っ込めることは間に合わない。彼の口は少女の細い指ごとパンを食んだ。しかし痛みはない。最初からアスラは向日葵の指を舐めるつもりだったのだろう。まんまと乗せられてしまったことと、指先に纏わりつく熱い口内の湿った感覚、柔い舌で蹂躙される感触に、恥ずかしさで顔が真っ赤になる。反面、ゾッとして背筋は凍りつくのだ。
「う……えぇ……いい加減にしてください」
意趣返しに成功し、口を離したアスラはクスクスと笑み「色気はないが可愛い声だ」と賞した。
「アスラさん、そんな強引なことをして、嫌われるとか思わないんですか」
「……嫌いになったか?」
思っていなかったらしく、向日葵の様子を伺うように問う。彼女は顔を逸らして不機嫌に「少し嫌いになりました」と言い放った。
アスラは気まずそうに咳払いを一つ。
「すまない、調子に乗りすぎたな」
「ええ、本当に! 反省してください」
そう言って向日葵は手に残った彼のパンを突っ返し、湿った指をテーブルナプキンで拭いた。
自分でやったことだというのに、しょぼくれているアスラ。向日葵はそれをチラリと横目で伺って「いい加減、話を聞かせてください」と。
「お約束ですし、全部話してくれたら今のは水に流しましょう」
「全部、か」
アスラは苦笑した。けれど向日葵の機嫌を取ることの方が彼にとって大事なことだったようで、諦めたように話し始める。
「どうやらこの館に、鼠が入り込んだらしい」
「それは、比喩……ですよね?」
本当に鼠が入り込んだわけではあるまい。が、しかし、フェロメナみたいな例もある。
アスラは頷き続きを語る。
「だが奇妙だ。私の領域に入ったことはわかるが、その足取りが読めない。意図せず迷い込んだとして、見ず知らずの地で一人になったら……キミならどうする?」
「……極力動かず様子を見るか、昼間なら、明るいうちに探索をするか……状況を確認するために動くでしょうか」
「人の気配があれば、そこへ向かうだろう?」
「そうですね、事情を聞けるかもしれません」
向日葵はハッとして、口元に手を添え、深く考え込んだ。
「昨日はパーティーで、広間に人が集まってました。人を探して気配を辿っていたら必ず広間に来ているはず……?」
アスラは真剣な面差しでそれを肯定し、注釈する。
「勿論、向日葵が最初に言ったように、極力動かない場合もあるだろう。だが、落ちてきたと思われる場所にはすでにいなかった」
「移動しているものの、私たちを避けているんでしょうか?」
「恐らくな。“侵入者”は意図して此処へ来て、なんらかの目的を持って行動している」
アスラは向日葵の髪を指に絡ませて、梳くように撫でながら「そう言うことだから」と心配の色を瞳に灯した。
「しばらく一人で出歩くことは控えてくれ。キミに害が及ばないとは言い切れない」
向日葵は彼を安心させるために微笑し「わかりました」と返した。
彼女とて、自らの身に危険が降りかかることは避けたい。これは順当な自己防衛だ。
話が終わり、ふとアスラの視線が彼女の口元へ向けられているのがわかる。
向日葵は小首を傾げ「何か?」と聞くが、彼は上機嫌にニヤリと笑い「何も」と。
すっかり考え込み、違う話でいっぱいになった向日葵には気づきようもなかったが、彼女が思考するために口元へと当てた指先は、先程アスラが口にした場所。間接的な口付けを目の当たりにして、偶発的なものであれ、アスラは嬉しくなったのだ。
結局、向日葵がそれに気づくことはないし、気づいたからと言ってさして気にすることもないのだが(……否、あんな風に見詰められてしまったら、やや気恥ずかしくはなるだろうが)、なんにせよ、唐突に機嫌が良くなったアスラの様子に、向日葵は釈然としなかった。
アスラは鼻歌でも歌うように言う。
「安全を思えば、私の隣が一番安全だと思うが、どうだろう?」
「それは……ええと、ごめんなさい、どう言う意味で?」
「これから共に過ごさないかい?」
「遠慮します」
“しばらく”ではなく“これから”と言うあたりがちゃっかりしている。この件が解決した後も共に過ごす口実にしようと言う魂胆だろうが、向日葵は即座に断った。
アスラは「何故?」と問う。
向日葵は「間に合ってます」と答えた。
「向日葵は、そんなに私と共に過ごしたくないのか?」
あまりにも相手にされなさすぎて、やや落ち込み気味に言うアスラへ、向日葵はぼんやり「うーん」と唸る。
「視野を狭めたくはないんです」
「うん?」
「ええと、例えば。私がアスラさんを好きであれ嫌いであれ、ずっと一緒に過ごしたなら、相応の愛着が湧くかと思うのですが、なんとなくそれは嫌なんです」
「悪いことには思えないが?」
話の内容にアスラの目がきらりと輝く。この全く靡かない少女でも、過ごす時間を長く蓄積すれば、好んでくれる可能性があるのだと確信したから。
向日葵は素直に話したことをやや失敗したなと思いながら、続ける。
「他の選択も行える中で、あなただけになってしまうのは嫌です。それに、もしあなたを選び取ったら、きっとあなたは先にある無数の可能性が私の目に映らないように、目隠しをしてしまうでしょうから」
気がつけば食事の皿は空になり、向日葵は「ごちそうさまでした」と告げて席を立つ。アスラもそれに倣い彼女を真似て立ち上がると、まだ話は終わっていないとばかりに、離れようとする少女を捕まえ引き寄せた。
「目に映るもの全てが、キミに優しいとは限らない。不安の原因を遠のけて何が悪い?」
「知らないままでいることは罪です」
向日葵はアスラから視線を外し、目を伏せる。そして彼の腕から逃れようと身を捩った。
「あなた方は私の家族のことも隠してしまうから、身をもってわかりました。知らぬを通し続けることは罪です。特に、自分に関することへ無関心でいることは酷く愚かなことです」
家族の話を出され、アスラも多少の後ろめたさがあるからか、向日葵の拘束を解いてやる。自由を得た少女は、微笑して、自らの意思で彼のそばを離れない選択をした。
アスラは力なく笑みを返す。
「私を置いて出て行かないのか」
「しょぼくれたアスラさんを置いて行くほど、非情じゃないですよ。演技だったら怒りますけど」
アスラを慰めるためか、珍しく向日葵の方から彼の頬へと触れてみた。
アスラは驚いて目を丸くし、その感触を受け入れることしかできない。
「誰かを想って、隠したり、遠ざけたりすることは、最善ではないけれど、最悪でもないです。とても自然なことだと思います。だから、あなたばかりを責めません。知ろうとしなかった私にもきっと責任があるから」
「なんだか、懐かしいな」
アスラが漏らす言葉に、向日葵は手を引っ込めて首を傾げた。
照れ隠しか、彼は手で自らの口元を覆い、一歩彼女と距離を取る。
「昔もこうして、キミから諭されるような説教をされた」
「それは……」
果たして誰のことを指しているのか。向日葵にはわからない。
けれどアスラにとっては、同一の魂である彼女は、どんな名であろうとも彼女なのだ。
ただ、記憶を慈しむ悪魔の姿に、まるで覚えのない少女は複雑に苦笑した。
熱烈なラブコール送る男へ塩っけが強い対応をする女の子の取り合わせが好きなのかもしれません……この二人、果たしてくっつくのかな……?




