5.転げ落ちたのは、
20/08/13 挿絵を足しました。
閉じていた瞼を開けると、見慣れない天井が映る。
寝台へ埋めていた身体を僅かに起こしたら、相変わらず慣れない自室を睨め回した。
眠い目を擦って見ても、景観が変わることはなく、まだ尚続く不思議な館の夢に肩を落とす。
昨日はアスラ、ヴェロニカとお茶を終えた後、アスラと共にこの館を見て周り、住人ひとりひとりと挨拶をした。
住人、というより、住み込みの使用人という方が正しいだろうか。
ここにいる者たちは皆、アスラを「主人」と呼びそれぞれが役職についてるようだった。
庭師だとか料理人だとか。
広い館だ。その人数はそれなりに多く、すぐには覚え切れそうにない。
お陰様で、疲労困憊な向日葵は部屋へ戻るや否や、深く深く眠りについてしまっていた。
着たままだったはずのセーラー服は脱がされ、柔らかな寝具に変えられている。
十八にもなって人の手を借りて着替えることになるとは思わず、この館の内装も相まってちょっとしたお嬢様になった気分だ。少しばかし気恥ずかしい。
夢が続く以上は、いつまでもだらしなくベッドの上でぼんやりしているわけにもいかない。向日葵が床を覗き見ると、ご丁寧に履物が揃えられていた。
至れり尽くせり、とはまさにこのことだろう。
履物に足を滑り込ませ、立ち上がる。さあ、着替えなければ、と思うものの着替えはおろか、もともと着ていた制服もいずこやら。
クローゼットの中だろうか、とその場所へ向け一歩踏み出したところで、部屋の扉が開いた。
「おはようございます〜向日葵ちゃん」
「ええと、あなたは?」
見覚えがある茶色い髪の女性がお辞儀をして入ってくる。
向日葵は昨日の記憶を遡ってみるけれど、確かに顔を見た覚えがあるというのに名前だけがどうしても出てこなかった。
申し訳なさそうな向日葵を気に留めず、女性はふわふわした笑みを浮かべ「あらぁ」と。
「そういえば、この姿できちんとご紹介してなかったですねぇ」
彼女ののんびりとした口調に向日葵は、記憶の隅へ追いやって蓋をしていたことを思い出しかける。
しかし、ざわめく心の奥底が、頑なにその蓋を開けてはいけないと警鐘を鳴らしていた。
不安を募らせる向日葵の内面など露知らず、女性は改めてお辞儀をして名乗った。
「私はフェロメナって言います。向日葵ちゃんの身の回りのお世話を任されましたぁ」
ひやり。首元に鋭く冷たい刃物を突きつけられたかのようだ。
昨日、館を見て回った中に彼女はいなかったというのに、向日葵はその名に聞き覚えがあるのだ。
そう、それはこの夢の原初にして、できることならば忘れてしまいたい恐ろしい悪夢の中で聞いた名前。
まじまじとフェロメナの首元へ目を向けるけれど、ブラウスの襟で全貌を見ることはできない。
とはいえ、もしあの悪夢の通りなのだとしたら、そもそも彼女がこうしてにこやかに笑みを浮かべて現れることなどあり得ないだろう。
首が落ちたら、普通ならば生きていられない。
恐ろしい光景を思い出してしまったことでほんの少し青ざめた向日葵は、焼きついた光景を今度こそ忘れようと思考の外へ追いやった。
視線を落とし深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから向き直る。
「フェロメナさんは昨日私が館を見て回った時にいませんでしたよね?」
「ああ〜ええとぉ、昨日はですねぇ」
間延びした語尾で笑みを浮かべたまま悩んで見せてから、「ヴェロニカ様から絶対安静って言われてお部屋に閉じ込められてましたね〜」と続けた。
成る程。体調が良くなかったから気を使って彼女の部屋には行かなかったのか。合点が入った向日葵はフェロメナの笑顔へ微笑を返した。
「そうだわぁ、私のことはフェロメナでいいですよ〜。敬語もいりません〜。向日葵ちゃんからさん付けで呼ばれるのはなんだか寂しいですもの」
「はあ」
どこか馴れ馴れしいフェロメナの態度に、僅かにたじろぐ。
見知った仲でもない相手と親しく話すのはなんだか気が引け、しかし純粋に寂しいとこぼした彼女の気持ちも尊重したい。向日葵の微妙な返答に、フェロメナは良い案を思いついたというように手を打った。
「あ! それともいつもみたいに“ちょこ”って呼びますかぁ?」
「……え?」
「フェロメナって名前があるのに、別の名前で呼ばれるのはなんだかちょっとくすぐったいですけど〜、向日葵ちゃんは特別です〜」
「ちょこ?」
恐る恐る、失礼を承知で彼女を指差して問いかけると、当人は笑顔で頷き「はい、なんですかぁ」と。
向日葵は手振りを加えて言葉を絞り出す。
「ちょこはこれくらいの大きさの兎ですよ」
人間ではないです。そう付け足すと、フェロメナは難しい顔をして首を傾げた。
「あらぁ? 昨日ご主人様から何も聞いてないですかぁ?」
「あなたに関することは何も……」
言いかけて気がつく。先程思い出してしまった出来れば忘れていたい悪夢の中で、アスラが彼女を「ぼんくら」と呼んでいたこと。そしてこの部屋で目覚めてちょこの話をしていた時、彼は再び「あのぼんくら女」と確かに悪態をついていた。
アスラのボキャブラリーが少ないとは思い難く、おそらく同一人物を指しているからこそ同じ言葉を用いていたのだろう。
ちょこは彼の使い魔の様なものだと言っていた。普通の兎ではない。だとすれば目の前にいる彼女であっても不思議はないのかもしれない。
思考にふける顔を困惑と取ったのか、フェロメナは「むむ」と小さく唸る。
「ご主人様ったら、うっかりさんですねぇ。私の紹介を忘れちゃうなんて〜。仕方が無いので自分でちょこだって証明しちゃいます!」
「証明、とは?」
「変身です〜!」
フェロメナはそういうと、楽しそうにその場で飛び跳ねた。
アスラが見せた幻が瞬きの間に解けていたように、まるで全く違う映画のフィルムをつなぎ合わせて再生した映像の様に、なんの演出も無く、そこに立っていた女性の姿が茶色い毛並みの小さな兎に変わっていた。
確かにそれは見知った兎の姿であり、ずっと可愛がっていた向日葵はこれ以上ないほど得心せざるを得なかったのだが。
「あ、あららぁ? きゃあっ」
兎から漏れる困惑の声、後に危機感のない悲鳴が続く。
その様相を目の当たりにした向日葵は、嗚呼、あの悪夢は忘れられないのだと感じて青ざめた。
「わっ、わぁーー!」
金切り声などあげたことのない向日葵の口をついて出た悲鳴は淡白なもので、これが舞台演劇であるならば間違いなく棒だと悪態をつかれていたことだろう。しかし当人は自身の悲鳴に思いを馳せるどころではなかった。
彼女の目の前に、可愛がっていた兎の頭が転がり落ち、だというのに尚もその頭部が言葉を発し続けているのだから。
ブックマークや評価ありがとうございます。気ままに書いていきたい所存です。