46.第九幕 はじまりの戯曲
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煌くプラチナブロンドの髪が、暗闇の中で揺れている。
家を、家族を、全てを失った少女に語りかける声。
彼女は劇場にいる。
彼女は夢を観る。
けれど、彼女は望む夢を手にしなかった。
「それはどうして?」
黒い化物の問いに、彼女はいう。
「豆腐ハンバーグです」
「はあ、ええと?」
「私の従兄弟は、ハンバーグが好物だったのです。そこで、美味しいハンバーグが食べれる店があると聞いてみんなで食べに行ったのですが、そこで出していたのは普通のハンバーグじゃなく、豆腐ハンバーグだったんです」
「つまり?」
「豆腐ハンバーグは美味しいですし、嫌いではないです。出されれば食べます。でも、それはやっぱりハンバーグではないですし、彼が食べたかったのは普通のハンバーグだったんですから、なんだか違うなって思うのです。それと同じで、あなたの見せてくださる夢は、素晴らしくて、幸せで、何の毒にもならないのでしょうけれど、どうしたって違うのです」
「イミテーションでは不服ですか」
「本質が異なる以上、どうしたって、それはもう別物です。私は、平和を求めるけれど、それは誰かに与えられるものでなく、自らで切り開いていくべきものです。でなければ、私は……ヒトは変わっていくことはできないから」
「あなたはまるで、御伽噺の聖女様のようですね」
「そんなことは……」
苦笑する少女に、化物は微笑う。
そして返り道を指差して「あなたの望む夢がここにないならば、長居は無用でございましょう」と。
「ええ、では。ご縁があったら、また」
「おや、言葉を盗られてしまいました。ええまた、縁があったらいずれ」
クスクスと愉快そうに笑う化物に見送られ、彼女は目覚めの戸を開く。
意識が闇へ溶けてゆくと、眠りを自覚する。これまで彼女は眠っていた。その少女の体を誰かが揺さぶり、声をかけている。
「ソレイユ、おい、起きろ。キミはいつまで寝ているつもりだ」
「ん……ぁ。おはようございます、アスラ」
「今何時だと思っている」
「日の高さからして、そろそろ、正午でしょうか?」
「分かっているなら話は早いな寝坊娘。おはようなどという時間ではない。全く、昨日の今日で疲れているだろうから気を使って放っておいたが、ヘラヘラと締まりのない笑みをこぼしていつまでも起きる気配がない! もう少し起きるのが遅ければ水をかけてやったところだぞ?」
「心配してくれて、ありがとうございます。家族の夢を見てました」
「キミの心配などしていない」
微笑みを湛えるソレイユから不満げに顔を逸らし、アスラは腕を組んだ。
数日前の悲劇と悪魔との出会い。
家は燃え、家族は皆殺され、悪魔の手を取った少女は、復讐を望まず世界平和を願う。
「あなたの力を、貸してください」とのたまうものだから、アスラもてっきり報復を行うものと思っていた。とんでもない相手と契約してしまったと思ったが、契約した以上、彼には悪魔のルールに従う義務があり、それ以前に彼のプライドが一度交わした約束を反故にすることを許さなかったので、渋々この馬鹿らしい道中に付き合うことを選んだ。
兎にも角にも、あの場所に留まり続けては、ソレイユの家族を奪った者達に襲われかねない。二人はこの数日を、当て所なく歩き続けて休まる場所を探していた。
しかしまあ、力の強い由緒ある悪魔のアスラが、ソレイユの身に降りかかる危険を取り除いているので、当の彼女は呑気なものだ。命を狙われている自覚が足りない。
加えて、彼女の願い、世界平和がなんたるかなど、悪魔のアスラにはわかりっこ無い、人間にだって答えを出すことが困難な難題だ。行き先不明の歩みに不安と苛立ちを抱いていた。
だがしかし、当時のアスラにはソレイユが世界平和なんて叶えられっこ無いと思っていたし、どうせすぐに泣き言を言って別の、もっと陳腐なことを乞うに違いないと思い上がっていたので、多少の苛立ちを抑えこみながらも彼女を見捨てたりはしないのだ。
一方でソレイユは、本当に能天気なもので、この先の道中でも、初めて観るさまざまな世界の景色に胸を躍らせて、一体何が楽しいのか、澄んだ川の水を手で掬って中空になげてみたり、飛んでゆく鳥をどこまでも追いかけてみたり、立ち寄った街で祭りがあれば、なけなしのお金で腹の足しにもならない土産物を買ってみたりした。
その度にアスラは苦言を呈してソレイユを小馬鹿にしたものだ。
濡れた服を乾かすために火を起こすのも、鳥を追って崖から落ちかけたのを引き上げるのも、食料を得るために狩りをしてくるのも、全てアスラの役目なのだから、口を酸っぱくしてあれこれ言うくらいは大目に見ても構わないだろう。
そんな無邪気な小娘かと思えば、歳の割に達観したような……老成したかのような、思わずハッとさせられる瞬間がある。
当てのない旅の目的は世界平和。少女はその道すがら巡り合う人々の悲しみに寄り添い、支え、手を差し伸べ、時に深い絶望の谷から引き上げた。
自らの食糧がなくなることも厭わず空腹の者に分け与え、仕事もない貧しいものには共に稼ぐ術を探すなど。
しかしソレイユは鉛の心臓を持つ王子とは違う。彼女はお人好しではあったけれど愚かでも滑稽でも無責任なでもなく、自分がしたことで自分に降りかかる責任を取ることができた。
彼女はただ体ばかり大きくなった者達と比ぶべくもないほどに、大人だった。
人々はそんな凛々しい少女に惹かれ、その行いに敬意を示し、いつしか崇めるようになる。
白金色の髪は神々しく。強すぎず弱すぎない光をもって迷える者達を照らし、あたたかな温もりを与える様は、まるで陽だまりのようである。
それは本当は悪魔の力であったけれど、時として奇跡さえも起こしてしまうソレイユは聖女と呼ばれ、彼女の預かり知らぬところで彼女を信じ祈る者達が増えた。
ソレイユの尊い思想は、このように人々へ浸透し、平和への礎と為す。
側から見れば、宛ら怪しい新興宗教のようにさえ思えたが、ソレイユはそれを肯定も否定もせず、苦笑いを浮かべた。
「そう、信じたいのであれば、その意思は、皆の自由です。ただ、私は私が、皆が信ずる器に相応しいとは、思っていません」
まだまだ道半ばなのだと、ソレイユは言う。
彼女の多くの施しをそばでずっと眺めてきて、彼もまた彼女と共に幾人もの人間に触れてきた。
心が折れてしまうどころか、ソレイユは自らの望みを叶えるために真っ直ぐに進み、世界平和実現の種を確かに蒔いているのだ。芽吹く時がいつになるのか定かではないが、純粋にアスラは少女を見直して、感心していた。
名声がついてからも謙虚であり、むしろ彼女を示す話ばかりが膨れ上がる様子に憂いを抱くソレイユを、アスラはそれとなく、まるで嫌味でも言うように励ました。
この頃にはもう、アスラ自身も、僅かにではあるけれど、彼女が為す世界を見てみたく思っていた。
ある日二人が、谷で野宿をしようとちょうど良い場所を探していると、人が倒れているのを見つけた。
警戒するアスラとは逆に、ソレイユはその人のそばへ駆け寄る。
「ああもう全く! ソレイユ、もしそれが罠だったらどうするつもりだ!」
「人が隠れられる物陰は数える程度でしょう? それよりアスラ、この方、薄くですがまだ息があります。薬と、水の用意を」
「そいつが倒れたフリをした賊だとか思わんのか……はあ……。水は汲んできてやるが、その女、助かるのか?」
「違います。私たちで助けるのです」
目を細めたアスラは水筒を手にソレイユのそばへより、彼女に抱かれている赤い髪の少女の様子を見た。
「いや、水汲みはキミがいくといいソレイユ、これは人間じゃない」
「何を……。いいえ、わかりました。私が戻るまで、くれぐれもこの方の身の安全を、お願いしますね」
「……ああ」
水筒を受け取ったソレイユが、道を引き返し水辺へ向かうと、アスラは小さく舌打ちをした。
ソレイユにはお見通しだった。
彼女が居ぬ間に、こっそり手にかけてしまおうだとか、そんなことを思っていたのだが、くれぐれも、身の安全を、と願われてしまっては、アスラはそれに逆らえない。
この赤毛の女が目覚めた時に、襲い掛からないとも限らない。危険は排除しておくべきだ。
そんなアスラの思惑に気づきながらも、ソレイユはその思惑を引き摺り出して否定したりなどはせず、くれぐれも、よろしく、とだけ言った。
何より、彼の内を暴いて口論にでもなってしまっては時間の無駄だ。徐々に弱っていく彼女の治療の方が優先すべきことである。
ソレイユとアスラは少女を介抱した。いまだ目覚めぬ彼女は時折酷くうなされてそのたびにソレイユが手を握り温もりを伝えてた。
「何故、この方はここで倒れていたのでしょう? それもこんなに傷だらけで……」
「さあな。捨てられたか、上から落ちたかじゃあないか?」
「そういえばアスラ、この方が人間ではないと言っていましたね」
「半分人間、半分魔物といったところか。詳しいことはわからないが、魂の質がヒトではない」
「そうですか」
呟き、ふと少女の赤い髪が顔にかかっていることに気づいたソレイユは、それを払おうと眠る彼女の額へ手を伸ばす。
瞬間、目を開けた少女が獣のような鋭い眼光でその手を睨み噛み付いた。
「っ」
「ソレイユ!」
「アスラ、待ってください」
痛みに顔を歪ませながら、今にも指を噛みちぎろうとする少女を、引き剥がそうとしたアスラを止める。
アスラの心配げな顔を見て、ソレイユはクスリと笑んだ。その穏やかな心のまま、怯えた獣のような少女を抱き寄せる。
「おはようございます。とても恐ろしい夢を見ていたのですね。でも、どうか安心して、私はあなたへ危害を加えようなどと思いません」
頭を優しく撫で、背中を摩り、全身で温もりを伝えていくと、少女の噛む力は失われて、唸り声は泣き声に変わってゆく。
言葉さえ紡げぬまま、少女は聖女の胸で泣き腫らし、すがるように抱きついた。
赤毛の少女が泣き疲れて再び寝息を立て始めると、アスラは「キミは無茶ばかりする」と悪態を吐きながらソレイユの手を取った。
噛まれて赤くなっている場所を撫で、薬を塗ってやる。
「あなたが居てくれるから、無茶できるんですよ」
「嬉しくないな。もう少し淑女らしくし給え」
「誰かに手を差し伸べる妨げになるのなら、私はその、“らしさ”を望みません」
「困ったレディーだな」
不満げに息をつくアスラ。ソレイユはニコニコと邪気のない笑顔を返した。
翌朝、少女が目覚めると、ソレイユは何があったのかを聞いた。
彼女が溢したのは悪夢の中で見ていたらしい記憶の断片。髪を掴まれ引き摺られ、石を投げられたり叩かれたり、それ以外のことは覚えていないのだと言う。
「名前も、わかりませんか?」
「知らない……わからない……」
頭を抱えて蹲り苦しむ少女に、ソレイユは「では、」と。
「今からあなたは“アリオ”というのはどうでしょう?」
「ソレイユ、そんな安易に名前をつけるんじゃない」
「ですが、ないと困りますし、それに良い名前だと思うのですが……ある国の言葉で、歌声という意味なんですよ」
「アリオ……?」
少女は自らへ向けられた名前を呟き俯いた。
その様子にソレイユは「嫌だったらごめんなさい」と苦笑する。
すると少女はふるふると首を振り「もらって、いいの?」と聞く。
「あなたが、そう望むなら」
「アリオがいい……私、あなたがくれた名前がいい……」
「ならば、あなたは今からアリオで居ていいんです。はじめまして、アリオ。ああそうでした、ご紹介が遅くなってしまいましたね。私はソレイユ、彼はアスラ。二人で、世界を平和にするための旅をしているのです」
「ソレイユ様」
アリオという名を授かった少女は、この一晩でソレイユの優しさを一身に感じていた。その為早速に彼女へ敬意を込めたが、ソレイユは苦笑して「もっと気軽に、好きに呼んでください」と。
好きに呼んでいいと言われて、ふとアリオの中で浮かんだ呼び方。彼女は顔を赤らめ恥ずかしそうに、それを吐露した。
「姉様と、呼んでもいいですか?」
「姉様ですか?」
「ご、ごめんなさい。嫌ですよね……こんな、得体の知れない奴から……姉と呼ばれるなんて……」
「いいえ……いいえ! アリオがそう呼びたいのであれば、是非!」
幸せそうに、ソレイユは笑った。
その様を、アスラはつまらなそうに見た。
ソレイユには幼い妹がいた。妹からは「姉様」と呼ばれていたものだから、驚いて、懐かしくて、はしゃいでしまったのだ。
アスラはその事に気付いていたので、後からそれとなく「実妹と重ねて接してやるなよ」と釘を刺した。ソレイユはそれに「ええ、もちろん」とどこか寂しげに微笑んだ。
行き場のないアリオは、ソレイユたちの力になりたいと言い、目的地のない旅の仲間に加わった。魔物の力が時折暴れ、制御できない様子であったアリオを見かねて、アスラは彼女を使い魔とする契約を施した。最初こそアリオも嫌がったが、そうする事でソレイユの力になれるのであればと、仕方なくそれを受け入れた。
一応はアスラが主人となるので、アリオは嫌々ながらも彼を「アスラ様」と呼び始めた。
そうして、その話を後から知ったソレイユは僅かに憂い、けれどそれを吐露することはしなかった。
というのも、アリオの動機が自分にあることをソレイユ自身はよくわかっていて、それだけではいけないと思っていた矢先のことだったから。もっと言えば、ソレイユはいずれ、契約によりこの悪魔に命を差し出す。この頃のアリオはそれを知る由もない。いずれ、アリオが慕う聖女を、アリオの主人が殺すに等しい。
残酷な結末を思って、ソレイユは沈んでいた。アスラは悪魔だから、ひょっとするとそれさえ愉しんでいるのかも知れないと思ったものだ。
しかし、実際のところアスラ自身そんな未来は想定しておらず、むしろ本当に純粋に、今、アリオが力を暴走させてソレイユを傷つけては堪ったものじゃないと、全くそれだけの理由で話を持ちかけていた。
この頃のアスラは、まだ自覚症状はないとは言え、随分と絆されていたのだった。
遂にソレイユ編!続きます!大事な話なので長めです!塩っけ対応のアスラを見てると「お前この後ぞっこんだからなーー!!!!」と愉快な気持ちになります。




