45.第八幕 ヘンリエッタ
「ごめんなさい」
消え入りそうなか細い声。
暗転の中響く旋律に掻き消えそうなほど小さな呟きを、向日葵は確かに聞いた。
それは、彼女の内側から響く悔恨だから。
後悔を抱き、譫言のように謝り続ける少女の意識。
空虚な彼女に残されたのは、決して拭うことのできない罪過の炎のみ。
なにゆえ彼女は嘆き悲しむのか?
演目が始まる。
***
その国には、墓守りや処刑人に並んで忌み嫌われる、調律者と呼ばれた者たちがいる。
国の為に捧げられる人柱を、調律者などと美しい言葉で形容して、その実行われていたことと言えば非人道的な扱いの数々だ。
身寄りのない幼い子供の中から、数十年に一度、魔女の才覚を持つものが選ばれて、多くの術をかけられる。最後は焼印を押されて、国と、調律者の責務への忠義を誓わされるのだ。
調律者は片手で数えられる程度しか存在せず、互いに干渉し合うことはない。というのもそれぞれ負わされる役割が異なるから、出会う場面もそうそうないのだ。
調律者に選ばれた少女、ヘンリエッタ。
選ばれた彼女へ最初に施されたのは豪勢な食事。それは先代の血肉を頂くことで不老不死を授かる儀式であった。
そんなおぞましいものだとは当時の彼女は露知らず、後になって事実を知る頃にはもうすでに、そのことに何の感情も抱かないほどに心を閉ざしてしまっていた。
彼女に与えられた役割は、国にとって何の利益ももたらさないとされる病人や怪我人を処分することだった。それはもはや虐殺である。
罪のない人々を集め、竈門へ薪をくべるかの如く、一人、また一人と見送り葬った。
前任者はこれを、二百年余り続けたが、とうとう気が触れてしまい自らの髪へ火をつけた。轟々と燃え盛り体が焼け爛れても、死ぬことは叶わず、しかしその治療にかける時を思えば、この炭のようになってしまった者を調理して、次の人形を用意した方が早いだろう。
そんな最期を、自らも迎えるのかも知れない。自嘲気味に笑うヘンリエッタ。されど彼女は特別だった。
この恐ろしい仕事を始め数年の月日が流れたある夜。
悪魔の使いが彼女に救いをもたらした。
忌避されるヘンリエッタの元を訪れる者といえば、仕事を伝えに来るものくらい。ただ受動的な彼女は、その相手が誰であるかなど気にも留めず、悪魔の使いから差し出された手をとった。
だが、連れられてきたのは仕事部屋ではない。初めて見る穏やかな景色に目が眩む。
館へ連れられたヘンリエッタは皆から歓迎された。
最初は何が起きているのか分からず狼狽えていた少女だったが、彼らとの交流の中、徐々に閉ざした心を開いていき、本来の明るさを取り戻していく。
そして、救いをもたらしたこの館の主人たるアスラを、救世主のように慕い、敬い、愛した。
アスラから与えられる甘やかな愛情全てを、ヘンリエッタは喜び受けとめ、二人は心の底から愛し合った。
誰がどう見てもそれは幸福な恋人の姿。
アスラはこの時、とうとう望む物を全て手に入れたのだと感じた物だ。
なぜならヘンリエッタは悠久の時を生きられる身体を持っている。彼女は悪魔と同じ未来を見ることができる。
いつまでも隣で寄り添いあって、おとぎ話の最後に綴られるように、そう、「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」そう呼べる物なのだと思っていた。
しかし、ヘンリエッタの永遠は、悪魔と共に生きられるものではなかった。
変化のない生活は、彼女の精神を破壊して、人格をねじ曲げてゆく。
当時、従者の役割を与えられていたヴィクターという男がいたが、ヘンリエッタは彼に暴力を振るうようになった。
ヴィクターは聖女ソレイユに対して大きな罪悪感をもち、その贖罪に生まれ変わりたちへよく尽くし従った。ヘンリエッタからの暴力もまた、自らへの罰なのだと甘んじて受け入れた。
抵抗しない者への暴力。それをふと自覚すると、ヘンリエッタは自らを嫌悪し何度も何度も謝った。
けれど本能的な攻撃の衝動は失われることなく、時が経つほどに膨れ上がる。彼女の乱暴さは度を越して行き、遂に精神を病んでしまった。
他者へ向けられていた攻撃はいつしか自らへ向き、度重なる自傷行為は、それを見咎めたアスラに止められた。
アスラに抱かれ、労られる瞬間のみが安寧で、けれどそれもすぐに崩壊して、彼女は自傷を止めようとするアスラに爪を立て噛み付いて抵抗した。
正気に戻るたびに「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝り、自らがアスラへつけてしまった傷を撫でさする。
アスラは「すぐに治るから気にしなくていい」と返した。
館の住人たちは、精神の不安定な彼女を警戒して、以前のように気軽に近づくことはなくなった。
そばに来るのは、愛するアスラと、傷を負わないヴェロニカ、そして従者のヴィクターくらいのものだ。
そのヴィクターもまた、長い時を過ごしたが故に、徐々におかしくなって行った。
彼は元来粗暴ではなかったはずだが、永遠にも近い時を過ごし、繰り返される暴力の異常な空間に身を置きすぎて、彼自身もまた暴力性を身につけてしまっていた。
主人に立て付く使用人など不要だ。
アスラは衝動的にヴィクターの魂を握りつぶした。
その時、ぼんやりと、ヴェロニカに尋ねた。
「ヴィクターはこんな男だったか?」
「いいえ。野心家ではありましたが、こんなに粗暴で露骨にものを言える人間ではなかったです」
「何故、こうなった?」
ヴェロニカは言葉につまり、言おうか言うまいか悩んだ。けれど思い当たるものがある。
とうとう「悠久の時はヒトの精神を壊します」と。
「ヘンリエッタを見れば、火を見るよりも明らかだよ」
暴力を嫌っていた彼女が、今では人を理由なく傷つける。
アスラは息をついて、ヴェロニカを見た。
「お前たちも、いつかこうなってしまうのか?」
魔法使いは首を横に振る。
「僕はね、“既に”もう、壊れてるんだよ」
魔法で平静を装っているだけなのだ。と、語るヴェロニカへ、アスラは俯き「そうか」と呟いた。
彼らの会話を、ヘンリエッタは聞いていた。
その日は珍しく安定していて、気分転換に館を歩き回り、アスラを探していたのだ。
しかし、自分の心に起きている変貌の原因を、彼女は知ってしまった。
彼女は、これ以上おかしくなってしまう前に死んでしまいたくなった。けれど不死の身体という檻は、彼女の魂を決して手放さない。
同じ寝台で共に眠るアスラへと、ヘンリエッタは投げかける。
「アスラ、あなたにお願いがあるの」
「キミが私に願い事とは珍しいな」
眠気もあるからか、この時のヘンリエッタはとても穏やかで、アスラを心の底から愛し、その頬を撫でながら願いを乞うのだ。
「私を殺して」
「なに?」
「もう終わらせて。これ以上、あなた達を傷つけたくないの」
言葉の途中で、遮るようにアスラは彼女へ口付けをした。
深く、深く。呼吸もままならないほどに。
口を離した時には、涙目でぼんやりとした様子のヘンリエッタがいる。
「何も考えなくていい。苦しいなどと思う暇を与えないくらい私はキミを愛すよ、ヘンリエッタ」
「アスラ……」
息を整えようとする少女へ、言葉のままに隙を与えないとばかりに、悪魔は再びキスをする。
彼は彼女の願いを聞き入れなかった。
ヘンリエッタは、与えられる愛情をただ感じて、その時はそれ以上の思考を許されることはなかった。
しかし、いつまでもそうしていられるはずもない。少女の心が壊れていくことは誰にも止められやしない。
ヴェロニカがもし誰に対しても万能で有れば、その破損を修復することも出来たのかもしれないが、たらればの話をしても意味などない。
彼女は感覚をすり減らしていき、とうとう殆どの時間を人形のように無反応で過ごすようになった。
まるで、初めてこの館に来た時のように自主性がなく受動的で、でも、あの頃のような耐え忍ぶ感情さえ今の彼女は持ち合わせていない。
アスラが「今日はどうしたい?」と彼女の意思を問うたところで返事はない。時たま言葉をこぼしたかと思うと、消え入るような声で「殺して」だとか「ごめんなさい」などと呟く。
誰もがそんな彼女を見ていられなくなった。
懸命に彼女を支え続けようとしたアスラも、遂に限界を感じてしまったのだ。
この状態で生きながらえることが、果たして彼女の幸せだとは言えないだろう。
契約を達していない魂に手を伸ばし、無理やりに引き抜こうとすれば、その苦痛は全てアスラへと向けられる。
焼けるような痛みが、触れた箇所から広がって、目で見ても明らかに、悪魔の手は傷つき爛れていく。
それでもその激痛に耐えながら、彼女の魂を肉体の檻から解き放てば、その灯火は新たな器を探して彼の手をすり抜けてゆく。
腫れてボロボロの手ではもう、それを掴み留めることはできなかった。
その後アスラ達は、実験と称して連れてきた屍人たちを観察し、どれほどの時間をヒトの精神が耐えられるのかを記録するようになるのだが、それは彼女達の知り及ぶことではないのだ。
***
少女は俯き「ごめんなさい」と呟き続ける。
彼らに救われたのに傷つけて、愛していたのに最も残酷な願いをした。
耐えられなかった狭量な己を責め続けて、赦しを乞うているのではなくそれこそが与えられた罰であるように、後悔の毒を吐き続ける。
彼女の意識は蘇っても尚壊れていて、幾度も巻かれ鳴り響くオルゴールのように、同じ言葉を繰り返す。
「ごめんなさい」
ヘンリエッタには、自らの先に存在する向日葵の姿には気づけない。
そして向日葵も、ヘンリエッタへ与えられる言葉はないのだ。
魔女の少女がそうするように、ただの少女は自らの両手で顔を覆った。
「つらい、ね」
投げかけるような呟きをきっかけに、過去に囚われ続ける亡霊の残響は失われる。
顔を上げた時には暗黒が広がり、演目を終えていた。
しんと静まり返った空間は余韻に浸る。
もう誰の言葉も響いていないというのに、あまりにも強い罪の意識は木霊のように、向日葵の中で響き続けていた。
いつのまにか瞳から溢れていた雫を拭い、深く息を吐きだせば、その息と共に彼女の中で跳ね返り続けていた彼女の悲しみも抜けていくように思える。
気を取り直した向日葵を待っていたとばかりに、再び場面転換。
静かな音色が道標のように鳴り響いた。
この話を書いてたらうっかりワンシーン丸々消してシェイプやり直しできなくて悲しくなったんですけどネット様の知恵を借りたら三点タップという技を覚えて取り戻せました!!いやほんとによかったです!!!




