38.劇場にて
目が覚めると、そこは劇場だった。
彼女の意識は夢を観る前に遡る。
塞ぎ込んだ向日葵は館の自室のベッドで横たわり意識を手放した。
暗転ののち広がった景色は劇場。
目を閉じていたはずなのに広がる景色に、いつの間に瞳を開けていたのだろうか?
向日葵はその場所で身震いをして後退り辺りを見回した。
どう見ても劇場、シアタールームの内装に、以前アスラから聞いた話を思い出し「これは……」と声を漏らした。
「やあ、ようこそおいでくださいました」
声をかけられ、観客席に視線を向けると、その中の一席に小さな黒い影。それはゆらりと立ち上がり、振り返ると人ならざる姿なのがわかるのだ。
黒猫だ。
服を着て、帽子を被り、二足歩行で近づくそれは、人間みたいに振る舞っているが、どう見ても猫としか言えない顔をしていた。
左右不揃いの色をした瞳は、時間経過と共にくるくるとその色を変える。不可思議な眼は向日葵をじっと見て、にこやかに続けた。
「さて、あなたはどんな夢を御所望でしょうか?」
「猫……?」
「はあ、ええと。猫に囲まれるハートフルな夢ですか?」
「喋る黒猫!?」
向日葵は青ざめて距離を取る。
劇場のケモノ正しく、獣の姿である。
一般的な猫より一回りくらい大きいだけだが、あまりにも人間的な所作は不気味だった。おまけに流暢に喋る。
黒猫は「ああ、」と自らの手足を確認する様に見た。
「なるほど、あなたにはそう見えるのですね」
「わ、私、返ります! 返してください!」
「え、うん。そうですね。ええと、どこに返るのですか?」
「どこってそれは、」
言葉の続きは虚空へ消えた。
目が覚めたら、あの家族と会えない館でまた日々を過ごさなければならないのだろうか。
向日葵がこの時、最も返りたい場所は、両親のいる家、祖父の店、それらのある生まれ育った場所だ。
悪魔の統べる館には、返りたいと言えなかった。
沈黙に対し、黒猫はニッコリ笑う。猫の笑顔は愛嬌がある。
「此処は、どんな夢でも観れる場所。望む夢をあなたにお観せ致しましょう。けれど忘れてはいけません、どんな夢でも観れるということは、此処には何も無いということです。あなたはこの劇場で、望む夢を、生きる演目を、選び取らねばなりません」
「あなたは一体……?」
「聖女様、あなたは私のことをすでに知っているはず」
「劇場の化物さん?」
「ええそう、私は化物。そして此処ではあなたに劇をお観せする、しがない語り部でございます」
恭しくお辞儀をした語り部は「さあどうぞ」と。
「お好きなお席へお掛けください。あなたの返りたい演目を、語り聞かせてご覧に入れましょう」
そうして黒猫は幕の上がった壇上へ飛び上がり、中央で再びお辞儀をする。
向日葵は恐る恐る、シートの列の隙間に足を運び、けれどまだ腰掛けぬままに、語り部を見た。
「劇が終わったら、私を殺すんですか?」
猫は目を丸くして「何故?」と返す。
「そう聞きました」向日葵は投げかけてから固唾を飲んだ。
観劇を躊躇う少女の様子へ、黒猫は舞台上の手前に座り、中空へ足を投げぷらぷらさせる。尻尾も猫らしくふよふよ動くのだ。
「そう言う場合も稀にあります」
「そうじゃない時もあると?」
「此処は望む夢を見る場所。それが終わってしまったら、元いた場所へ返らなくてはいけません」
語り部の視線は向日葵を追い越し、この部屋の後方にある大きな扉へと向いた。向日葵もその視線を追って振り返り、なんの変哲もない扉をまじまじと見る。
「でも時々、この劇場を、居心地良く思う方がいるようです。そう言う方には、残念ですが強硬手段を取ることもなきにしもあらずです」
「此処に留まらせないためならば、命を取っても良い言うんですか……?」
向日葵が一歩後ずさると、語り部は「死とは!」と仰々しく手を広げて勢いよく立ち上がった。
そして演説めいた語気で舞台の中央から語りかける。
「死とは誰かの夢になることです! 或いは、人はそうなることを転生と呼ぶのかもしれない。けれどそれは、私であって私でない、そんな誰かの夢になることを意味するのです!」
死んだモノは、来世の自分の夢になる。
それが劇場の化物の主張だった。
そして、夢は泡沫、いずれ水泡に帰す。必ず忘れ去られるもの。むしろ最初から“存在しない”もの。
何事もなかったかのように、夢の内容など忘れて皆生きていく。そうして死んだら、また誰かの夢になり、泡のように消えていく。
儚く、虚ろなもの。即ち夢。
「此処は眠りの中、あなたが魅る夢の舞台。夢の中で死んだとて、それはただあるべき場所での目覚めとなるだけです。ちょっぴり恐ろしい思いをするかもしれませんが、それだって、醒めて仕舞えばいずれ失われる……いいえ、最初からそんなものなかったことになるのです」
黒猫はコホンと咳払いを一つ。
そして言う。
「いえ、まあ、聖女様、あなたはわかっておいででしょう。心配せずとも、あなたはきっと返りたがる。それが望む夢を選ぶのか、あるべき目覚めを選ぶのか、私には分かりかねますけどね。だってこれは、あなたの物語なのですから」
笑う黒猫は無言で手を伸ばし、少女へ着席を促した。
まだなお悩む彼女へ、今度は柔らかい笑みを湛えたまま、劇場の出口を示す。
向日葵は束の間悩んだ。
この語り部の話を信じるならば、此処を出れば何事もなかったかのように、あの館で目覚めるのだろう。
それを思うと、この時はその扉に手を掛ける気にはなれなかった。ともすれば、此処で立ち尽くしていても、劇を観ない客人ではないのならばと、恐ろしい目に遭うかもしれない。
消去法ではあったけれど、向日葵は渋々、手近な席へと腰掛けた。
その様子を見守っていた黒猫。
彼女の着席に合わせて、劇場という箱は照明をゆっくりと落として黒に飲まれていく。
開幕のブザーが鳴り響き、スポットライトが語り部を照らし出す。
彼、或いは彼女は、演目にまつわる口上を高らかに語った。
そして少女の望む夢が再生された。
彼女は一時、その夢を手にしていた。
演目は二幕まで進み、このまま現を夢に貶めてしまえたら、このシナリオが現に成り代わることもまたできたのだ。
けれど、壇上に散らばった小道具たちは、夢見る少女に“目を覚ませ!”と叫ぶのだ。
少女の惑いは付け入る隙間を生み、そこに招かれざるキャストが滑り込む。
彼らは主演を壇上から引きずり下ろしに来た。そう、少女が立つべきは舞台上ではない。
魔法使いの薬を飲み込めば、夢の崩壊が始まる。
彼女はじきに目を覚ますだろう。
けれどその前に、向日葵の目に映り込んだ景色は、劇場風景。
いつのまにか明るさを取り戻した場内で、誰もいなくなった舞台上をぼんやり眺めている。
手にした台本はビリビリに破られ床へ散らばり、もう同じ劇を演じることはできないことを示していた。
気づけば隣に立っている黒猫が笑う。
「どうやら、返り道が決まったようですね」
「……はい。私は目覚めを待つ人たちを置いて、逝くことはできません」
語り部は「そうですか」というと、向日葵の隣の席へと掛けて、彼女の手に猫の手を添えた。柔らかい肉球の感触が伝わる。
「しかし、中途半端な演目で終わってしまうのは忍びない。あなたが良ければ、これから語るお話に付き合ってはいただけませんか?」
「ええと……」
せっかく返る決心がついたところで引き止められて目を泳がせる。
また夢を見て、今度も目覚めを決意できる自信はあまりない。
心中を察して語り部は「無理強いはしませんが、」と。
「しかし、あなたはもう返りたがっている。自分の居場所を知るヒトは、ちゃんとあるべき場所へ返ることができるでしょう。それに、安心してください、これからするお話は、あなたの物語ではないのですから」
「では、誰の?」
「あなたの内にある一欠片、あなたであって、あなたでない、いつか誰かの夢物語です」
向日葵はピンとくる。
語り部の言葉に、これから語られるだろう話の内容に見当がついた。
少し迷ったけれど、戻る前にわずかでも、その夢に触れてみたいと思った。
笑みを浮かべて向日葵は言う。
「もし、私が返りたがらないことがあれば、強引にでも叩き起こしてくださいね」
「……ええ、必ず。あなたには返りを待っているヒトがいるのですから」
どうやら少女の眠りは、黒猫の気紛れに付き合って、まだもう少し続くようだった。
やーーーーっと劇場だーーーー!!推しだーーー!!!!!語り部ーーー!!!私だーーーーー!!!わーーーーい!!!!創作推しキャラが黒猫になってしまわれたーーー!!!!延々肉球ぷにぷにして赤面させたいです。




