29.憧憬
珈琲豆を入手した向日葵は、早速に珈琲を落とした。
豆は荒めに挽き、湿らせてあるネルの水気を別の布で取り除いてから、挽いた豆を入れる。スタンドに取り付け、落とした珈琲を受けとめるサーバーを置いたら、沸騰したお湯をドリップポットへ、余った湯はカップに注ぎ温めておく。
準備が整えば、ポットを握り込むように持ち、少量のお湯をゆっくりと豆へ回し入れる。
二十秒から三十秒の蒸らし時間を終えれば、残りのお湯も回しながら注いでいく。
もこもこと泡を含み盛り上がる珈琲の粉の様子を見て向日葵は恍惚とした。この様を見るとうっとりする。彼女のささやかな癒しだ。
立ち上る湯気と共に珈琲の香りが鼻をくすぐる。湯を注ぎ切ったら、まだネルから滴が落ち続けているが、残りは捨ててしまう。最後の滴は雑味が含まれてしまうからだ。
サーバーに抽出された黒い液体を、温めておいたカップへと注ぎ、待ちに待った向日葵はすぐさま一口含む。
ほっ、と息をつき至福の瞬間に包まれる向日葵の様子に、周りにいた者たちも気になって、残りのコーヒーを一口ずつ飲んだ。
それぞれが違う感想を抱いているようだが、決して悪評だけではない。
レフは気に入っている様子だった。(味覚センサーがある高性能な機械人形らしい。ますます人間との違いがないなどと思う)
彼らからの評判を見て、向日葵は確信を持って息巻く。これならば明日、アスラへ振る舞っても問題ないだろう。
向日葵は、珈琲の苦味に涙目になっているフェロメナへ、明日は珈琲を作りやすいように、動きやすい服にして欲しいと頼む。
レイラとレフとオリガには、厨房を借りたいと話をつけて、ついでに珈琲に合いそうな茶菓子を今日のうちからこしらえてもらえないかと相談した。
準備が整った向日葵は、夕食を終えたあと、今日も今日とてもアヤメに湯浴みを手伝われ、眠る前にフェロメナと衣装合わせの話をしてから床についた。
懐かしい珈琲を味わったからか、その日は夢に家族の姿を観た。
十八の誕生日、冷蔵庫に前日から用意していたケーキが入っていて、学校が終わり帰宅したらちょこはすやすやと大人しく眠っている。制服から部屋着に着替え、夕食を終えればケーキを出して、少女は家族全員の珈琲を落としてマグカップへと注ぐのだ。珈琲は苦手だという両親は彼女のお手製ならば必ず美味しいと言って飲んでくれたし、どうやらそれは本心から来る言葉のようだから彼女は笑顔で賛辞を受け止め、日々珈琲を振る舞った。祖父母は近くに住んでいるので、お祝いに来る時も有れば、手紙や贈り物を届けるだけのこともあった。今回は両親ともの祖父母が来てくれて、部屋は大変賑わって、広いとは言えない家に大人数がギュッと詰まって窮屈ではあるけれど、自分を祝いに来てくれる人がこれだけいることを実感できて、恥ずかしさもあれど、とても幸せだった。
幸せだったのだ。
夢の中で誕生日のパーティーを終えた少女は、もらった新しい珈琲豆を明日飲むことを楽しみに思いながら、プレゼントの本のページを捲る明日を想起しながら、次の休みには祖父がサイフォンの使い方を教えてくれるというそんな約束に胸を躍らせながら、眠りにつく。
暗転。
暗闇が世界を包み込むと、すぐにまぶたに光を感じる。
まだ眠っていたいけれど、薄く目を開ける。ほんの少し見慣れてきた、それでもやっぱり馴染みの薄い天井が視界に映った。
目覚めた向日葵は、少しでも夢の余韻に浸れやしないかと、ギュッと目を閉じる。本当は、懐郷心で目頭が熱くなって、雫が溢れてしまいそうだったから。
再び目を開けても変わることはない景色に、彼女は落胆した。
いけない。今日は約束の日なのだ。しゃっきりしなくては。
ここに来なければあったかもしれない過去の幻覚を振り払い、上体を起こした向日葵は息を吐く。そしてまずは顔を洗おうと寝台を下りるのだ。
ここでの朝も慣れてきたもので、勝手も随分わかってきた。
部屋には洗面所が備えられていて、そこで顔を洗う。そこにはいつも綺麗なタオルが用意されていて、柔らかなそれで顔を拭く。鏡に映ったもう一人の自分と対面して、いつものどこかぼんやりした顔に、けれどやや憂いを感じられた。
もう一度顔を洗い、水の冷たさを感じれば、少しはマシになったんじゃないだろうか。
「よし」
気持ちを切り替えて呟いたら、着替えを用意する。
フェロメナは今日は寝坊らしい。朝早くに来て待っていることも有れば、待っている間に眠ってしまうこともあったり、今日みたいに部屋でぐっすり寝坊して、寝癖をつけたまま慌てて飛び込んでくることもあった。まだ来ていないということは寝坊なのだろう。
アヤメが来てからは、彼女がフェロメナ起こして連れてきてくれたけれど、まだ来ていないあたり、あのお寝坊さんを起こすのに手間取っているに違いない。
動きやすさを考えて、カットソーとサロペットを合わせる。
随分親しみやすい感じになっただろう。最近はフェロメナに盛りに盛られていたから、この飾りっ気のない感じが非常に落ち着く。パンツルックはとても気楽だ。
さて、髪型は。前に垂れ落ちたら邪魔になるので、適当にくるくるとまとめてお団子にしてしまおうかと思っていると、ドアが開けられバタバタと二人の女性が入り込んできた。
「遅くなってしまい申し訳ありません!」
「ごめんなさい〜! また寝坊しちゃいましたぁ!」
「おはよう、二人とも。私は一人でも着替えられるし平気だから、気にしないで」
頭を下げていた二人にそう声をかけると、顔を上げた二人は申し訳なさそうに「おはようございます」と返す。
「残りは私たちがやりますから、向日葵様はお座り下さい」とアヤメが言う。
するとフェロメナは向日葵の服をマジマジと見て「別の服に変えませんかぁ?」と物申した。
「向日葵ちゃん、せっかく可愛いのにお洋服がちょっと地味でもったいないです〜!」
「この方が動きやすいよ。それに今から選んでもらったら朝食に遅れちゃう」
「うぅ……こんな大事な日に遅れちゃうなんて悲しいです……」
せめて髪型は華やかにします。としょぼくれたフェロメナの様子に向日葵はおかしくなってくすくすと笑った。
アヤメの方も「本当に、こんな大事な日に遅くなって申し訳がないですわ」と。
先ほどからやや気になった向日葵は、愉快そうに「大事な日なんて大袈裟な」とこぼす。
するとアヤメがずいと近寄って「大袈裟じゃありません!」と強く返した。
「今日は向日葵様とご主人様の初デートじゃありませんこと!」
「え?」
「そうですよ〜、向日葵ちゃんは特に人生初のデートじゃないですかぁ!」
「で、デートじゃないよ?」
向日葵は慌てて首を横に振った。
すでに髪を結い始めていたフェロメナにその頭を無理矢理止められてしまうと、鏡の自分と対面する。なんとなくだが、今は自分の表情を見たくなくて、彼女は視線を落とした。
「まあ、違うのでしょうか?」
アヤメもやや驚く。
男と女が二人で一緒に過ごすだけでデートだと言うのは、些か気が早すぎる。
向日葵は改めて「デートじゃないから」と告げた。
向日葵の中では、そんな浮かれたものというよりは、もっとこう、仕事のような感覚が強いのだ。
彼のご機嫌を取るために、週に一度、話し相手になる。ここで過ごす以上、課せられた義務にも近い。アスラを邪険にし続けることができないから取り決めた約束に過ぎない。
ただまあ、どうせ過ごすなら、互いに楽しく有意義な時間であった方がいいから、悩みに悩んで予定を決めただけで、特別親密になりたいと向日葵は思っていなかった。
しかし、向日葵の否定を聞いて尚二人は「ご主人様の方はその気だと思いますけどね」と零した。
そうかもしれない。ほんの少し罪悪感が湧く。
まるで気がないのにそう言う素振りをみせる(少なくとも向日葵はそうは思っていないけれど、誤解されかねない)というのは、巷で聞く小悪魔女子というものではないだろうか。向こうは本物の悪魔だけれど。
期待しているだろうアスラには悪いけれど、彼にも改めてそういった意図はないのだと伝えた方が良いなと、向日葵は密かに思った。
苦労のため息が漏れると、いつの間にやらヘアアレンジが終わっている。
編んだ髪を丸め上げたシニヨンヘア。フェロメナはちゃんと向日葵の要望に応えて動きやすい髪型にしてくれた。少しでも華やかになるようにリボンの飾りをつけてくれる。
軽いメイクを終えれば、準備は万端だ。
「ええと、それじゃあ、行ってきます」
「何かあればいつでもお呼びくださいませ」
「楽しんできてくださいね〜」
行くと言っても館の中。出かけるわけでもないのになんだかちょっと変な感じだが、二人は笑顔で見送ってくれた。
さあ、そうして向日葵は待ち合わせのダイニングへと向かって歩き出す。
この頃にはもうすっかり、夢の憧憬は忘れてしまっていた。
ゲームが楽しすぎてやめられない気持ちを抑え作業に勤しみ就活もコツコツ進めています…!いやあ本当、ゲーム楽しい……。
隙間時間にちょこちょこ書いてますがなかなか進まんものですね!
あと相変わらず私はサブタイのセンスがない!ぴえん!




