第六話 御伽岳下山
夕刻。雲間に蔭る太陽を背に、御伽岳の斜面を歩く二人と一匹の影があった。
「そういえば、挨拶がまだであったな」
御狩場を通り過ぎ、国境を目指して下山に勤しむ最中、山杖をついて先頭を往く無宿人の男が、遅めの自己紹介をする。
「拙者、森田甚五郎と申す。応州武津国は丙午村出の、武芸者見習いの者だ」
「武津国とは、また随分遠いところからやってきたのですね」
やや大股気味で後ろを歩く彩姫が、息を切らし気味に尋ねる。
「しかし、なぜ御伽岳に?」
「なに、武者修行の一環で、山籠もりでもしようかと思ってな」
「武者修行?」
「今は時代が時代だ。安定した食い扶持を得るためには、士官を目指すのが一番の近道。諸国を巡り、力をつけ、高名な剣豪を斃して名を上げる。そうして、いずれは一国の主に仕える立場にありたいと考えている」
「それでしたら!」
彩姫が、それまでの疲労を吹き飛ばすかのように、突然明るく言った。
「藤尾家再興の暁には、是非とも一番にお仕えくださいまし」
「藤尾家再興……あぁ、なるほど。そうか」
納得がいったように、一人森田は頷く。
「藤尾家と越碁国の中杉氏とは、同盟関係にあると聞いたことがある。それでか。中杉氏の下を訪ね、助力を乞うわけだな?」
「はい。宗近様でしたら、きっとお家再興のお力になってくれるはずと思いまして、越碁国へ向かおうとしていたのでございます」
わざわざ彩姫の表情を見なくとも、森田には分かった。彼女の心は真っすぐで、そこから溢れる言葉には一点の翳りもない。逆臣に国を奪われて落人の身になりながらも、やさぐれずに希望を見出そうというその姿勢に、森田は感心した。強い心を持った女子だと。
だが同時に、拭いようもない不安もある。
「中杉宗近と言えばその昔、尾琶里の井間川と三日三晩の合戦の果て、単身敵陣へ突入し、背に七つの矢を受けてもひるまず、大将首を獲ったことがあるそうな。故に巷に広まった名が、七矢宗近。その勇名と戦運びの巧みさは知っておるが、人柄についてはあまり聞かんな。信頼に値する人物なのか?」
「それはもう、素晴らしい御仁にございます」
森田の、少し遠慮気味な問い掛けに、間髪入れずに彩姫は応じた。
「幼き頃に一度お会いしたことがございますが、何とも立派なお方でございました。情に深く、義に厚い。まさに武道を絵に描いたようなお方です。ですからきっと、此度の藤尾家の窮状をお話すれば、力になってくれるはず」
「そうか。なら良いが」
「ですからどうか、士官の件、考えては頂けませんでしょうか?」
「気が早いな」
「貴方様ほどの腕の立つお方なら、きっと近いうちに名が広まるに決まっております。ですから、引く手数多になる前に、こうして誘っておるのです。あ、当然、高禄で召し抱えさせていただきますよ。どうでしょうか? 悪い話ではないと思いますが」
「姫様。こんな訳も分からない者にそのような話をするのは、ちと不用心過ぎますぞ」
勇んで喋り続ける彩姫だったが、そこで待ったをかけるように、懐中から首だけを覗かせて栗介が苦言を呈した。
「肚の底では、何を考えているか分からぬものですからな」
その表情はまさに獣そのもので、感情の起伏は伺えない。それでも、その体内に宿す発声器官から出た声には、明らかに疑念の色が含まれていた。
それも、数日前に起こった謀反を経験していれば仕方のないことだ。今や藤尾家縁の者は、この二者だけしかいないのだ。当然、以前より寄り糸の如く強かった双方の絆は、更に固く結びついて離れぬ。
そんな二人の前に忽然と現れた謎の風来坊は、全く何の利益にもならないであろう亡国の姫君の用心棒を買って出たのだ。一時の感謝こそあれ、正気の沙汰とは思えない。
何か裏があるのではないかと探りを入れるのは、栗介にしてみれば当然の流れであった。故に、接し方もきつくなる。
「おい無宿人、もしも、姫様を裏切るような真似をしでかした折には、ただでは済まさんぞ」
「安心せい。もとよりそのような魂胆など抱えてはおらん。それとも、妖獣殿はまだ俺を信用できぬと申すか?」
「当然じゃ」
「なら、追い返せばよかろうに」
「姫が同行しても良いと申した為、こうして黙認しておるのだ。主命に従ってこその臣下であろう?」
「なるほどな。では聞くが妖獣殿、お主自身は俺の事をどう思っておられるのだ?」
「決まっておろう」
栗介が、あからさまに意地悪な調子で言った。
「今は一人でも多く、我らの盾となる肉壁が欲しい。故に同行も止むを得ん。まぁ、それが本音じゃ」
「これ! 栗介! そんな口の利き方、一体誰から学んだのですか!」
平手で口減らずな妖獣の小さな頭を叩こうとしたところで、栗介は素早く身を反転させて姫の懐から背中へと回り込み、そこからまたもや首だけを覗かせた。
鉄鼠族らしい、実にきびきびとした身のこなしである。悪びれる様子もなく、栗介は姫に耳打ちする。
「しかしですなぁ、姫様。儂の気持ちも分かってくだされよ」
「お黙りなさい、栗介。確かに、我らは許せぬ裏切りに遭った身ではございます。それ故、見ず知らずの他人を疑いたくなる気持ちにもなりましょう。しかし、それとこれとは話が別。命を救ってくださった恩人に、その言い草はあんまりです。人を疑えというお主の意見もわかりますが、今は時と場合を考えるべきです」
「儂は、時と場合を考えて忠告しておるのですが……」
「栗介!」
「もうその辺で良いだろう」
苦笑を交えて、森田の肩が小刻みに震えた。
「妖獣殿の弁は、今世の時勢を鑑みれば何も間違ってはおらぬ」
「ですが……」
「人を疑うのに越したことはない。数多の国々が帝の認可を得て天下人に成らんとする、この戦国乱世の時代。策謀が渦巻く世を生き抜くのに、疑を以てかかるは賢明だと言えような……しかし」
何かを思い出して、森田は思わず吹いた。
「肉壁とは、中々手厳しい。良い性格をしておるな、妖獣殿」
「お主な、そんなことで一々笑っている暇があるなら、早く水辺を探さぬか」
わざとらしく、栗介がひいひいと、その赤く小さな舌を覗かせる。
「儂も姫も、さっきから喉がからからなのじゃ。このままでは関所を越える前に干上がってしまうわ」
「い、いえ! 私は別に喉など渇いておりませんので」
「強情も程々にしておいた方が良いですぞ、姫様。水筒に蓄えていた水も、全てこの男を助けるのに使ってしまったではありませんか。あれから一滴も水を口にしておらんのです。喉が渇かないという方がおかしい」
「それは……あ、森田殿、お気になさらないでくださいまし。私が好きでやったことですから」
慌てて森田の気を遣おうと言葉を紡ぐ彩姫。だが、それを遮るかのようにして、彩姫の肩へ飛び乗った栗介が身を乗り出し、更に森田を挑発する。
「さぁほら、無宿人。早く水をくれ。これは重大な使命じゃ。もし務めを無事に果たしたら、お主の実力を、まぁ、認めてやらんこともない」
「そう言うと思って、今、水辺に向かって歩いているところだ」
「なに?」
「本当ですか?」
栗介と彩姫は、思わず周囲を見回した。虫のさざめきに包まれる山間。辺りには茂る木々や草花だけだ。
そもそも今、森田達が歩んでいる道は、彩姫や栗介が良く知る参道者向けの歩道を大きく外れた獣道も獣道。敵の目を逃れて国境へ向かうには、この道しかないと森田は言っていた。
その言葉を呑んで従った彩姫達であったが、もしかすると森田は最初からこうなることを見越していたのだろうか。だが、何処をどう見ても、水辺らしき場所は見当たらない。
「戯言を抜かすも大概にせんか」
呆れた物言いの栗介。
「お主の目は節穴か? 谷合へ向かう道を我らは進んでいるのであろう?」
「たとえ谷合であろうと水はある。それに、何も戯言を抜かしたわけではないぞ」
「何か証拠があると言うでか」
「うむ。あれを見よ」
そう言って森田が指さした先。一本の木があった。その根元から自生するのは、青紫色に彩られた、慎ましくも美しい草花。
「あの花がどうかしたのか?」
「津幡の花だ」
「それは知っておる。水草の一つであろう? あれがどうかしたのか」
「分からぬか? ここら辺りに水源があることの、何よりの証拠だ」
「なにぃ?」
「ちなみにな、ここに来る途中で黒螻の穴も幾つか見つけた。黒螻は年中湿った土穴の中でしか生きられぬ虫。それに加えて津幡の花もあるという事を考えれば、この辺りに水脈の気配があるとみて、間違いはないだろうな」
自信たっぷりに森田は言った。彩姫は彼が持つ草木の知識にいたく感心したようで、憧れにも似た目を向けている。栗介は虫の居所が悪いのか。尾っぽを執拗にゆらゆらと左右に振り続けるに終始していた。
「まぁ、でまかせにしては、なかなかに力ある説よな」
「これでも納得できぬか?」
「できぬわ」
「そうか。妖獣殿にそう言われると、ちと自信が無くなってきたな」
苦笑いを一つ浮かべると、森田は袷に手を入れた。取り出したのは、先端が丸い板状に加工された金鏝だ。
「一つ、やってみるとしよう」
森田はその場にしゃがみ込み、いそいそと金鏝で地面を掘り返し始めた。一体何をしようと言うのか。森田の突飛な行動に、彩姫も栗介も、黙ってその様子を見守ることしかできない。
すぐに腰ほどの深さまで土を掘り返すと、森田は地面に耳を当てた。
意識を集中させ、音を聴く。
深い静寂の中、鼓が鳴るような音がひそかに聞こえたのを確認すると、
「うむ」
確信と共に頷く。
そして、また金鏝を使って地面を元通りに戻し、振り返って快活に宣言した。
「間違いない。やはりこの先に水辺がある。さぁ、日が没する前に往くぞ」
▲▲▲
「凄いです森田様!」
夕闇が夜空を覆いかける頃。彩姫の喜びに満ちた声が、渓流のほとりに響いた。膝の高さまで浸かる清流の冷たさをものともせず、森田は素手で捕まえたばかりの岩魚を手に、控えめに微笑む。
そんな二人のやりとりを、やや離れたところで栗介が見つめている。心なしか、その表情はどこか憮然とした風で、少なくともこの状況を好んでいないのは確かだ。あれだけ小莫迦にしていた無宿人の思う通りに事が運んで、不貞腐れているのだ。
結論から言って、森田の言は正しかった。あれから一行は日が暮れる前に無事に御伽岳の谷合へ辿り着き、水源を確保した。山の頂上から流れる灘川の支流である。
「それにしても、驚きました」
夕餉用の岩魚を既に三匹ほど素手で捕まえ終えた森田に向かい、彩姫が川岸から声を掛ける。
「草木や水脈に関する知識が豊富なばかりか、素手で岩魚を捕まえるとは、見事という他ございません。やはり、何か秘訣があるのですか?」
「秘訣、というのは少々大袈裟だか、心に留めている事はある」
森田は川面へ視線を向けながら、水の流れと同調するように語り始めた。
「魚影を追うのではなく、川の流れを追うのだ」
「川の流れ、でございますか」
「そうだ。水流は常に一定方向を向いて、規律を保ち続けている。しかしながら、魚が泳ぎの中で身を翻そうとするその刹那、僅かではあるが流れに『異』が起こる。普遍の流れに生じる微かな違和。魚影ばかりを追っていては、決して掴むことのできぬ確かな間隙だ。それを見定めて――」
ざぶり、と森田の右腕が水底を掬い上げる。
「腕を突っ込んで、引き上げる。そうすると、ほれ、この通り」
飛沫を上げて、ばちばちと森田の手の中で悶える岩魚。程よく脂が乗っているのが、身の膨らみ具合で分かる。これで、四匹目だ。
「また、掴もう掴もうと、気をはやるのも良くはない」
「そうは申しますが、難しいことにございまする。違和の間隙を突くなど……」
「そうだ。だからこそ、魚獲りにも鍛錬がいる。己の意を消すのは無論、そこから起こりうる挙動にも、意を含ませてはならぬ。朝露が葉先から零れるように腕を沈ませ、煙が立ち上るように腕を引き上げる。これは武芸にも言える事だ」
岩魚を手にして、森田は川岸に上がりながら、独りごちる様に呟いた。
「いや、武芸だけではない。人の生き方、そのものかもしれぬ」
「生き方……意を消すことが、より良き生に繋がると?」
「俺は、そう信じている。意を消すということは、何もないという事。思考を放棄することに似ていて、本質はまるで違う。つまりは、心を空にするという事だ。そこから生じる理こそが、この世の天と地を結ぶ不変の理念。変化はせず、新しく生まれ出ずることもない。だがそれは確かに、この世界のどこかで古来より連綿と受け継がれ、不滅不変にして、天地の間を埋め尽くしている。現実には見えなくとも、確かに、それはあるのだ」
まるで、己に言い聞かせているような物言いだった。一介の武芸者にしては、どこか悟ったかのような言葉。それはきっと、彼がこれまでの生を歩んできた中で会得した考えであるのだろう。
そこに至るまでの話を聞きたかったが、彩姫は我を抑え込み、黙して森田の背中を見つめるに留まった。声を掛けるのは憚られた。
森田の背中から、それまで想像もしたことがないほどの、哀しみを感じたからだ。