第五話 魔人集いて
広間を後にした黒嶺餓悶は、その足で陣屋を出た。しばらく歩いて、陣屋のすぐ近くに隣接した、築五十年にも及ぶ土蔵の正面に立つ。土蔵の外壁はひび割れ、辺りの草木は手入れもされておらず伸び放題という有様。ここが、神戸帯刀よりあてがわれた彼の寝倉であった。
先の謀反は慚魔衆の功績を抜きにしては語れない。それは誰よりも、謀反の首謀者たる神戸が一番理解していた。理解していたからこそ、彼は恐れた。慚魔の忍。それが持つ底知れぬ忍法の力を。その力が、己の目の届かぬところで悪戯に暴れまわることを。
神戸は自ずと理解していた。天下を取るに必要なのは、まず第一に規律であると。兵の足並みを乱す者が現れては天下統一の野望は遠のくばかりだ。だからこそ、慚魔衆を特別に優遇するようなことは決してしなかった。
いくら戦の功労者とはいえ、いくら余人を超える技を備えているとはいえ、所詮は忍びだ。士とは明確に身分も立場も違うのだ。
禄はほどほどで良い。変に気を遣って専用の客間を用意してやる必要はない。いくら忠義に厚く技能に秀でた番犬であろうと、犬は決して人には成れぬ。それと全く同じであった。
忍は、まさに犬である。
得てして今世の忍とは、不遇を受け入れ、不遇の中に生き方を見出さなければならない。疑念と詭弁の渦中、陰謀と策略の嵐に呑まれて生きる彼ら忍に、表立った功績は与えられない。そうすることで忍の秘匿性がより一層保たれるというのも、また皮肉なものである。
それを不満に思う者もいる。だが一度忍の身にやつした以上、彼ら自身の意思で己の現状を変えようとするのは至難の技だ。
情報戦術に特化するのが忍の本道。それはつまり、誰よりも人の浅ましさ、愚かさを知るということ。それを知った以上はもはや人の持つ情そのものが、煩わしく感じてしまう。常に他者の何気ない一言に、疑を抱くようになってしまう。
黒嶺餓悶は、しかしそれで良いと感じていた。彼は、知名も勇名も、高禄も名誉も望まない。今更、人として生きようとも思わない。そんな些細な事よりもずっと、悦楽に浸る術を知っているからだ。
土蔵の閂を開けて中に入る。目の前に現れたのはガラクタの山だった。錆び付き、用済みとなった刀や甲冑や具足に、銃身が折れた火龍砲、その他諸々の武具が無造作に置かれている。入口より差し込む太陽の光が、宙に舞う埃を煌かせる。
餓悶が入口付近の壁に手をついて、押し込むように力を込めた。すると、ずずっと重石がずれる音が響き、足下に地下へと続く階段が現れる。元からあったものではない。餓悶が細工して造ったものだ。
手燭も持たず、餓悶はしめやかに階段を下り始めた。ほとんど、沈んでいくと言ってよかった。このまま歩き続けていれば、いずれば冥府へ至るのではないか。そう彷彿とさせる程の、果て無き闇に満ちた土蔵の地下。
階段を下りきって暫く歩いたところで、餓悶ははたと足を止めた。そこが行き止まりであることは、地下に流れ込む風の動きで把握できた。
「集」
峻厳なる声色で呟くと、ぽつり、ぽつりと……ひとりでに火が灯り、辺りを包み込む。暗闇に明りが滲むように広がって、そこではっきりした。土蔵の地下には天然の洞窟が広がっていたのだ。
洞窟の最奥に安置されている、原初の悪を感じさせる呪的紋様が刻まれた禍々しい祭壇。そこに等間隔に置かれた三つの燭台こそが、灯の出どころであった。
そして、それぞれの燭台に燈る火から、人の声が。
(肉蝮現生)
(葵光闇)
(竜羅河蓬莱)
声の質は実に様々。ただ一点、そのどれもがおぞましき響きを伴っているのは共通している。葵光闇と名乗った声は、明らかに若い女のものだ。
(慚魔衆が精鋭――慚魔三轟忍、集いましてございまする)
竜羅河蓬莱と名乗った声が、そう告げた。地の底から響いてくるかのような、野性味溢れる若い男の声である。
「藤尾竹虎が遺児、彩姫の居所が掴めた。場所は、御伽岳山中。今から動けば間に合うだろう。何としても姫を生かしたまま捕らえ、妖獣魔笛を手に入れよ」
(お言葉ですが、御頭領。その件については今朝方、山狩りに向けて下忍どもを放ったと聞いておりますが)
葵光闇と名乗った女の声が、驕傲の調子を帯びて響いた。
餓悶は黙して頷いた。
「その通り。だが山狩りに向かった下忍十五名のうち、十二名が偶然その場に居合わせた士に斃された。こうなっては、お主らにも動いてもらう他はない」
(たかが士如きに遅れを取るとは、下忍とは言え、慚魔の風上にもおけぬ奴らよ)
明らかに莫迦にした調子で吐き捨てたのは、肉蝮現生と名乗った声だ。獰悪さを滲ませつつ、怪鳥の劈きを彷彿とさせるほどに高い声。大声で怒鳴り散らしたら、不快な残響が何時までも鼓膜に張り付くような、そんな声質をしている。
「その士と思しき男についてだが、我に少々、心当たりがある」
(それは、どういう?)
「うむ。これは我の勘によるところが大きいが、彼奴は恐らく――」
頭領の発したその一言に、姿なき三人の魔忍が確かに息を呑むのが聞こえた。揺らめく燭台の火を、じっと冷厳に見つめる餓悶。厳かな静寂が、冥界の如き地下洞を包み込む。
(それは、誠にございまするかっ!?)
(葵。御頭領のご推察が外れた試しなど、これまであったか?)
(しかし……)
(……面白い!)
威勢の良い声が、一番右端の燭台から響いた。
(御頭領、その士を葬り去る御役目、是非とも拙者めに御申し付けくださいませ)
「肉蝮か」
(はっ!)
「出来るか?」
(無論。地獄の淵を覗く思いで体得した拙者の外道忍法を以て、捻り潰して見せましょうぞ)
「よかろう。そこまで言うのなら、お主に任せる。だが勘違いしてはならぬぞ。目的はあくまで、彩姫と妖獣魔笛の奪取。心して掛るが良い」
(御意っ!)
悪虐の香りを振り撒いて、不気味に嗤う三つの燭台。餓悶は静かに目を閉じ、彼らが奏でる頽廃の調にうっとりと耳を澄ませるのであった。
「(忍を屠る士と思しき男……か)」
記憶の中に甦るのは、崩れゆく天守閣。
憎悪を撒き散らして吼える若き忍の姿。
「奇しき縁も、あったものだ」