第四話 神戸帯刀
「今、何と申した?」
江治前国は旧藤尾家が居城の阿佐鞍城。そのすぐ傍に構えられた陣屋の広間に、神戸帯刀の地を這うような声が、静かに響いた。
「もう一度、聞かせてみよ」
「は……」
下座に平伏する伝令役の兵は緊張の面持ちを崩す事なく、じっと視線を畳の目に向け続けている。それを、粛と座して上座より見下ろすは、いまや阿佐鞍城の新たな城主となった、神戸帯刀その人である。
分厚い眉毛、たらこ唇と鉤鼻、両頬の肉を削ぎ落としたかのような痩せた顔貌。正面から見るのも憚るほどの醜男である。
そこに怒りの情が混じれば、胡麻のように小さな目を限界まで見開き、悪霊に憑かれたかのように延々と相手を見続ける。それが、神戸帯刀という男の癖であった。
不気味である以前に気味が悪い。事実、神戸の一挙手一投足に生理的な嫌悪感を覚える臣下も多かった。
しかし、一度仕えた主君に最後まで忠誠を約束するのが、士という生き物の性。神戸の残虐非道な行いにうんざりすることはあっても、彼を裏切るような真似をする者はいない。
それどころか、藤尾家に対する下剋上がすんなり上手く運んだことを受けて、このまま神戸に付き従い、甘い汁を吸い続けてしまおうと企む者が多くを占めていた。
当然、謀反が成功した背後には、悪名高い慚魔衆の存在があったことは皆が承知している。それでいて兵の大半は、あれだけ奇天烈めいた魔技を駆使する忍集団を手元に引き込んだ神戸の器量を評価していた。この伝令役の兵も、そんな神戸の才を評価している者の一人だ。
この男についていけば、俺の人生も安泰だろう。それは確信として揺るぎない。だが、どうしても理で割り切れぬ部分もあるのが人の感情というもの。神戸の全身から匂い立つ野蛮な気性を好むようになる日が来るとは思えない。器量と人格とは、こうも比例しないものなのかと思わない日は無かった。
意を決し、伝令兵はもう一度、事のあらましを口にした。
「今朝方より、山狩りに向かわせていた下忍頭からの報告によりますれば、彩姫並びに配下の妖獣を、御伽岳の御狩場で追い詰めたとのこと。で、ですが、そこで身元不明の流れの士と思しき男に邪魔立てされ、やむ無く撤退したと――」
「何者だ。その士とは」
伝令兵の言葉を遮る形で、神戸の鋭い声が飛んだ。
「お、恐れながら、目下のところ見当もつきませぬ。ただ、余りにも貧相な身なりでありながら、慚魔の下忍をことごとく斃したとのこと。恐らくは旅の武芸者の類か……今はそれしか、言いようがございませぬ」
口にしながら、伝令兵は心臓が破裂するかのような感覚に襲われた。手にした鉄扇を弄ぶように、鉄扇を開けては閉め、開けては閉める神戸帯刀。苛立っている何よりの証拠。その音が、陰湿な気を孕んで、兵の耳にこびり付いて離れない。
「ふ……」
激高し、失態を咎められるかと思いきや、神戸は薄っすらと笑みを浮かべるだけで、続く兵の言葉を待った。それを察して、伝令兵は指示を仰いだ。
「殿……いかが致しましょうか」
「まぁ、暫くは泳がせていても良いだろう」
「よろしいのでございますか」
「案ずるな。狩りと同じよ。獲物を直ぐに捕らえたとあっては、つまらぬ。それに今回の獲物は、とびきりの上玉。極限まで追い込み続け、完全に心が疲弊したところを捕まえて、いたぶる。そうでなければ、愉しくあるまい」
さも嬉し気に笑うその姿を見て、伝令兵はごくりと唾を飲み込んだ。
神戸帯刀。この男の頭の中には常に、黒き情念が棲み付いている。他人から全てを奪い去って無理やりにでも従わせるか、従わなければ殺すかの、二つのことしか無い。事実、その無慈悲な思考の犠牲となったのが、藤尾家だった。
「報告は以上か?」
「はっ」
「なら、もう良い。下がれ」
「はっ! 失礼いたします」
逃げるようにして伝令兵が広間を後にした。
神戸は再び鉄扇を手元で弄り始めると、広間の隅へ視線を向けた。そこには、地蔵の様に黙して正座する一人の男がいた。この男もまた今朝方からずっと、神戸と共に彩姫捕縛の知らせを待ち続けていたのだ。
今は昼時。数刻前には曇り空が広がっていたが、先ほどから再び太陽が活気づいて暖かな陽光を降り注いでいる。心地よい日差しは陣屋の広間にも及び、舞い散る埃の粒子をきらきらと輝かせている。
それなのに、男の周囲だけが深淵の底へ放り込まれたかのように暗黒の気に溢れていた。単に、全身を漆黒の忍装束に包んでいるからではない。そういった物理的要因とは、かけ離れた闇がある。
太陽が、この男の存在を徹底して忌避している。そう例えても決して大袈裟ではない。
男が放つ気は陰に満ちるが、神戸の内にあるそれとは全く本質を異にしている。男の纏う陰の方が、ずっと深く、鋭く、迂闊に触れようものならば瞬く間に心を腐らせる。そんな化生じみた意がある。
仮にもし、実は自分は人外の者であるのだと男が唐突に宣言したとして、そこには驚きや戸惑いよりも妙な納得が残るに違いないと、神戸は思った。
「今の話、どう思うか。黒嶺餓悶よ」
やや緊張した様子で尋ねると、漆黒の男は神戸へ向き直った。
黒嶺餓悶。この男こそ、驚天動地の忍法集団を束ねる魔人の中の魔人。血と憎しみの渦巻く戦場へ疾風の如く現れては殺戮の限りを尽くす、慚魔衆を率いる頭領である。
「特段、気にするほどでもないかと」
深い谷底で呻く、大型の獣のような声であった。体の至るところに染み込み、内側から支配するかのような魔声だ。
主君を惨殺するのに聊かの躊躇も抱かなかったさすがの神戸も、この男の声を耳にした途端、鳥肌を立てずにはいられなかった。慣れる慣れないの問題ではなかった。
「今は戦国乱世の時代。武功の一つでも立てて士官を目指す武芸者が数多とおりまする。姫に助勢したその流れの士も、そういった、浅ましい考えで動く輩の類でありましょう。おおかた、義憤に駆られて亡国の姫を護るという自身の境遇に、酔うておるのやもしれませんな」
「部下が殺されたというのに、随分と落ち着いた物腰だな」
「斃されたのは、慚魔の忍びの中でも小物だらけにございますれば、件の士が退けた訳も頷けます。ところで、話に出た士よりも、彩姫の護衛を務める妖獣の方が気になりますな」
「妖獣……あぁ、栗介のことか」
「栗介……」
ふっと、餓悶は口元に薄い笑みを浮かべた。
「何とも可愛らしい名でございますな」
科白はおどけているが、口調は至って真面目そのもの。神戸はぎょっとした。人外の気を発するこの男の口から、よもや『可愛い』などという言葉が出ようとは。
人間には、その人の気品や度量と言った部分の総合、つまりは人間性に似つかわしくない言葉というのが必ず存在する。まさに黒嶺餓悶ほど『可愛らしい』という言葉を発するのに似合わない者もいないと、この時の神戸は強く思った。
「あの妖獣がどうかしたのか」
「聞いた話によりますと、姫が連れている妖獣はここ、江治前の西に浮かぶ小島・茶渡ヶ島を縄張りにする鉄鼠族の生き残りと聞いております」
「うむ。そうだな」
「鉄鼠族……奴らは自らの死期を悟ると、想像を絶する力を発揮するとか。その他にも、人知及ばぬ妖幻の術を生来より会得していると、耳にしたことがございます」
「ほぉ。妖幻の術ときたか」
「はい」
「それは、お主ら慚魔衆が使う忍法と同様のものか?」
「さぁ、どうでしょうな」
はぐらかすような物言いであった。だが、その態度が神戸の不興を買うことはない。むしろ神戸は、感心すら覚えた。どこまでも意志の固い者であると。
慚魔衆。彼らは己の忍法に僅かでも関わるような話に及ぶと、途端に口が堅くなったり、話を脇道へ巧みに逸らした。頭領に限った話ではない。上忍から下忍に至るまで、皆がそうであった。
八洲に忍集団は数多くあるが、その中でも慚魔衆は明らかに異質な存在であった。扱う忍具が特異であることもさることながら、特筆すべきはやはり、その怪奇に彩られし忍法術。誰がどう見ても常人の域を超えていた。
謀反を起こした折に、神戸も当然、彼らの力量をその目で見ている。驚嘆し、畏怖し続けるしかなかった。傭兵の如く主君を変えて立ち回る彼らの活躍を風の噂で聞いてはいたが、噂以上の術の数々。一度見ただけで、頭に焼き付いて離れなかった。
お主らの操る忍法、如何様な手段を講じて手に入れたものなのか。どういった原理で作用しているのか――謀反が成功したその日の夜、酒の席でそんな事を餓悶に尋ねた。
その際に、はっきりと言われた。
忍は闇に生きる者。よって、その身に宿す忍法もまた闇の中にありますれば、これを光の下に晒す事、たとえ如何なる事情があろうとも、断じて許されませぬ、と。
その忍びたる誇りに根差す矜持、暗きを伴う確固たる決意こそがまさに、こ奴らの駆使する忍法の源泉ではないだろうか。闇の秘事は闇の中でこそ輝く。神戸にはそう思えてならなかった。
「何にせよ、あの鉄鼠族の妖獣に、注意するに越したことはないかと」
「ふぅむ」
神戸は、その小さな眼で、じろりと餓悶を見やった。
「確かに、古来より八洲に棲まう妖獣の力は恐るべきもの。だが、あやつは違う。腕力も弱ければ体躯も小さい。気にするほどでもあるまいて」
「油断は禁物でございます。我々慚魔衆は、僅かな油断が身の崩壊に繋がることを、重々承知しております。それゆえ、決して相手が小さかろうとも、それが小虫に劣る存在であろうと、手加減は致しませぬ」
「うむ……」
「ご安心くだされ。全て我らにお任せを。殿はその時が来るまでじっくりと、お体を労わりくださいますよう」
「分かった。頼んだぞ」
鉄扇を懐に仕舞い込み、神戸は餓悶へ熱い視線を送った。期待が込められた眼差しだ。
「阿佐鞍城を落としたそなたらの奇襲、誠に見事且つ鮮やかなものであった。あの時と同等、いや、それ以上の働きを期待しておるぞ、餓悶。何としても私の前に、彩姫と、藤尾家の家宝たる妖獣魔笛を持ってくるのだ」
「御意」
うやうやしく、黒嶺餓悶は頭を垂れた。
しかし、その顔に明らかな蔑みの色があったことを、神戸は知らない。
それが、他ならぬ己自身へ向けられたものであることに。