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妖獣忍法伝INAZUMA  作者: 浦切三語
最終章 我一心
32/32

最終話 光

 幾日かが過ぎた。


 細い浮雲が、海原のような青空を泳いでいる。


 鬱蒼とした森に囲まれて、一軒の小さな平屋があった。火斐国(かいのくに)尾琶里国(おわりのくに)との国境近く。〈(よく)〉の隠し拠点の一つである。


 陽の光が燦々と煌めいて、縁側に細長い影を作っていた。人の影。彩姫の影である。いや、『姫』と呼称するは誤りかもしれぬ。何せ今となっては、藤尾家は既に滅びたものと人々に認知され、江治前国(えちぜんのくに)は隣国の越碁国(えちごのくに)の手によって、併合された後なのだから。


 ここ数日の間に、その身は幾分か痩せ、目元には拭い難いほどの沈痛が浮かんでいた。無理からぬことであった。軒猿に助けられ、目覚めて以降に知らされた衝撃の数々を以てすれば。


「(電七郎様……栗介……)」


 慚魔衆との決戦から、まだ数日しか経過していない。それにも関わらず、もう何百、いや、何千とその名を胸中で唱えただろう。


 返ってくる言葉は、何処からも聞こえなかった。


 彩姫は、静かに目を閉じた。その時だけは、あの人と逢える。記憶の奥。崩れる瓦礫の中、静かに微笑む電七郎の相貌が浮かぶ。その身を犠牲にして彩姫を助けた際に見せた、それは別れの笑顔であった。


 あの日――激闘に次ぐ激闘の果てに黒嶺餓悶こと雷牙を討ち取った後。崩落する地下空間に電七郎と彩姫は取り残された。


 折角危機を脱したというのに、もはやここまでか。頭上から降り注ぐ巨石を目の当たりにしたところで、本能が防衛反応を露わにし、彩姫は気を失った。


 そうして目覚めた時には、この平屋にいたのである。白い布団に寝かされて。


 傍には、彩姫が長い眠りから目覚めたことに喜びつつも、どこか陰鬱とした表情の軒猿が座っていた。


 軒猿は、彩姫が平静さを取り戻すのを待ってから、ここに至るまでの経緯を告げた。


 慚魔衆の下忍たちを激闘の果てに殲滅した後、突然、強烈な地震いが起こった事。咄嗟に危機を感じ、急ぎ仲間たちと共に神狩ヶ淵の周辺を探し回ったところ、崩れた祠の近くで倒れ込んでいた彩姫を発見し、保護したのだと。


 話を聞いて、彩姫は直感した。電七郎様だ。きっと電七郎様が、崩れ往く地下空間の中、どうにかして失神した自分を地上まで運んでくれたのだと。


――電七郎様はっ!? 電七郎様はどうなさったのですかっ!?


 勢い込んで尋ねる姫に、しかし、軒猿は力なく首を横に振った。その後で、信じられない一言を吐いた。


――我々も、時間の許す限り隈なく探しました。ですが、電七郎様のご遺体は、どこにも見当たりませんでした。恐らく、崩落に巻き込まれて地中深くに……


 唇を噛み締め、涙を堪える軒猿に対し、姫は呆然とした面持ちのまま閉口した。心の中で、大事に抱えていた何かが、音を立てて壊れたような気がした。


――電七郎様が、お亡くなりになられた……?


 悪い冗談のように聞こえた。とてもそうとは信じられなかった。あの、優しくも強く、気高い精神を持つお人を、御仏が見捨てるはずがない。


 朝も、昼も、夕も、晩も。太陽が昇り沈むまで、彩姫は待ち続けた。だが、電七郎は帰ってこなかった。何処かで生きている。そう信じたかった。それも無理だった。


 雷牙との戦闘で電七郎が負った傷。深手であることは、姫にも分かっていた。


 日が経つにつれ、これが現実なのだと、やがて思い知らされた。


 希望的観測の全ては、無慈悲にも破壊されたのである。


 気づいた時、姫は泣いていた。さめざめと涙を流し、やがて声を上げて身を震わせた。それこそ、一生分とも思える涙を流した。悲哀の慟哭であった。誰にも止めることは許されなかった。


――――――――


――――


――静かに瞼を開ける。視界に、熱い(もや)がかかっていた。


 小袖の裾で瞼を拭ってから、彩姫の視線は引き寄せられるように小さな庭の一角に向けられた。そこに、墓があった。墓と言っても大層な造りではなく、どこからか拾ってきた石を積み上げ、花を添えただけの簡素なもの。


 栗介の墓であった。


 栗介の遺骸は、〈(よく)〉の一人が見つけてきた。その者の話では、骸の近くに、慚魔衆の一人と思われる大男の遺体が横たわっていたと言う。笛を護る為に戦い、恐らくは相打ちになったのでしょう。そう告げられて、姫はどんな顔をして良いか分からなかった。


 栗介の遺体は無残極まりないものだったが故、姫に見せるのは忍びないと思ったのだろう。姫が目覚めた時には、既に墓の下に埋められた後だった。軒猿の話すところによれば、笛を大事に抱えるかのように丸まっていて、引き離そうとしたが、どんなに力を入れても無理だったという。


 父祖の代より仕えてきた妖獣。その忠義は鉄より固く、海より深い。だが、死んでしまってはどうしようもないではないかと、墓下で寝ている友に、言ってやりたかった。


 彩姫にとって、栗介はまさに友であった。大事な友であった。主君と臣下という枠組みに囚われない関係性にあった。栗介がどう思っていたか定かではないが、少なくとも、彩姫にとっての栗介は、紛れもない無二の親友であった。


 御伽岳に逃れた時も、栗介の叱咤激励があったからこそ、へとへとになりながらも足を止めようとは思わなかった。栗介がいなかったら、とっくに自死の道を選んでいたに違いない。


――栗介。


 感謝と申し訳なさが、ほとんど同時に彩姫の胸中に湧き上がった。こんな強情な己に最後の最後まで付き合ってくれたことに対する、言葉では言い表せぬほどの礼。また、友をみすみす死なせることになった己の非力さを嘆いた。悔やんでも悔やみきれなかった。


 親友と恩人。人生でその二つを手に入れることほど、幸せなことはないと言う。


 なればこそ、その二つを同時に喪うことほど、言語化し難いほどの辛さもないのだろう。


 今の彩姫は、幽鬼の如き心持ちでいた。


 そんな彼女を放っておける軒猿達ではない。姫の心を常識的な段階まで回復させるために、あの手この手を尽くしたが、どれも功を奏しなかった。


 思わず差し込んできた陽の光に、彩姫は手で庇をつくった。少し足を伸ばすには、いい日和であった。


 草履を履いて縁側から腰を浮かせ、彩姫は門口へと向かった。


「少し、散策に出かけてまいります。日が暮れる前には、戻ってきます故、ご心配なく」


 門口を警護していた〈(よく)〉の一人に声を掛け、返事も聞かぬうちに、彩姫は森の中へと入っていた。


 背の高い木々。隙間から零れる陽光。足元にはうねる蔦に、緑に生い茂る草木の数々。空気はとめどなく澄んでいた。息を吸えば、心に穿たれた空洞が、ほんの少しだけ埋まるような気がした。あくまで、気がしただけだ。


 転ばぬように一歩一歩地面を踏みしめながら、彩姫はゆっくりと森の中を歩き始めた。どことなく、むかし父と共に歩いた山に似ていた。江治前の山々に。郷愁の念が沸くも、自分は二度と江治前の土地を踏むことはないだろうと思った。


 これも〈(よく)〉の者達から聞いた話だが、神戸帯刀は殺されたという。その手口が鮮やかであったことから、恐らく慚魔衆の手にかかったのだという見方が、尤もらしいものだった。野望に突き動かされ、成り上がった男の末路。因果応報という言葉が彩姫の脳裡を過り、胸がすく思いがした。


 それでも、彩姫の居場所はもう江治前国にはない。いや、自分から捨てたと言っても良かった。無責任だとなじられるかもしれないが、もうこりごりだった。人が人を騙し、諫言を撒くのが戦の常なら、少しでもそんな場所からは離れたところで過ごしたかった。


 結果、彩姫は神戸帯刀の手で処刑されたという話が巷で流れた。


 今の江治前国は、越碁国の一部となっている。


 一説によれば、慚魔衆と中杉家は裏で結託していて、江治前国を征服する為に色々と情報を集めていたという。あの男ならやりかねないと、彩姫は中杉の顔を思い浮かべた。それでも、自分がどうこうできるものではないから、このまま世間から忘れられた方が、気が楽で良い。


 暫く歩いたところで、彩姫ははたと足を止めた。


 目の前に、巨木が君臨していた。見るからに硬そうな樹皮の割れ目に、樹液が固まってこびりついている。樹齢はかなりのものであろう。


 そういえば、あの時(・・・)も、これに近い光景があった。


 慚魔の手から逃れようと御伽岳を走っていた時、巨木の傍に男が倒れ込んでいるのを見かけた。卑樽(ヒダル)に憑かれた旅の者。栗介は捨ておきましょうと言ったが、制止を振り切って男を助けた。


 思えば、それが全ての始まりだったのだ。長いようで短い、しかし濃密な逃避行の始点。


 彩姫は、何かに導かれるように巨木に近づいた。樹皮を撫でる。硬く、ざらざらとした感覚。軽く叩いてみるが、びくともしない。


 樹木を背に、彩姫は地面に腰を下ろした。特に意味のある行為ではなかった。こうしていれば、今度はあの人が自分の目の前に現れてくれるのではないかという、ある種のまじないじみた行動に過ぎない。


 暫くの間呆けたように、彩姫は宙を眺めていた。待ち人が現れるのを待つかの如く、じっとして動かない。


 そうしているうちに、森の清涼な空気に疲れ切った心が癒されたせいだろうか。こっくりこっくりと、心地よい微睡みに誘われた。


 あっ、と声を上げて、彩姫は顔を上げた。


 感覚的にはそれほど時間は経っていないはずだった。


 それでも太陽は明らかに勢いを失い、気が付けば夕焼け色の空が広がっている。


 うっかりした――早く森を下りようと腰を上げる。軒猿たちを心配させるわけにはいかない。


 小袖に付着した土埃や木屑を払い落としていると、視界の隅で茫々と茂る草木の中から、がさりと音が鳴った。


 思わず動きを止める。小動物の類だろうか。


 また音がして、彩姫は身を固くした。違う。明らかに、獣の類が鳴らす音ではない。


 人か?


「……もし? そこにどなたか――」


 彩姫は言葉を続けようとしたが、軽く呻いて、反射的に口と鼻を手で塞いだ。強烈な腐臭が、草木の奥から漂ってきたのだ。その吐き気を催すほどの激臭が、どういうわけか、彩姫に忘れかけていた恐怖の感覚を呼び起こした。


 草木が一層のこと激しく揺れる。


 音の主が転がる様にして草木の奥から飛び出し、その全貌を露わにした。


「ひっ……!」


 思わず、彩姫は引きつった叫びを上げた。


 でっぷりとした腹を地面につけ、四つん這いでこちら側にゆっくりと迫る人の姿。


 青黒い全身の至る所から血を垂れ流し、腕や足が何本も不規則な方向に向かって生え、骨や内臓の数々が露出していた。それこそ、屍同士が寄り集まって生まれたかのような、まさに異形。


 だが、その顔つきには、はっきりと見覚えがあった。深淵を思わせる黒々とした目。脂肪という脂肪に支配された相貌。地獄よりの使者の顔つき。


「に、肉蝮……」


 震える声。


 肉の魔人が、口角を上げてにたりと笑った。拍子に、右頬肉の塊がぼたりと地に落ちて、頬にぽっかりと大きな穴が空いた。


 慚魔衆は確かに滅んだ。だが信じられぬことに、この男だけは辛うじて生きていたのだ。


 雷牙が最初に送り込んだ刺客。その身を自在に変化させ、物体に潜行し、肉という肉を支配する人ならざる人。彩姫に、慚魔衆の真の恐ろしさを最初に植え付けた化生の怪物。


 慚魔三轟忍が一人、肉蝮現生(にくまむし げんじょう)が、そこにいた。


〈不死の肉蝮〉という二つ名は伊達ではなかった。何ということか。彼は神狩ヶ淵での決戦で電七郎相手に敗れたにも関わらず、尚も生きていたのである。瀕死のその身に斃れていった同胞たちの死骸を取り込んで、江治前から遠く離れたこの地まで、彩姫と妖獣魔笛を追ってきたのである。まだ、あの戦いから数日しか経過していないにも関わらずである。


 なんという執念か。恐るべしは、神仏さえ慄くほどの外道忍法の妙技にある。


 悪鬼業魔の如き働きの果てに滅亡した慚魔衆。その精鋭陣の中で真に警戒すべきは、葵光闇でも、竜羅河蓬莱でも、ましてや頭領たる雷牙でもなかった。


 怨念じみた忠義に従い、狙った獲物は最後の最後まで逃さぬという、妄執ともとれる想念に突き動かされて遠路はるばる追跡を止めぬ、この肉蝮現生であったのだ。


 だが、そのことに気づいたところで、時既に遅し。


「ふえ、を、ぉぉぉぉ……ぶ、え、をよご、せぇぇぇぇ………」


 ぐずぐずに腐りきって、頚椎が剥き出しとなった喉奥から、呪詛めいた声が幾度となく発せられた。辛うじて聞き取れる。笛を寄こせ。それしか口にしない。


 数多の屍を取り込んだ弊害であろう。もはや、肉蝮の理性は吹き飛んでいた。本能だけがあった。死んでも妖獣魔笛を手に入れる――文字通りの肉の魔人と化した彼が姫を狙う動機と言えば、それ以外に何があろうか。


 彩姫は、がちがちと奥歯を鳴らし、巨木を背にしてその場を動けない。頭の中で本能が逃走を選択しているにも関わらず、それをも上回る恐怖に身を縛られて、どうしようもない。


 忍法の発動が不完全であったか。あるいは気力体力ともに限界に来ているのか。肉蝮の姿は輪廻の理を外れた不気味そのものにして、実にゆっくりとした動きであった。それでも、泥のように粘ついた血を流す、その獰悪極まる凶眼の放つ妖光著しく、少女の全身に絡みついて離れない。


 死ぬのか。


 私はここで、死ぬのか。


 折角、折角、電七郎様に救って頂いたこの命を、無駄にしてしまうのか――


 闇よりも濃い絶望が、ひたひた、ひたひたと彩姫に迫る。耳の奥まで侵してくる肉蝮の呻き。腐臭をまき散らし、幾重にも生えた青黒い腕の一端が、ついに彩姫の草履に触れんとした。


 その刹那であった。


 彩姫の眼前。つまりは肉蝮の後方に群れる林の奥から、宙を奔って白い稲妻が迫る。狂相を浮かべる肉蝮の全身が、その聖なる力に打ち抜かれた。遅れて、雷轟が響き渡る。


 肉蝮が絶叫を上げた。人間とは遠くかけ離れた、魔を宿せし者の壮絶な断末魔が、彩姫の鼓膜を強く打った。


 肉蝮という怪物を構成していた骨という骨が砕け、臓物が焦げ、肉片が四散する。


 稲妻による天罰は、一度では終わらなかった。


 幾条にも飛ぶ白雷が、地面に散らばった肉片の一つ一つを、正確に焼き滅していった。内蔵や骨すらも、跡形もなく消滅させていった。漂う腐臭すらも、稲妻の発する電気的力により、分解され無臭化されていく。


 やがて、静謐が訪れる。肉蝮の存在は、完全にこの世から抹消された。


 何の前触れもなく起こった奇蹟。まさかの事態に信じられず、唖然としてその場に立ち尽くす彩姫。


 そして聞こえてくる。力強い足音が。彩姫の視線の先から。鬱蒼とした林の奥から。


 木々を掻き分け、草木を踏みしめ、一人の男が姿を見せた。


 男は彩姫の姿を捉えると、どこか困ったような笑みを浮かべて、何かを口にした。


 後で思い返してみても、彩姫はその時、自分がどんな表情をしていたのか判然としなかった。


 安堵に満ちた顔つきをしていたのだろうか。いや、驚きのほうが強かったか。あるいは、少し怒っていたかもしれない。


 それでも何となくではあるが、やっぱり笑みを浮かべていたのだと思う。


 心からの微笑みを、彼に向けていたのだと思う。





 完

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