第三十一話 雷電決着
黒雷が吼え、白雷が猛る。
雷牙と電七郎の兄弟死合は、凄絶を極めた。
二人とも、足を止めることはなかった。数多の死地を潜り抜けた達人の如く、術を展開。地下空間に乱立する岩から岩へ飛び移りながら、得意の稲妻を互いに奔らせる。
電七郎が、その意気に満ちた掌から白き電磁の波動光線を放出すれば、応じるように、雷牙が〈雷咬鞭〉で形成した黒き雷鞭の一撃を飛ばした。
両者共に、相手の攻撃を寸前のところで躱しつつ、隙を伺ってまたもや電撃を放つ。目まぐるしく入れ替わる攻守。緊迫に満ちた一進一退の攻防が続く。
一見して互角の戦闘に思えるが、手数では雷牙の方が圧倒的に上だ。忍法の発動時に印契を必要とする電七郎とは反対に、雷牙はそのような予備動作を必要としないからだ。慚魔の魔術。外道忍法。どういう原理かは分からないが、少なくとも、白鳳のそれとは異なる系列にあるのは間違いない。
先手を打たれ続け、後手に回らざるを得ない状況に痺れを切らし、電七郎が湖面を激しく波立たせながら飛翔。右手に持った太刀を逆手に持ち替え、自らが一つの刃となったかのように、湖面のど真ん中で佇む雷牙に向かって斬撃を敢行した。
爆撃を喰らったかのように、水飛沫が舞う。遮られる視界。太刀の切っ先は、虚を突いたに終わった。躱されたと実感する間もなく、背筋を奔る。ぞっとするほどの殺気が。瞬間、電七郎は両足を発条のようにしならせ、身を捩じるようにして飛び上がった。
ほとんど同時に、黒雷を纏った忍刀が、水滴を弾きながら湖面を薙いだ。足元を狙ってきた雷牙の斬撃だ。なんとかやり過ごし、電七郎の反撃。地面に着地する寸前に太刀を順手に持ち替え、上段からの一撃を放った。
合わせるかのように、下段から牙が迫る。深淵よりもなお暗い闇の牙。雷牙の忍刀が長い暗黒の尾を引いて、白雷を纏う刃を迎え撃った。
刃と刃が剣煌を上げて衝突する。文字通りの命を削るような鍔迫り合い。刀身に漲る黒と白の雷電が果てどなくぶつかり合い、砂鉄を挽いているかのような奇音が広く深く、地下空間に響き渡った。
普通に考えれば、上から下に向かう力に対し、下から上に向かう力は弱い。つまり電七郎の方が、この状況では優位な立ち位置についているはずだった。
しかしながら、電七郎の表情には迫りくる死を食い止めんとする切迫した気に満ちている。端的に言えば余裕のない表情をしていた。
押されているのだ。上から、それこそ全身の筋肉という筋肉を総動員して圧力を掛けているにも関わらず、下からの圧力を散らすことができない。諸手で柄を握ってどれだけ力を入れても、雷牙の刃に押し返されてしまうのだ。敵が見せる信じられぬほどの膂力に、だが舌を巻いている暇などない。
白と黒の電磁が睨み合う。二つの刃の接触面が超高圧力の負荷により赤熱する。ほんの僅かでもいいから切っ先を相手の肩に食い込ませんと、電七郎は獣のような唸り声を喉奥から鳴らし続け、ますますの力を込めた。しかし依然として、雷牙の刃はびくともしない。
弟の必死な様を冷ややかな目で眺めていた雷牙だったが、突如、その目が力強い燐光を放った。雷牙の気が一瞬、途轍もないほどに膨れ上がる。拳を上空に突き出すかのような挙動で、忍刀を一気に振り薙ぐ。
均衡は破られた。右手に握った太刀はそのままに、電七郎の胴が開いた。大きな隙だった。逃さぬとばかりに、忍刀が牙を剥いて食らいかかる。
命の危機。脊髄を電流が駆ける。飛ぶような足さばきで後退する電七郎。間合いを開けると、左手に隠していた棒手裏剣を五本、雷牙に向かって投げ飛ばした。
続けざまに超速で印を結び、棒手裏剣が〈電磁手裏剣〉へ成り代わった。さしずめ、嘶きを上げる怪鳥さながらであるが、その全てを雷牙は撃ち落とした。華麗にして無駄なき刀捌き。手裏剣を撃ち落としながら足は止まらず前へ前へと跳び進み、何時の間にか電七郎の間合いに滑り込むように侵入する。
間合いを詰めきったところで、忍刀の切っ先が電七郎の首元目掛けて突き出される。とっくに予期していた電七郎が、太刀で応戦。そんな防御を嘲笑うかのように、二撃、三撃、四撃と、黒の刃が吼える。堅牢な城塞を崩すかのように、一つ一つに体重の乗った韋駄天の突き。体内に電流を駆け巡らせ、反射神経と運動神経を高めているからこそ可能な剣術だ。
変則的な太刀捌きであった。空いた左手は腰の辺りにぴたりと付け、体を前後左右に揺らしての精緻な重量移動。先の読めぬ動きに加えての、眼にも止まらぬ繰り出しの突き。電七郎の知らない剣術だった。彼も電流操作によって神経の鋭敏さを強化させてはいるが、それでも、追いつけないほどに。
「反応が鈍いぞ、電七郎」
にやりと、雷牙が嗤う。むかし、組手を行っていた時と同じような口調で放たれたその一言の後。
熱い衝撃が、電七郎の右肩に食い込んだ。
決死の表情に、苦悶が混じる。
「妖獣魔笛は、俺が頂く」
弟の右肩に突き刺した刃はそのままに、ぬらりと、雷牙の左手が胸元へと迫る。
「――何?」
懐に差し込まれた手は、しかし何も掴むことなく終わった。そこにあるはずと思い込んでいた妖獣魔笛が無い。持っているはずではなかったのか。流石の雷牙も、これには一瞬気を奪われた。
生まれた。刹那の間隙が。死闘の最中に。見逃す愚を犯す電七郎ではない。罠から解き放たれた獣の如く鬼気迫る速度で、太刀を掴んだ右手を振るった。
飛び散る鮮血。雷牙の左腕が肘の辺りで両断され、音を立てて浅い湖の底に沈んだ。初めて経験する未知の痛みに悶え、雷牙の足がふらつく。
「貴様、笛は……笛をどこに……!?」
「あいにくだったな」
電七郎は太刀を構え直して、勢い良く突き刺した。胸の中心付近。兄の心臓目掛けて。
肉と骨を断つ音が鼓膜を叩く。手元に降りかかる血潮。その暖かみが、雷牙の生命を絶った事をはっきりと伝えた。勝ったのはお前だと、何者かが告げてくれたはずだった。
しかしながら違和感があった。強烈な、違和感が。
判断というより本能に近かった。咄嗟に太刀を引き抜いて後ろに飛び退ったところで、雷七郎の視界にそれは映った。切断されはずの雷牙の左腕。その先端部が異様な輝きを見せた途端――
鼓膜が破裂しそうなほどの怒涛の破壊音が地下空間を激しく揺らした。天井の一部が崩壊し、垂れる列柱が亀裂音と共に湖に落下する。凄まじい痛みが全身を駆け抜け、電七郎の体が木の葉のように吹き飛ばされた。
空中で体勢を立て直す余裕などなかった。電七郎は、強かに湖の底に全身を打ち付けた。衝撃で右手から太刀が滑り落ち、刀身が真っ二つに折れ、これも同じく湖の底へ。
「電七郎様!」
消えかかる意識の中、彩姫の悲痛な叫びが電七郎の脳内に轟く。全身を駆け巡る痺れを、体内を流れる電気信号の属性を変更して打ち消しながら、よろけつつ立ち上がった。肩で荒い息を吐く。直撃を受けていれば、絶命は免れなかったであろう。
「その腕は……」
切れた瞼から血が流れるのもそのままに、電七郎の目が驚愕と共に見開かれた。嘗て兄と慕った男の左腕。肘より下の位置から、目が離せなかった。
雷牙が、得意げに口角を上げた。
「妖獣の力、中々大したものだ。印契の省略だけでなく、これほどの奇蹟を生み出すとはな」
雷牙の左腕。その切断面から、てらてらと肉色に滑る触手の束が蠢いている。右手に握る忍刀と同様に、稲妻の波動を放出しながら。電七郎を吹き飛ばした先ほどの一撃は、その触手から発せられたものだった。
その、奇妙の極みにして明らかな異の正体を、電七郎は本能的に悟った。
同時に、こらえきれぬほどの激しい怒りが沸いてくる。
「その身に妖獣の力を移植したのか!」
外法に手を染めたことを咎める弟の叫びに、兄は少しも揺るぐことなく、冷徹に答えた。
「如何にも。だがな、俺だけではないぞ。慚魔三轟忍もだ。彼らも、その身に妖獣の力を宿していたのだ。これぞ、我らが会得した忍法の根源。人ならざる道に通じる外法の技。故に外道忍法。葵光闇が幻術を扱えたのも、その身に特異な妖獣の肉を混ぜたがためだ。この偉大なる力のおかげで――」
雷牙の胸元から滴っていた血が、急に止まった。傷口が急速に塞がっていく。
「心臓を貫いただけでは、死ねない体となったのよ」
不死身――電七郎の脳裡に、おぞましい三文字が降りてきた。
「(いや、莫迦な)」
頭を振る。いくら妖獣の力を宿しているからとは言え、不死身の人間など。そんなものは御伽噺の世界だ。必ず何処かに弱点がある。それを見つけるのだ。希望を捨てるべきではなかった。
「しかし、大きな誤算だった……貴様、笛をどうした? まさか宿場街に置いてきたのか? いや、そんなことはあるまい。何処か俺の知らないところに隠したな? 言え。妖獣魔笛はどこにある」
肩の骨を鳴らしながら、雷牙は若干の怒りが籠った目で電七郎を睨んだ。
答える義理などないとばかりに沈黙を貫く電七郎。簡単な印を結んで、右手をさっと翻す。何時の間にか右手に握られていた棒手裏剣が白光を帯びて伸長し、即席の太刀が生まれた。いや、反りが無い分、太刀よりも両刃の剣に等しいか。
「なるほど、それが答えか」
触手が折り重なり合い、変貌する。骨を形成し、神経を繋ぎ、筋肉が沸き、失われたはずの雷牙の左腕が復活を遂げた。感触を確かめるように、二度三度、握り拳をつくる。異常はなし。死闘を潜るに、支障はなし。
「ならば、力づくで聞き出すまで!」
雷鳴の如き決意の雄叫びを上げると共に、雷牙の気が臨界点を迎えて爆裂した。闇の雷が岩削にも似た音を奏でながら雷牙の周囲に展開する。そうして、凄まじい勢いで雷の精度を練り上げながら、突進。間髪置かずに、忍刀による刺突を見舞わせる。
岩肌を背にする恰好でいた電七郎は躱すことも出来ず、暗黒に輝く刃に胸を深々と穿たれた。
しかし、手応えはない。雷牙の目に、僅かな陰り。郷愁と侮蔑の色が浮かぶ。
「〈電影〉か。懐かしい技だが、所詮小手先に過ぎぬっ!」
貫かれた電七郎の分身体が霞の如く消えるのと、雷牙が振り向きざまに忍刀を一閃させたのは、ほとんど同時だった。剣戟の轟音。何時の間にか音もなく雷牙の背後に迫っていた電七郎の、渾身の一撃が易々と受け止められる。
鍔迫り合いに持ち込む気はなかった。膂力の差を思えばこそだ。電七郎は身を左に反転させると、白雷に輝く刃を水平に構えながら、今度は雷牙の首元を狙った。だが――
「ちぃ!?」
黒めいた力に弾かれる。雷牙の全身を覆う様に展開された、電撃の防御膜に。あらゆる攻撃を弾く無類の鎧が為せる技。その堅牢さは言うに及ばず。
接近戦に持ち込むのは不利と見たか。雷七郎が後方へ勢いよく跳躍。雷牙の眼光が鋭く光る。翳した左の掌から黒雷が奔り、軌跡を追って空中を駆ける。
その、食らえば致死に至るであろう一撃を気力を振り絞って躱し、電七郎はせりあがった岩盤の上を跳び回りながら白雷の炎を掌から発射させた。しかしながらその光撃も、雷牙の肉体へ届く寸前のところで電撃の防御膜にかき消されて意味を為さなかった。
地下空間は圧倒的な暴力に蹂躙されていた。あちらこちらの岩盤に熱痕が穿たれ、何時止むとも知れぬ争忍の交響曲に苛まれている。天井から垂れ下がっていた列柱の殆どは、電七郎と雷牙が放つ稲妻忍法のせいでぼろぼろに朽ち果て続けていた。
死ぬか――
死ぬか、電七郎――
脳裡で死神の足音が鳴る。
状況は圧倒的に不利であった。それも、これまでにないほどに。なにより場所が悪い。電七郎が持ちうる最大の技は〈雷嵐奇天〉だが、それは、天空に大量の電荷を溜めて一気に撃ち下ろす技だ。空が閉ざされた地下空間では、どう頑張ったところで使用は不可能である。
加えて、雷牙の手強さと言ったらない。近接戦に持ち込めば力押しで負け、遠距離を取れば印契を必要としない外道忍法の手数に押される。忍法を浴びせようにも、黒雷の鎧に弾かれる。おまけに、心臓を貫いても死なないと来た。
史上最強――その四文字が、真に意味するところ。
自らは、絶体絶命。
「(どうする。どうやって破るっ!?)」
攻撃を避けながら懸命に思考を巡らせる。だが驚くほど何も浮かばない。この状況を逆転する為の秘策。そんなものがあるわけないと、頭の片隅では分かっていた。それでも、頼らざるを得ない。神の奇蹟。あるのなら、縋りつきたいと願った。
だから駄目なのだ――と、誰かの叱咤。
奇蹟などあるわけがない。何時だって、苦難を乗り越えるのに必要なものは決まっている。即ち、経験と知識。両輪を噛み合わせてこそ、人生の歯車は上手く回る。そうやって、世界は動いているのだ。なぁ、電七郎――分かったか?
迫る雷撃の中、何処かで鈴の音が鳴ったような気がした。それは、昔懐かしい兄の声によく似ていた。
俺の知る兄者は、いつもそうだった。
俺の為に己の時間を割き、あらゆる事柄を教えてくれた。世を生き抜くのに必要な力とは何か。忍としての強さとは何か。教えてくれたのは全て兄者だった。
その兄者の教えが嘘であったとは、口が裂けても言いたくない。
報いるのだ。兄の教えに。あの、優しくも勇敢だった、俺の知る兄の教えに。兄の教えを以て、兄を救うのだ。兄が、兄であった頃に戻すのだ。兄の死を以て、そうしなければらないのだ。
崩れかけていた意志が、数多の回想と記憶の咀嚼を経て、電七郎の深層意識で息を吹き返した。
――意を消すのだ。
何故かは分からないが、確信した。
意を消す。無駄な思考を排除して、心を宙に解き放つ。思考という枠組みに囚われない、新たな思考に身を委ねる。つまりは、直観に身を委ねるということに他ならない。
この身を愛しく思うな。命を勿体ぶるな。ここぞという時にこそ命の炎を滾らせろ。爆ぜるほどに。軽やかでありながら重みを忘れるな。
矛盾の理。我一心の境地。その真たるところに、電七郎の無意識が掠れて触れた。
その時であった。
夕焼け色の右眼を襲う、今まで感じたこともない熱さ。電撃に射抜かれたかと思ったが、そうではなかった。眼の熱さは、電七郎の内側から発現したものだった。
「(なんだ……っ!?)」
覚めた脳髄で考えるより先、徐々に熱さが引いていく。
電七郎の右目が、紅い燐光を放っていた。燐光は長い尾を引いて、その端部が複雑怪奇な文様を象る。階梯を昇り、新たな力に目覚めた事の証であった。極限の戦いを通じて生死の根源に――内なる恐怖と希望のせめぎ合いを潜り抜けたが故に、手にした力。
自然と、降り立った岩の上で足を止める電七郎。状況は依然として不利だと言うのに、何故か彼は、その場から動こうとしなかった。
一見すれば、電七郎の行動は悪手極まりない。死闘の最中に動きを止めるとは愚かなり。そう詰る様に、一束の黒雷が容赦なく電七郎に襲い掛かる。
しかしながら、電七郎は恐怖を感じなかった。死を恐れることもない。ただ流れるような動きで、視界が捉えた稲妻のある一点を、白雷で形成した刃の切っ先で撫でるように叩いた。それだけで十分だった。
黒雷が、力を喪ったかのように電七郎の下へ届く寸前で霧散した。
「……斬った……」
稲妻を、斬った。
このとき電七郎は、全てを理解していた。
この世のあらゆるもの。生きとし生ける者だけでなく、この世界に存在する全ての現象には命が宿っていることを。物体が宿す命。それが人為的に生み出されたものであろうと、自然に生まれたものであろうと、何処かに必ず綻びがある。
命とは、儚い。昨日笑っていた妻が、明日には死ぬ。ようやく理解し合えた友が、直後には壮絶な死を遂げる。
儚さこそ、この世の本質である。電七郎の目は、本質を見抜く目となった。あらゆる現象や存在が天の意思の下で生まれたのだとしたら、さしずめ、電七郎に宿った力は〈天通眼〉と称すべきものだろう。天の意思に通じて命の綻びを捉える眼。〈天通眼〉を前にしては、龍の如く荒ぶる稲妻でさえ可愛く見える。
「ついに成ったな。よくぞ辿り着いた」
湖を挟んだ向こう側。雷牙の左眼もまた、燐光を放っていた。しかし、電七郎のそれが赤く生命の脈動に震えた光であるのに対し、電牙の燐光は、野に晒された骸の如く暗黒に揺らめいている。
「ならば分かるはずだ。俺の心が。命は儚い。人はいつしか死ぬ。その真たる意味を理解すれば、どうして大人しく平和な世を謳歌できるっ!? 人はいつの時代も、死を身近に感じて生きねばならぬ。朽ちていった者達の為に。何よりも、己自身の栄華の為に」
「それは違う。兄者」
静かに、だがはっきりと告げる。
「限られた命だからこそ、誰かの為に生きるべきだ。色々と小難しい事を言って煙に巻いているが、つまるところ、兄者はただ、生きるのを恐れているだけだ。死にたくないと願ったばかりに……逆に死にたがっている。果て無き闘争に身を委ねるは、生を実感する為ではない。死にたいからだ。命の儚さを履き違えた結果だ」
「調子に乗りすぎたがあまり、詭弁を吐くか」
「兄者よ。教えてやる。甘んじて受け取るが良い」
腰を落とし、電七郎は八相の構えをとった。
「貴方が愛してくれた弟からの、最後の餞別だ」
跳び上がる。湖を超えて刃を向ける。救うべき人へ向けて。
雷牙が壮絶な雄叫びを上げた。右手に握る忍刀はそのままに、黒雷の鎧に包まれたその全身から、おぞましいほどの大量の雷撃が、電七郎目掛けて空間という空間を奔る。
しかし、もはや開眼した電七郎にとって、それは何の障害でもなかった。宙を泳ぐように駆けながら、白雷の剣で稲妻という稲妻を斬り刻んでいく。時折、その手から白い稲妻を迸らせて。
避ける動作はいらなかった。どこをどのように斬れば稲妻が散るか、感覚的に分かっていた。
やがて、宙より降り来る。白雷が鎧の一端を衝いた。衝撃音が鳴り響き、防御が破壊された。
雷牙の驚愕。電七郎の哀しみ。
刹那の間合いで、二人の感情と、その手に握る刃が交差した果てに――
「ぐうっ!?」
先に呻きを上げたのは、電七郎の方だった。
右の脇腹に深々と突き刺さる忍刀。赤い滴が刀身を伝って湖に落ちる。
「学習しない奴だ」
胸を電七郎の刃に貫かれ、しかし依然と嗤うは慚魔の王。
この男、やはり不死身か。
「言ったであろう? 心臓を貫かれただけでは死なぬと」
右手に握る忍刀を渾身の力で捩じる。電七郎の肚に冷たい感触が、強く響く。内臓がずたずたに引き裂かれるのが分かった。
苦渋。苦悶。気を失いかねないほどの激痛。
しかし、どうしたことか。
「……何が可笑しい。何故、笑っている」
「兄者よ……さらばだ……」
「な――」
怪訝な顔つきを浮かべた次の瞬間、ひゅうと息を呑んで、雷牙の両眼が大きく見開かれた。壮絶な痛みが雷牙の全身を駆け抜け、口から大量の血を吐き零す。
「これ……は……」
恐る恐る、視線を落とす。左大腿部。第二の心臓の位置。
大腿部の付け根に刃が深々と刺さり、赤黒い血が流れている。
折れた刃。電七郎が最初に使っていた太刀の残骸。
太刀の柄を固く握るは、斬り落とされ、湖に沈んだはずの雷牙の左腕。
「そうか……」
光の消えかかった電牙の眼が、電七郎の眼と向き合う。依然として力強い紅を放つその瞳は、開眼した時点で捉えていたのだ。雷牙の、もう一つの心臓がどこにあるかを。命の綻びの箇所を。
「俺に気づかれぬように……斬り落とされた左腕の神経に電流を流し……操るとは……な」
途端に、雷牙の全身から力が抜けた。そのまま、まるで人形の如く仰向けに倒れる。赤い飛沫が、銀色の忍装束に降りかかった。
それから、雷牙の口が動くことは、二度と無かった。
電七郎の手の中で、白く輝いていた棒手裏剣が、光を喪う。
静寂が、地下空間に蘇った。
勝負は決した。数え切れぬほどの残虐を尽くし、驚天動地の忍法術で八洲を震え上がらせた恐怖の一団・慚魔衆。その首魁たる黒嶺餓悶、否、雷牙の絶命を以て、彼の組織はここに潰えたのである。
「電七郎様……」
長い夢から目覚めさせるように、耳に届く誰かの声。振り返れば、石柱に太縄で繋がれたままの彩姫が、泣き笑っていた。涙と鼻水を流して、歓喜を爆発させていた。
「怪我はないか?」
優しく微笑みながら、ふらつく下半身を気力で支え、彩姫の下に近づく電七郎。その手に握った棒手裏剣の先で縄を切ると、解放された彩姫を優しく抱きとめる。
「私のことなどどうでも良いのです。それよりも、貴方様の方が……」
彩姫は、頬を流れる涙もそのままに、痛々し気な目線を電七郎の右の脇腹に向けた。血は止まらず、足元の湖が濃い紅色に染まっていく。
それでも、電七郎は弱気な姿勢を見せなかった。申し訳なさそうに、苦笑を浮かべるだけだ。
「また軒猿の世話になるな」
「急ぎましょう。早く手当をしなければ」
「ああ。あっちもそろそろ、片付いている事だろう」
栗介殿の事を、いつ打ち明けるべきか――心に悶々としたものを抱えていると、突然、下から巨大な衝撃が迸り、地下空間が異様な地響きに包まれた。
「しまった!」
湖面が激しく波打つほどの振動。電七郎と雷牙の死闘のせいで、地下の岩盤の何処かに深い亀裂が刻まれたせいか。あるいは、聖地を争忍の舞台とされたことに、〈妖獣の皇〉が激しい憤りを見せているのか。
火にかけられた鍋の底のように、泡を立てて湖が吼える。いつまでも長居していては危険だった。電七郎は腹から流れる血もそのままに、彩姫の手を握りながら元来た道を引き返した。
しかし、愕然と足を止める。天井の崩落は既に始まっていて、入口は崩れた大岩に塞がれていた。
「くそっ!」
何処か、何処かに出口は――
そうこうしている内に、崩落がいよいよ本格化してきた。地下空間を貫いていた列柱にひびが入り、次々と水底へ落下していく。もはや、まともに立っているのも難しいくらいに、地響きが強まっていく。
ふっと、二人の頭上にかかる影が、その濃さを増したような気がした。
見上げると、今まさに二人を圧し潰さんと、崩れて落ちる巨石の塊。
「……っ!」
彩姫は息を呑んだ。
そこで彼女の意識はぷっつりと途絶え、深淵へと落ちていった。




