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妖獣忍法伝INAZUMA  作者: 浦切三語
最終章 我一心
30/32

第三十話 黒嶺餓悶の正体

 彩姫には、訳が分からなかった。


 電七郎の実兄、雷牙(らいが)。彩姫も、その名は覚えている。常勝を誇る白鳳忍軍を率いていた上忍頭であり、電七郎をして真の忍士と言わしめた、凄腕の実力者。


 だが、その者は既にこの世にいない筈。五年前の慚魔衆による襲撃を受け、殺されたはずではなかったか。あの穴倉で過ごした晩に、そう語ってくれたのは、他でもない電七郎自身ではなかったか。


 辻褄が合わない。しかしながら、困惑を露わにする彩姫とは異なり、虚言ともとれる一言を吐いた電七郎の瞳に、確信にも似た気配が漂っている。


 まさか、本当に――?


 沈黙が満ちる中、電七郎と餓悶の瞳が交錯した。


 どちらも、一歩も譲らぬ静かな攻防。


 その最中、突如として。


「……くっ……くはははははははっ! きっははははははっ!」


 地下空間に響き渡るほどの大声で、餓悶が嗤った。漏れ出る哄笑を口で押えることもなく、狂ったように嗤い続けた。次第に、声がひきつけを起こしたように高くなり、それでも餓悶は口を閉じなかった。ただ、あるがままに嗤い続けた。


 彩姫は戦慄した。


 餓悶の本心からの声。たまらぬ愉悦に悶える声。それは、これまで彼女が目の当たりにしてきた如何なる人物よりも、あの神戸帯刀よりも、純然たる悪意に満ちた声色をしていた。邪悪が凝固して、黒嶺餓悶という人格を形作っているようだった。同じ人間とは、到底思えなかった。


 電七郎もまた、その表情は氷のように動かなかったが、心の内では疑念が生まれていた。餓悶の乱れに乱れた嗤いを聞くにつれ、自身の推測が誤りであるかのように思えてならなかった。彼の知る兄は、何時も清廉潔白として勇気に溢れていた。こんな、下劣に満ちた声を出すような男ではなかった。


 誤りなら誤りで、それで良い。憧れであった忍士の名誉を汚さなくて済む。黄金の微睡の中にあった過去の想い出を、黒い絶望で塗り固める必要もなくなる。


 だが、しかし、


「……いつ気が付いた? 我が弟よ」


 現実はいつだって、容赦なく人の心を砕いてくる。


 電七郎は太刀を構えたまま、大きく嘆息をついた。


「やはり、そうだったのか……信じたくはなかったが」


「受け入れろ、電七郎。これが現実だ。貴様の言う通り、慚魔衆の頭領は、白鳳忍軍の頭領でもあったということだ。万が一素顔が見られた場合に備え、顔は変えてあるがな」


 黒嶺餓悶――いや、雷牙が、凄絶な笑みを見せた。


「お前は昔から、少し抜けたところがある。それが気にはなっていた。だが、俺もそこまで親切な男ではない。俺の正体に気がつかなんだ、そのままにしておこうかと思ったが、この土壇場にきて良くぞ見破った」


「よくよく思い返せば、おかしな話が多すぎたのでな」


「ほう、例えば?」


「五年前の、慚魔衆襲撃の時だ。あの時、燃え盛る天守閣で、貴様は俺の前に首を投げて寄こしてきた。そうだ。竜羅河の手で蘇り、偽の記憶を植え付けられた葵光闇こと、お千の首を。俺の大切な妻の首を、貴様はがらくたでも扱うかのように投げてきたのだ」


 話を聞いていた彩姫が、声にならない声を上げた。宿場街へ向かう最中に嵌った幻術合戦。あの戦いの後、なぜ電七郎が涙を流していたのか。その理由が、固い結び目を解いたかのように、今になって自然と理解できた。


「あの時、あの場所で、貴様がそんな行動に出たのは、俺の心を叩き折る為だろう。だが、それは裏を返せば、俺の妻がお千である(・・・・・・・・・)と知っていなければできない行為だ」


 もう一つ、電七郎には引っ掛かる点があった。


――この女、首を斬り落とされる寸前になってもなお、お主の名を叫んでいたぞ。


 五年前の夜、黒嶺餓悶の名を騙っていた人物は、そう確かに口にした。


 お主の名を叫んでいた。


『お主』の名を――つまり、敵は初対面にも関わらず、電七郎の名を、はじめから知っていた事にほかならない。


「白鳳忍軍は忍法や人材を重視する以上、情報の扱いには特に慎重だった。術の名が広まっても、その具体的なからくりが外に漏れぬように、徹底した管理を行っていた。当然、忍士個人個人の名や、その家族構成も含めて。いくら慚魔衆が手練れであろうと、これを知るは不可能。つまり、襲撃を仕掛けてきた慚魔衆の頭領なる人物は、白鳳忍軍に籍を置く者と見るが妥当だ」


「……」


「更に言えば、貴様の扱う忍法。稲妻を駆使する忍など、俺を除けば、兄者以外に見た事も聞いた事もない。まだ証拠はある。宿場街で蓬莱に敗北した俺を見て、貴様はこう言った。『それが仮にも、白鳳忍軍の屋台骨の一端を担っていた者のすることか』とな。俺が白鳳忍軍の中で重要な位置に、つまりは副頭を務めていた事を知る者でなければ、そんな台詞は出てこない。更に俺を指して、『死に時を見誤った忍』とも口にしていた。死に時を見誤る……兄が良く、口にしていた言葉だ。以上のことを総合すれば、黒嶺餓悶という男の素性は、自ずと見えてくる」


「成程な」


「だが、それでも解せぬことがあるっ!」


 血を吐くようにして、電七郎が叫んだ。


「俺の知る兄者は、確かに俺の目の前で死んだはずだった。俺と共に殿を守るために戦い、俺が気を失っている間に死んだのだ! 赤々とした血を流して! あの光景は一生忘れぬ。それがなぜ、今こうして俺の前に立っているのか。俺にはまるで理解できない。まさか、幻術の類を操っていた訳ではあるまい!」


「幻術か。俺も若い頃はあれを良く研究したが、ついぞその本質は見抜けなんだ」


「ならば、如何様にして俺の目を欺いたというのだ」


「簡単よ。影武者を使ったのだ。俺の為に命を投げ出すように、電流操作で洗脳した影武者をな」


 当然の調子で告げる雷牙。だが、電七郎はそれを一笑に付した。


「兄者よ、戯けたことを抜かすな。たとえ影武者だろうが、同じ母の胎から生まれた兄弟の顔と声を、簡単に欺けるはずがない」


「そうだ。簡単ではなかった。だから俺は、俺の為に、俺自身を偽る為に、新たなる忍法を人知れず編み出したのだ……見よ、電七郎」


 そう口にして、雷牙は己の顔を右手の平で覆い隠した。


 瞬間、淡い電流が弾けて、あろうことか、服越しに雷牙の体が歪に蠢めきはじめた。まるで、己の体を別の何かに再構成するかのように。


 呆気に取られる電七郎と彩姫。


 電流が弱まり、光が沈む。


 雷牙がおもむろに手を降ろした。


 そこに現れた顔は、


「と、殿!?」


 皺が刻まれて、たるんだ皮膚。白髪交じりの髪。太い首に、意志の強さを感じさせる瞳。


 死んだはずの、近巳国領国大名、鴎外守直の顔であった。


 驚愕に震える電七郎達を他所に、再度、守直の顔へ変じた雷牙が右手の平を顔に翳す。


 再度電流がはしり、またもや雷牙の骨格と筋肉が変貌した。今度は、雷牙の姿が、見るも麗しい女の体と顔そのものになった。電七郎の妻、お千の顔だ。


 呆然と立ち尽くす電七郎を、お千の顔をした雷牙が嘲笑う。


 そうして、また手を翳す。


 最後の変貌。正体を披露するための、厳粛にして面妖な儀式。


「つまりは、こういうことだ。電七郎よ」


 手を顔から放して、静かに嗤う。


 その声は、以前よりもどこか澄んでいて、しかし暗さに満ちた声色に変化している。


 いや、変わっていたのは声だけにあらず。


 その顔、その体つきに至るまで、黒嶺餓悶を名乗っていた時とはまるで異なる。


 凛々しい眉。針のように逆立つ頭髪。硬そうな白い皮膚。電七郎と同じ、夕焼け色に輝く瞳。漲るように力強い猛者の体躯。


 正真正銘の、雷牙の姿があった。


「電流を体内に流し込み、無理やり骨格と筋肉を操作させた……」


「如何にも」


 悠然と、雷牙は告げた。


「〈無貌千躯(むぼうせんく)〉は、顔や声帯だけでなく、人間の体そのものを変じさせる忍法。男を女に、女を男に、若人を老人に、老人を若人に、骨の髄まで化けさせる。更には、己が忍法の力を分け与えることも可能。電七郎、貴様はあの晩、俺の顔をして俺の術を操る、全くの別人と共闘していたのよ。本物の俺を倒すためにな」


「……何故だっ!」


 猛然と、しかし悲哀に満ちた轟きが、辺りの岩々に反射して木霊した。


「兄者、なぜこんなことをしたっ!? 俺の知る兄者は、誰よりも強く、誰よりも優しかったっ! 弟である俺の身をいつも案じてくれた、あの兄者は何処へ行ったのだっ! 答えろっ!」


 唇を苦渋で結び、悲痛に悶える表情で、電七郎は叫んだ。


「なぜ殿を殺したっ!? なぜお千を殺したっ!? なぜ仲間を……罪なき人々を殺し、近巳を滅ぼしたっ!? 答えろ兄者っ!」


 溢れ出る心の叫び。怒りや憎しみよりも、まず先に疑問と哀しみがあった。餓悶の正体に気づいた電七郎ではあったが、慕っていた兄が悪道をひた走ることになった理由については、どれだけ考えても分からなかった。


「俺が、俺であり続ける為に、そうする他にはなかったのだ」


 要領を得ないその一言を皮切りに、雷牙はとうとうと語り始めた。


「火斐の岳田騎馬軍に勝利を収め、帝への謁見が現実味を帯びてきた、そんな或る日の晩のことだった。突然、俺は殿に呼びつけられた。安津地城の広間で対面するや否や、開口一番、殿はこう言った。『雷牙、お前には今まで散々苦労をかけ続けてきたが、それも、近いうちに終わる。もうしばらくの辛抱だ』と。最初、意味が分からなかった。殿がこれから何を話すのか、皆目見当もつかなかった。ただ何となく、嫌な予感だけはあった」


 雷牙は、喋りながら俯いた。


「どういうことかと問い質すと、殿は言った。『帝に謁見し、将軍の印可を授受されれば、晴れて儂は天下人になる。そうなれば、無用な戦も、もう終わりだ。平和がもたらされた八洲に、行き過ぎた武力は必要ない。忍の登用もなくなる』とな……」


 そこで一端話を区切り、雷牙は顔を上げた。死んだように、顔が青ざめていた。滅多に他人に見せた事のない、それは恐怖の顕れであった。


「殿は、天下統一を成し遂げた後、白鳳忍軍を解体するつもりだったのだ」


「そんな話……俺は初めて聞いたぞ」


「お前たちを混乱させるかと思い、敢えて俺の口からは伝えなかった。最初は自分の耳を疑ったものだ。それほど衝撃的だった。無論、悪い意味でな」


「悪い意味でだと? 何故だ。殿は天下を統一なさるために、白鳳忍軍を創設したのだぞ。俺も兄者も、殿の願いを叶えんと承知の上で修行に励み――」


「お前は何とも思わないのかっ!?」


 電七郎の声を遮り、気色ばんだ雷牙が猛獣の如く吼えた。びりびりと、滞留する大気が弾けるほどの大声。ずっと内に抱え込んできた、憎しみの発露であった。


「あの糞爺は……ぬけぬけと、俺に続けて言ったのだ」


 再び視線を足元に落とし、右手で髪を掻き毟りながら、雷牙は苦悶に喘ぐようにして言い放った。


「白鳳忍軍が解体された後、お前たちはお前たちの生きたいように生きろ。もう、無暗に人を殺す必要もない。お主らの培ってきた忍法術は、鴎外の名の下に、平和の礎として永遠に封印する――吐き気のする思いだった。裏切られたと思った。俺がこれまで生きてきたのは、一体誰の為であるか、本気で分からなくなった」


「世の為人の為だっ! 兄者よ、血迷うたかっ! 俺たちは忍士。平和を希求するが我らの務めぞっ! そう言っていたのは、外ならぬ兄者自身ではないかっ!」


「……平和?」


 生まれて初めてそんな言葉を耳にしたとばかりに、雷牙は顔を上げた。視線の先、湖を隔てて電七郎がいる。あの男が口にした。平和、と。しかし雷牙にとってその言葉は、どんな有象無象の言葉よりも力なく、陽炎の様に頼りない概念として響いた。


「電七郎、平和とは何だ」


「何を……」


「平和だと? 平和? 平和がどうした? 真の平和など、そんなもの、ありはしないのだ。数多の骸の上に築かれた平和など、砂上の楼閣に等しい。いずれ、消え去る運命にある。そんな不確かなものに命を懸けるなど、莫迦げているとは思わないのか?」


「ならば、兄者は何の為に戦っていたのだっ!」


「決まっておる。我が力を試す為。死に物狂いの果てに会得した忍法で、虐殺を楽しむ為よ」


 虐殺、という言葉を口にしたところで、電牙が合点のいった表情を見せた。


「虐殺……そうだ。虐殺の為だ。俺は俺の力で、多くの人々を殺したい。稲妻で敵を焼き殺し、内臓を焦がし、四肢を焼き切る。そこにこそ、俺の生きる意味があるのだ。なぁ、分かるであろう? 電七郎。俺たちは忍……陰に生きることを宿命づけられた忍ぞ! 陰での生き方しか知らぬ者が、どうして陽の当たる大地で過ごせようか。水の心地良さしか知らぬ魚に、陸に上がって生きろというのかっ! 無理であろう!? 出来ないであろう!? それを、さも簡単なことのように、あの男はほざきおったのだっ! だから殺したっ! 近巳を滅ぼすと誓った俺は、守直に敵対する領国大名らに密かに接し、城の構造から米の備蓄に至るまで、あらゆる情報を与えた。その代わりに、我が手足となって働く兵士達を貸し与えられた。血の滲むような稽古を積ませ、我が忍法を以て少しずつ洗脳し、走狗と化させた。実に、一年に渡る発狂寸前の修練の末、慚魔衆は組織されたのだ。永劫に続く戦乱の海を創造するためにな。平和の為に働くなど、砂を噛むに等しい暴挙だ。俺は心の底から、闘争を希求する。そうでなければ、俺は俺でなくなる。俺は、俺のやりたいように、俺の望みを果たしたまでなのだよ、電七郎っ!」


「兄者……兄者よ……」


 もうやめてくれと、言いたかった。これ以上、俺の知る兄を貶めないでくれと。


 だが、言葉の代わりに漏れるのは、苦しげな呻き。視界に映るのは、変わり果てた兄の姿。それが今の電七郎にとっては、どんな地獄の亡者よりも恐ろしく、途轍もなく悲しいものとして映った。同じ夕焼け色の瞳を宿す者同士ながら、兄と自分は全く異なる景色を見ていたのだと、今この時を以て、思い知らされた。


 きっと、兄者は囚われたのだ――そう思わずにはいられなかった。


 過ぎ去った日々を振り返ってみれば、いつも電七郎の前に、雷牙の背中があった。どんなに危険な任務であろうと、雷牙は率先して陣頭に立ち、皆を率いた。それは、意味もなく仲間を死なせたくはないという、優しさゆえの行為だった。電七郎をはじめ、白鳳の忍達は常に、雷牙と共に戦いながら、雷牙に守られていたのだ。


 だが、当の本人たる雷牙を守る者は、誰もいなかった。強すぎるその力ゆえ、他の仲間たちよりも、必然的に多くの敵を斬らざるを得なくなり、夥しいほどの返り血を浴びることになった。 


 結果、雷牙は囚われた。己の力が万能であると思い込み、力に溺れ、二度と手放したくはないと願った。血生臭い戦場で鍛錬を積ませた力が、雷牙を狂わせたのだ。


 それは怨念の力でもあったのだろう。彼に殺された多くの兵士たちが、屍の姿となって、足元に縋りついているのだろう。もっと殺せ、もっと殺せと、呪詛を囁き続けているのだろう。いま、こうしている時も。


 皮肉な話だ。かつて、雷牙が電七郎の行く末を案じるときに呟いた言葉を思えば、そんな感情も湧き上がる。


 お前は優しすぎる――それは他でもない、雷牙自身にも当てはまる言葉でもあった。その優しさが変容し、こうも凶悪な魂が生まれるとは。


 優しさに『濁り』が混じった時、人は、道なき道へと誘われる。澄んだ水に墨を一滴垂らせば、たちまち黒水へと変じるように。人の世の成す事に慈悲はないのだと、無情なる何者かが告げているかのようである。


「しかし、忍法を扱うこの身も、所詮は人間。人間のやることには、どうしても限界がある。より多くより広く戦乱の種を撒くには、現状の戦力では力不足だった。そんな時だ。江治前国の藤尾家が持つという、妖獣魔笛の話を耳にしたのは」


 雷牙は首を曲げ、射殺すように囚われの彩姫を睨みつけた。そうして、猛獣に怯える小動物のように彩姫が肩を震わせるのを見て満足すると、再び視線を電七郎へと向けた。


「またとない好機だと思った。笛の力を使い、妖獣を暴走させれば、この世はますますの戦乱に陥る。そうなれば、俺は死ぬまで、この類まれなる忍法を戦場で発揮し続けていられる。故に、神戸に近づいたのだ。しかしだな……姫を護っているのがお前であると知った時、俺にはもう一つの願いが生まれた。何だか分かるか?」


「……」


「お前を、こちら側に引き込むこと。それが俺の、もう一つの願いだった」


「……」


「慚魔三轟忍の面々は、確かに手練れの中の手練れ。その気になれば、単身で小国を滅ぼすほどの力を持っていた。だが、誰一人としてお前ほどの力を得るには至らなかった。事実、こうしてここにお前が辿り着いたことが、それを証明している。お前の心を闇に染め、こちらに引き込むことができれば、慚魔衆の戦力もかなりの補強をみることになる。そう考えたのだ」


「だからお千を……葵光闇を差し向けたのか。俺の心に深い傷を与えて、怨みと復讐心に苛まれた結果、俺が魔道に墜ちることを画策していたというのか」


「人の心というのは存外脆い。良き心を持つ者ほど、実は心の均衡が取れてはいないのだ。それはお前も例外ではないと思っていたのだがな……当てが外れて、正直なところがっかりはしている」


「そうやって、自分の手駒にしたい者を、自分と同じ位置に墜とし、取り込んできたのだな。なるほど、要領を得たぞ。五年前のあの日、〈(よく)〉の者らを千疋湖まで演習に行かせ、その命を助けた目的が。あれも、憎しみの芽を育たせ、ゆくゆくは己に刃を向けるである筈の者の心を、木っ端微塵に破壊する為の策であったのだな」


「察しがいいな。〈(よく)〉の中には、特に小粒が揃っていた。あの、軒猿とかいう奴。あれも良い。お前に勝るとも劣らぬほどの力量の持ち主だ。だが、宿場街での一戦を見るに、あれもこちら側にくることはないだろうな……」


 と、そこで雷牙が咳音を一つ鳴らした。話の区切りを告げるかのように。


「どうやら、雑談が過ぎたようだ」


 雷牙の気が、いよいよ膨れ上がった。見えぬ力の爆発。湖面が激しく波立って泡を吐いた。壮絶な戦いの開始に、震えているかのように。


「お前のせいで慚魔衆は壊滅的損害を受けたが、しかし、これ以上の暴挙は許さぬ。貴様の持つ妖獣魔笛を手に入れ、八洲の真の支配者に君臨してやろうぞ」


 彩姫は、静かに涙を流していた。雷牙の殺気に恐怖を覚えたからではない。電七郎の心を想って、泣いたのだ。


 肉蝮に襲われた晩。王武那爾(オオムナジ)の穴倉で、電七郎は喜々として兄の話を語って聞かせてくれた。雷牙が如何に尊敬できる人物であるかを。そんな兄の弟として生まれてきたことを、心から誇りに思うとも言っていた。


 だが、その慕っていた兄は悪の道に墜ち、慚魔衆の頭領として、電七郎の前に立ち塞がっている。電七郎にとっては、まさに悪夢以外の何物でもないはずだ。彼の身に降りかかった試練を思えば、まるで自分の事の様に、彩姫の心は千々に乱れた。


 それでも、電七郎は、


「彩姫殿」


 太刀を逆手に持ち替え素早く印を結ぶと、空いた左の掌を彩姫に向けて突き出した。咄嗟に、脇に飛び退く雷牙。


 電七郎の掌から、物凄い勢いで何かが放たれ、彩姫の目の前で閃光を吹き上げた。何が何だか分からず、彩姫は咄嗟に目を瞑った。


 閃光が収まったのを感じて目を開く。彩姫が、あっと声を上げて驚いた。自身を石柱ごと、球形状に展開した金色の網が包み込んでいた。あらゆる障害から、守るかのように。


 網の隙間の向こうで、電七郎が頼もしい笑顔を見せている。


「電磁の網による防護壁だ。戦いに巻き込まれぬよう、そこでじっとしておれ」


「電七郎様……!」


「安心せい」


 不敵な笑み。


「お主は俺が護る。命に代えても。それが栗介殿との約束。白鳳の忍士としての誓いだっ!」


 夕焼け色が、より強い赤味を増す。


 雷牙に向き直り、電七郎は鋼の如き強い意志の下で、その印を結んだ。


「それは……!」


 尋常ならざる速度の印契術を見て、雷牙が驚きの声を漏らした瞬間、電七郎の全身から、莫大な量の光が力強く溢れ出した。だが、それも一瞬のこと。地下空間が再び淡い光に照らされる。


 そして、収束する光の中心には、


「白鳳忍軍が副頭。〈稲妻〉の電七郎、推参仕る」


 くすみ一つとして見当たらない、高貴と力強さの象徴たる、銀色の忍装束を纏いし忍士。


 それは、五年ぶりの覚醒を意味していた。


「蘇った……電七郎様が……」


 滂沱の涙を流す彩姫。対照的に、忌々しく舌を鳴らす雷牙。


「俺を前にして、その姿で挑むとは……中々の根性をしているな」


 背負った忍刀を抜くことなく、両手を腰だめに構え、雷牙が気を吐いた。両腕に、禍々しい力が漲り、閃光が放射を描く。電撃を纏った拳。歪にして不気味な力だ。色を見ただけで、そうと分かる。五年前までは紫色に留まっていた電牙の電撃は、もはや後戻りが不可能なぐらい、底の知れぬ暗黒色に染まりきっている。


 そんな変わりきった術を披露する兄を、どこか悲しい目で見つめる電七郎。


 だが、決意は揺らがぬ。


「黒嶺餓悶……いや、雷牙よ。これまでお主がしてきた悪鬼の如き所業、全て、ここで清算してもらうぞ」


「殺すというのか? 実の兄であるこの俺を。いつ何時(なんどき)もお前の支えになっていた俺を、殺すというのか?」


 挑発的な物言いだったが、今の電七郎にとっては、雑音でしかない。


 電七郎はまたもや印を結ぶと、左手の親指で、右手に握った刃の柄を軽く押し込んだ。蒼を超えて、白い、どこまでも白く聖なる力に満ちた稲妻が、刀身を走り抜け、刃の強度と威力を上げる。


 静寂が鳴りを顰め、俄かに、争忍の予感が地下空間を満たした。


「最期に、言い残す言葉はあるか?」


 不敵さを崩さず、雷牙は言った。


 対して、覚悟を決めた男の返答は、


「愚兄の尻拭いをするのも、弟の務めだ。そうであろう? 兄者よ」


「……ほざけっ!」


 白と黒の波動が、尋常ならざる速度でぶつかり合う。


 列柱が衝撃で揺れ、光を湛える湖面が盛大に飛沫を上げて、哭き喚いた。

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